棋界最高峰に君臨し続けている羽生4冠ですが、もし村山聖が生きていたら・・と思わせる才能の持ち主でした。
今日は、若くして夢半ばでこの世を去った彼の誕生日でもあります。
村山 聖(むらやま さとし、1969年(昭和44年)6月15日 - 1998年(平成10年)8月8日)は、将棋棋士、九段(追贈)。
森信雄七段門下。棋士番号は180。
いわゆる「羽生世代」と呼ばれる棋士の一人。
広島県安芸郡府中町出身。血液型はAB型。
兄姉の3兄姉の次男として広島大学病院で生まれる。
5歳のとき、腎臓の難病「ネフローゼ」にかかっていることが発覚。
府中町立府中小学校に入学するも病状が悪化し、5年生まで国立療養所原病院に入院し、院内学級で過ごす。
ともに入院していた子が亡くなることもあった。
入院中に父から教わり、将棋と出会う。
体に障ると何度注意されても朝から晩まで指し続けた。
母には、小学館の学習雑誌、「将棋世界」などの本を持ってきてもらった。
以降頭角を現し、中国こども名人戦で4大会連続優勝。
また、当時タイトルホルダーの森安秀光(棋聖)を飛車落ちで破った。
1981年の小学生将棋名人戦の3回戦で佐藤康光と対局し、敗れている。
1982年府中町立府中中学校1年の中学生将棋名人戦でベスト8に入り(優勝は中川大輔)、その上京の際に伝説の真剣師小池重明と遭遇して指し、勝利している。
谷川浩司が名人になったニュースを聞き、プロ棋士を目指す。
親にとっては青天の霹靂であったが、「好きなことをやらせたい」という思いで、師匠探しをする。
当初所属していた棋会の主催者である元奨励会会員は、まだ奨励会入りには早いと告げ、師匠を紹介するのにあたり態度を保留したように思われた。
その為病身より猶予がないことから他に師匠探しを始め、その当時所属していた日本将棋連盟広島将棋同好会支部の支部長より大阪の森信雄の紹介を受けた母は聖を連れていく。
当時30歳の森は、「一目で気に入った。好きなタイプ。普通の子ではない。」と思ったという。
村山は暑がりなのか、真冬なのに裸足でズックを履いてワイシャツを腕まくりしていた。
1982年、森を師匠とし、奨励会を受験・合格するが、当初紹介されていた元奨励会員も親交のあった灘蓮照に紹介をしており、灘は弟子としての申請を進めていたことから、この師匠を決める際の一悶着を理由に灘が入会に反対したために入会が認められず、森の師匠である当時病床にあった南口繁一の仲裁もあり、翌1983年再受験して5級で入会する。
入会後、大阪で単身で暮らす病身の村山を、師匠の森が同居して親身な世話をして支えた。
村山はしょっちゅう熱を出し、「40度になったら死にます」と言っていたが、実際に41度であっても森は「40度になってない。大丈夫や。」と答えて村山を安心させた。
村山の体調が悪いとき、森はお使いにも出かけた。
村山が少女漫画をたくさん求めると、どこで売っているかさえわからなかった森が、あちこちの書店へ奔走した。
「どちらが師匠かわからない」ということで知られる逸話である。
その後、師匠の家から1分のところで一人暮らしをはじめ、3000冊の少女漫画などの漫画に囲まれて過ごす。
購入するにあたっては同じ巻のものを3冊揃えた。
その内訳は、読む分、書棚に飾る分、保存する分だったという。
また、読書家でもあり、好きな作家にジェイムズ・ティプトリー・Jr.を挙げている。
しかし、関西将棋会館には体調の許す限り毎日のように通い、研究にいそしんだ。
将棋に打ち込みたいあまり無理をしてでも出かけたことも、度々あったという。
1986年11月5日にプロデビュー。
奨励会入会からプロ入りまで2年11か月は、谷川浩司や羽生善治をも超える異例のスピードである(しかも村山は病気による止むを得ない不戦敗がたびたびあった)。
風貌のイメージともあわせ、「怪童丸」の異称で呼ばれる。
しかし有名になったため、悪口も言われるようになる。
村山は髪の毛や爪にも命があり、それを切るのは忍びないという繊細な思いから髪の毛や爪を切ることを極端に嫌がり、独特の風貌であったため、周りから不潔だと噂されていた。
ある日、森に「僕、不潔と言われるんですが、悪いんですかね。」と泣きそうな顔で相談すると、森は「不潔なのは誰でもいややろう。だけど、強くなったら言われなくなる。」と励ました。
また、ある日森が大崎善生とともに公園の中を歩いていると、村山と遭遇。
村山が「しまった」という感じのバツが悪い様子で歩み寄ったところ、森は「飯食うとるか。髪切りや。たまには歯ぁ磨き。手ぇ出し。(手を握って)まあまあやな。」と語りかけ、大崎は強い師弟愛を目の当たりにしたという。
なお、弟弟子に山崎隆之がおり、村山は肉丸、山崎はちん丸というあだ名があった。
奨励会員時代から「終盤は村山に聞け」とまで言われたほどであった。
その代表的なエピソードは、村山を含む棋士達が、A級順位戦の対局を関西将棋会館の控え室で検討していたときのことである。
そこへ、関西の大御所で詰将棋作家でもある内藤國雄が入室してきて「駒(持駒)はぎょうさんある。詰んどるやろ。」と言う。
そこでほとんどの棋士達が一斉に詰み手順を検討し始めたところ、「村山くんが詰まんと言っています。」という声が上がる。
後に内藤は「詰みを発見しようという雰囲気の中で『詰まない』と発言するというのは相当な実力と自信」と賞賛している。
村山の目標は他の多くの棋士と同じく「名人」だったが、10代の終わりで「名人になって早く将棋を辞めたい」とも語っていた。
自分の時間が残り少ないことを裏返しの言葉だとされている。
1989年6月15日夜、雀荘にいる森のところまで村山がわざわざ姿を見せ、「二十歳(はたち)になりました」と話す。
その理由は「20歳まで生きることができて嬉しい」ということであった。
棋士としての闘争心は非常に激しく、ライバル棋士たちに対しては盤外でも敵意を剥き出しにすることが多かったが、羽生善治に対してだけは特別の敬意を払っていたという。
当時、羽生を筆頭として10代でプロ棋士になった者らは恐るべき勢いで勝ち進み、新人類棋士、チャイルドブランドなどと呼ばれ、羽生善治、佐藤康光、森内俊之と村山の4名が、その有力なメンバーであった。
この世代が後に「羽生世代」と呼ばれ、将棋界の中心メンバーとなった。
また、「東の羽生、西の村山」と並び称され期待されたが、体調不良で不戦敗になったり、実力を発揮できないこともあり、実績では羽生に遅れを取った。
1989年9月6日、若獅子戦決勝で羽生に敗れる。
その6日後のC級1組順位戦でも羽生に敗れたが、感想戦が終わって羽生が席を立つ時、「がんばって昇級してください」と声をかけたという。
翌年、1990年10月1日、第13回若獅子戦決勝で佐藤康光を破り、棋戦初優勝。
1992年度に第42期王将戦の挑戦者となり、1993年1月から谷川浩司王将と七番勝負を戦う。
対局用の和服の新調が間に合わず、着たのは公開対局の第3局からであった。
その第3局は矢倉戦となったが、初手から終局まで両者の飛車が一度も動かないという珍しい一局となった。
七番勝負は0勝4敗で敗れたが、「村山らしくない終盤のミス」(谷川談)が何度もあった。
これが、村山にとって最初で最後のタイトル戦となる。
しかし、一方で順位戦では好成績を収め、2年連続昇級で1993年春、B級1組へ昇級する。
1994年1月12日に師匠の森が結婚式を挙げる。
結婚するという話を直接聞かされていなかった村山は、披露宴のスピーチで「新聞に出るまで弟子に黙っているなんて、考えられないと思いますけどねぇ」と笑顔で述べ、列席者達を爆笑させた。
その後村山は関西から関東への移籍を決心。
森も村山自身のためになるとして賛成し、大崎がアパート探しをして数軒の候補に絞った結果、村山は会館から徒歩5分のところに決めた。
東京では遊びも覚え、先崎学、郷田真隆ら棋士仲間と麻雀、酒を楽しみ、人生を語り合い、その際結婚願望も口にしたという。
「聖」の字から「ひじりちゃん」というあだ名をつけられた。
1995年4月、A級八段まで登りつめ、名人位が射程圏となる。
1996年度の終わり、第30回早指し将棋選手権で優勝。
これが村山にとっては新人棋戦以外での唯一の優勝である。
また、同時期の1997年2月28日に竜王戦1組の1回戦で羽生と対戦し、強手△7五飛(70手目)から優勢を保って124手目までで羽生に勝ち、通算対戦成績を6勝6敗としている。
しかし、この頃体調がますます悪化、脱力感や血尿に悩まされるなどして、持ち時間の長い順位戦では成績が振るわず、1997年春、B級1組に降級してしまう。
その直後、進行性膀胱癌が見つかり、東京のアパートを引き払って地元の広島大学病院に入院。
村山は子供を作れなくなるのが嫌だからと手術を一旦拒否したが、同じ手術をした経験のある男性と会わせて体験談を聞かせるなどして医師が説得。
手術を受けることを決断させた。
手術(1997年6月16日)は片方の腎臓と膀胱を摘出するという8時間半の大手術であったが、休場することなく棋戦を戦い続けた。
抗癌剤・放射線治療については、脳に悪影響があって将棋に支障が出ては困るという理由で拒否していた。
手術後の復帰第1戦であった第56期B級1組順位戦2回戦(1997年7月14日)の対丸山忠久戦は、角換わり腰掛け銀の激しい展開から総手数173手という、深夜に及ぶ戦いとなる。
持ち時間の残りがなくなり1分将棋となっていたところで、村山は強引に丸山の玉を詰ましにいったが詰まなかった。
結果は丸山の勝ちで、33手詰めであった。
しかし、病苦に耐えながら指していたとはとても思えない内容の激闘・名局として伝説化されている。
医者には「脱走してでも行く」と告げていた。
この一戦では敗れたものの、1期でA級復帰を決める。
同年度は、NHK杯戦でも決勝まで勝ち上がる活躍。
決勝の相手は羽生であった。
村山優勢で進んでいたが、最後に秒読みに追われてミス(68手目△7六角)をして優勝を逃す。
しかし、局後のインタビューでは、笑顔で「優勝したはずなんですが、ポカしてしまいました」と冗談を言った。
これで羽生との対戦を通算6勝7敗で終えた。
出だし3連敗からの追い上げであった。
1998年春、癌の再発・転移が見つかり、「1年間休戦し療養に専念」する旨を公式発表。
森は「1年休んだら弱くなるぞ」と言ったが、村山は「命のほうが大事ですから」と答え、森は「変わったな」と思ったという。
1998年3月の最後の対局を5戦全勝で終えて将棋対局の場から離れ、そして、A級復帰祝賀会が村山最後の表舞台となった。
1998年版「将棋年鑑」のプロフィールでは、「今年の目標は?」との項目に「生きる」と書き残している。
以降、逝去するまで広島大学病院の名札の無い病室でひっそりと過ごし、1998年8月8日、29歳で死去。
薄れていく意識の中で棋譜をそらんじ、「……2七銀」が最後の言葉であったという。
本人の希望により葬儀は家族のみで行い、葬儀終了後その死が将棋界に伝えられ、大きな衝撃を与えた。
日本将棋連盟はその功績を讃えて逝去翌日の8月9日付けで九段を追贈した。
また、「将棋世界」誌は98年10月号を「特別追悼号 さようなら、村山聖九段。」と題して発行し、無冠の棋士の死を悼んだ。
A級在籍のまま逝去したのは、大山康晴、山田道美、村山の3人だけである。
死後、地元府中町では村山聖杯将棋怪童戦を、日本将棋連盟広島将棋同好会支部・中国放送・中国新聞社と共催し、顕彰に努めている。(ウイッキペディア)
棋士番号とは、4段になって正式にプロ棋士と認められた時点で順番につけられる通し番号です。
病弱な村山の180は、羽生(175)よりは遅いですが、佐藤康光(182)や森内(183)よりも早かったんです。
ウイッキペディアの人物紹介だけでも十分泣けますが、彼について書かれた素晴らしい小説があるので紹介します。
「聖の青春 (講談社文庫)」 大崎善生著 – 2002/5/7 発売
メディア掲載レビュー:
「聖の青春」難病と闘いながら,29年の短い生涯を生き抜いた天才棋士の伝記。
その生涯は純粋で激しく,哀しいが温かい。
水晶のように純粋で,温かい輝きを放つ人生の記録。
(日経NETWORK 2001/10/01 Copyright©2001 日経BP企画..All rights reserved.)
内容紹介:
重い腎臓病を抱え、命懸けで将棋を指す弟子のために、師匠は彼のパンツをも洗った。
弟子の名前は村山聖(さとし)。享年29。
将棋界の最高峰A級に在籍したままの逝去だった。
名人への夢半ばで倒れた“怪童”の一生を、師弟愛、家族愛、ライバルたちとの友情を通して描く感動ノンフィクション。
第13回新潮学芸賞受賞作(講談社文庫)
では、渾身のブックレビュー2本です。
投稿者:tin-toy 投稿日: 2003/8/29
恥ずかしながら、現代将棋界で、これだけすごい成績をあげている村山聖という人を僕は知りませんでした。
以前「将棋の子」を読んで感動した事があったので、この本の存在は知っていました。
それで、文庫本が出たのを機に何気なく海外旅行のお共として買ったのですが、それは失敗でした。
時差ぼけを解消すべく寝続けるべきの飛行機で一睡もできなくなったのと、公衆の面前(飛行機の席)で号泣してしまったからです。
しかも何度も。
最初に涙が出たのは「いかせてくれ」の一言で、その後は、ほぼページをめくるたびに涙が出続けます。
体調のせいで、何日もまんじりともせずに布団にくるまっている時に、水滴の音で自分の命の炎がまだ消えていないことを知る、対局に行くために階段を下りたところで力尽きながら、それでも這ってでも対局に向かう。
たった一つ、名人位を取るためだけに、彼は、なぜ絞り取るように自分の命を削ることができるのか。
こんなに激しい人生が、この現代で、ほとんどリアルタイムで進行していたなんて。
なぜ、生前に彼の活躍を知ることができなかったのか、応援することができなかったのか、それが本当に悔しい。
投稿者:コナン.O.
1998年に夭折した天才棋士、村山聖(さとし)の一生を描いたノンフィクション。
幼少時より「ネフローゼ」という 腎臓の難病を患いながら、プロ棋士となり、ひとつ年下の羽生善治のライバルと目されながら、29歳の若さで逝去した村山の、病気との闘いと将棋への情熱は凄まじいものであった。
「蒲団にくるまり、ただひたすら体を休める。・・・カーテンを閉め切って、部屋を可能な限り暗くしてただじっと体力が回復し、蓄積していく時を待ち続ける。
2日で終わることもあるし、そんな状態が1週間近くつづくこともあった。
水道の栓をゆるめて、洗面器に張った水に水滴がポタポタとしたたるようにしておく。
ポタッ、ポタッと闇の中に響くかすかな音、それがなければ自分が生きているかどうかさえわからなくなってしまう」というネフローゼとの壮絶な闘い。
「わいわいと賑やかに、冗談を言いながら盤をつつきあっていたそんな部屋の雰囲気が、ある瞬間にがらりと一変した。
座っていた奨励会員がさっと立ち上がり最敬礼した。
居合わせたプロ棋士たちも皆何も言わずに会釈をする。
対局中の谷川浩司がフラリと部屋に現れたのである。
・・・立ち上がって最敬礼なんてしてたまるか、お愛想なんか見せてたまるか。
僕はあの男を倒す、あの男を倒して絶対に名人になるんじゃ。
・・・光よりも速いといわれる谷川を自分は追いつづけてきた。
いまさら何に驚き何を恐れることがあるというのだろう。
自分はその光をいつの日か必ずこの手に捕まえてみせる、いつの日か必ず・・・」という将棋への純粋で激しい情熱。
自分の人生が長くないことを知り、いつ倒れてしまうか恐れながら、山の頂(名人)を目指して必死に登り続ける村山の姿には、胸を締め付けられる。
自分の生き方を問われるような一冊。
(2009年9月了)
人生にリミットのある戦いを強いられてたという意味では、村山は名人位までの戦いと、自分の病との闘いを余儀なくされていたわけです。
奨励会の頃から「終盤は村山に聞け」と仲間棋士からも終盤の明るさへの信用を得、将棋の天才少年が集まる奨励会を2年11ヶ月という驚異的な速さで抜け、と順風満帆な棋士生活のようでしたが、年頃の男子なら気になる話題(恋人や結婚など)を極力避け、文字通り森師匠と二人三脚の生活が始まりました。(東京に移ってからは郷田や先崎が側にいたようです)
人生に「もし」はありえませんが、もし彼がネフローゼでなかったら、もし彼が入院して将棋に出会っていなかったら、もし目標となる谷川浩司という存在がいなかったら、と詮無い仮定の話をすればするほど、人生の理不尽な厳しさとそれゆえの精一杯生きようとする美しさが胸に迫ります。
確か、「将棋マガジン」という将棋雑誌で故米長邦雄氏が若手棋士の家に訪問して話を聞くという連載企画があったのですが、村山のボサボサの髪やひげと伸ばし放題の爪など、それらを「自分の中で一生懸命に生きようとする象徴」としてみて無残に切るのが忍びなかったという悲しいコメントが印象に残りました。
そして、対談の後にその若手棋士と一番ということになるのですが、漫画雑誌の山に囲まれた村山の部屋には、将棋の駒が何枚か足りないことがわかり、米長が急遽紙で代用品を作成するという場面は忘れられません。
「聖の青春」は、「なんで僕だけが」という悔しさとどうしようもならない運命を呪いながらも、最短・最速で将棋の最高位を目指した若者の青春の足跡です。
興味があれば是非読んでみてください。
では、最後はこんな記事を。
野際陽子 33年間続ける500円玉貯金で300万円のピアノ購入
NEWS ポストセブン 6月14日(日)
「500円硬貨が、初めて発行された1982年4月から、これまでに使ったのはせいぜい20枚くらいだと思うんです。
今日まで33年間、貯金し続けています」
500円硬貨は重い。だから外で買い物した時のお釣りなどでもらうと、すぐに使ってしまいたくなるけれど、そこを我慢して家の貯金箱に入れてきたと、女優の野際陽子(79才)は語る。
「貯金箱といっても、お菓子の箱等の再利用。500円玉を手にしたら、とにかくその中に入れるんです」
最初はとくに目標や目的があったわけでもなく、なんとなく始めたそうだが、いつの間にか習慣になったと笑う。
「箱がいっぱいになると、どのくらい貯まったのかはわからなくとも、とにかく重い。
その重い箱をよっこらしょと抱えて銀行に持っていくんです(笑い)」
銀行では500円玉だけの預金通帳を作り、他の預金とは厳然と区別して、入金専用にしてきた。
「おろしたのは1度だけ。何年前だったかしら。
300万円まで貯まったところで、自分のために念願のグランドピアノを買ったんです、少し付け足してね(笑い)」
その時のことを思い出すと、思わず笑みがこぼれる。
やった!という達成感と充足感で、幸せに包まれた。
500円玉を塵というには、ちょっと抵抗があるけれど、まさに“塵も積もれば山となる”だ。
「それ以来、また貯金箱に入れる、重くなったら銀行に持っていく、を繰り返しているんです」
そして最近、こんなニュースを目にした。
「初期の認知症の人に共通する行動として、買い物をする時に、小銭が財布にあっても、大きなお金で支払うという傾向があるんですって」
年をとり、計算が苦手になってくると、例えば108円とか216円のものを買うのでも千円札、一万円札をパッと1枚出す。
確かに楽ではあるけれど…。
「それを見た時、毎日の買い物でお釣りの計算をしながら、お金を出し入れすることが大切だと気がつき、ますます積極的に500円玉を貯めるようになりました」
スーパーで買い物をしたり、タクシーの支払いをする時など、合計金額で500円玉のお釣りがもらえるように考える。
支払いが1750円だったら、2250円を出す。
そして500円玉のお釣りをもらう。
「レジ前でこうした計算を瞬時にすることで頭は素早く回転。
認知症の予防にもなるし、お金も貯まるし、一石二鳥じゃございませんこと(笑い)」
500円硬貨が発行された1982年は、村山聖が奨励会を受験した年でもあります。
それから33年間、私には確固として残したものがありません。
では、6-15生まれの有名人です。
774年空海(弘法大師)(僧侶,真言宗の開祖)、1930年平山郁夫(日本画家)、1941年ハリー・ニルソン (米:歌手)、1961年スコット・ノートン (プロレス)、1963年ヘレン・ハント (米:女優)、1969年村山聖(将棋棋士)。
おめでとう!
これがDiscoミュージックです!
Delegation - You And I (1979)
今日は、若くして夢半ばでこの世を去った彼の誕生日でもあります。
村山 聖(むらやま さとし、1969年(昭和44年)6月15日 - 1998年(平成10年)8月8日)は、将棋棋士、九段(追贈)。
森信雄七段門下。棋士番号は180。
いわゆる「羽生世代」と呼ばれる棋士の一人。
広島県安芸郡府中町出身。血液型はAB型。
兄姉の3兄姉の次男として広島大学病院で生まれる。
5歳のとき、腎臓の難病「ネフローゼ」にかかっていることが発覚。
府中町立府中小学校に入学するも病状が悪化し、5年生まで国立療養所原病院に入院し、院内学級で過ごす。
ともに入院していた子が亡くなることもあった。
入院中に父から教わり、将棋と出会う。
体に障ると何度注意されても朝から晩まで指し続けた。
母には、小学館の学習雑誌、「将棋世界」などの本を持ってきてもらった。
以降頭角を現し、中国こども名人戦で4大会連続優勝。
また、当時タイトルホルダーの森安秀光(棋聖)を飛車落ちで破った。
1981年の小学生将棋名人戦の3回戦で佐藤康光と対局し、敗れている。
1982年府中町立府中中学校1年の中学生将棋名人戦でベスト8に入り(優勝は中川大輔)、その上京の際に伝説の真剣師小池重明と遭遇して指し、勝利している。
谷川浩司が名人になったニュースを聞き、プロ棋士を目指す。
親にとっては青天の霹靂であったが、「好きなことをやらせたい」という思いで、師匠探しをする。
当初所属していた棋会の主催者である元奨励会会員は、まだ奨励会入りには早いと告げ、師匠を紹介するのにあたり態度を保留したように思われた。
その為病身より猶予がないことから他に師匠探しを始め、その当時所属していた日本将棋連盟広島将棋同好会支部の支部長より大阪の森信雄の紹介を受けた母は聖を連れていく。
当時30歳の森は、「一目で気に入った。好きなタイプ。普通の子ではない。」と思ったという。
村山は暑がりなのか、真冬なのに裸足でズックを履いてワイシャツを腕まくりしていた。
1982年、森を師匠とし、奨励会を受験・合格するが、当初紹介されていた元奨励会員も親交のあった灘蓮照に紹介をしており、灘は弟子としての申請を進めていたことから、この師匠を決める際の一悶着を理由に灘が入会に反対したために入会が認められず、森の師匠である当時病床にあった南口繁一の仲裁もあり、翌1983年再受験して5級で入会する。
入会後、大阪で単身で暮らす病身の村山を、師匠の森が同居して親身な世話をして支えた。
村山はしょっちゅう熱を出し、「40度になったら死にます」と言っていたが、実際に41度であっても森は「40度になってない。大丈夫や。」と答えて村山を安心させた。
村山の体調が悪いとき、森はお使いにも出かけた。
村山が少女漫画をたくさん求めると、どこで売っているかさえわからなかった森が、あちこちの書店へ奔走した。
「どちらが師匠かわからない」ということで知られる逸話である。
その後、師匠の家から1分のところで一人暮らしをはじめ、3000冊の少女漫画などの漫画に囲まれて過ごす。
購入するにあたっては同じ巻のものを3冊揃えた。
その内訳は、読む分、書棚に飾る分、保存する分だったという。
また、読書家でもあり、好きな作家にジェイムズ・ティプトリー・Jr.を挙げている。
しかし、関西将棋会館には体調の許す限り毎日のように通い、研究にいそしんだ。
将棋に打ち込みたいあまり無理をしてでも出かけたことも、度々あったという。
1986年11月5日にプロデビュー。
奨励会入会からプロ入りまで2年11か月は、谷川浩司や羽生善治をも超える異例のスピードである(しかも村山は病気による止むを得ない不戦敗がたびたびあった)。
風貌のイメージともあわせ、「怪童丸」の異称で呼ばれる。
しかし有名になったため、悪口も言われるようになる。
村山は髪の毛や爪にも命があり、それを切るのは忍びないという繊細な思いから髪の毛や爪を切ることを極端に嫌がり、独特の風貌であったため、周りから不潔だと噂されていた。
ある日、森に「僕、不潔と言われるんですが、悪いんですかね。」と泣きそうな顔で相談すると、森は「不潔なのは誰でもいややろう。だけど、強くなったら言われなくなる。」と励ました。
また、ある日森が大崎善生とともに公園の中を歩いていると、村山と遭遇。
村山が「しまった」という感じのバツが悪い様子で歩み寄ったところ、森は「飯食うとるか。髪切りや。たまには歯ぁ磨き。手ぇ出し。(手を握って)まあまあやな。」と語りかけ、大崎は強い師弟愛を目の当たりにしたという。
なお、弟弟子に山崎隆之がおり、村山は肉丸、山崎はちん丸というあだ名があった。
奨励会員時代から「終盤は村山に聞け」とまで言われたほどであった。
その代表的なエピソードは、村山を含む棋士達が、A級順位戦の対局を関西将棋会館の控え室で検討していたときのことである。
そこへ、関西の大御所で詰将棋作家でもある内藤國雄が入室してきて「駒(持駒)はぎょうさんある。詰んどるやろ。」と言う。
そこでほとんどの棋士達が一斉に詰み手順を検討し始めたところ、「村山くんが詰まんと言っています。」という声が上がる。
後に内藤は「詰みを発見しようという雰囲気の中で『詰まない』と発言するというのは相当な実力と自信」と賞賛している。
村山の目標は他の多くの棋士と同じく「名人」だったが、10代の終わりで「名人になって早く将棋を辞めたい」とも語っていた。
自分の時間が残り少ないことを裏返しの言葉だとされている。
1989年6月15日夜、雀荘にいる森のところまで村山がわざわざ姿を見せ、「二十歳(はたち)になりました」と話す。
その理由は「20歳まで生きることができて嬉しい」ということであった。
棋士としての闘争心は非常に激しく、ライバル棋士たちに対しては盤外でも敵意を剥き出しにすることが多かったが、羽生善治に対してだけは特別の敬意を払っていたという。
当時、羽生を筆頭として10代でプロ棋士になった者らは恐るべき勢いで勝ち進み、新人類棋士、チャイルドブランドなどと呼ばれ、羽生善治、佐藤康光、森内俊之と村山の4名が、その有力なメンバーであった。
この世代が後に「羽生世代」と呼ばれ、将棋界の中心メンバーとなった。
また、「東の羽生、西の村山」と並び称され期待されたが、体調不良で不戦敗になったり、実力を発揮できないこともあり、実績では羽生に遅れを取った。
1989年9月6日、若獅子戦決勝で羽生に敗れる。
その6日後のC級1組順位戦でも羽生に敗れたが、感想戦が終わって羽生が席を立つ時、「がんばって昇級してください」と声をかけたという。
翌年、1990年10月1日、第13回若獅子戦決勝で佐藤康光を破り、棋戦初優勝。
1992年度に第42期王将戦の挑戦者となり、1993年1月から谷川浩司王将と七番勝負を戦う。
対局用の和服の新調が間に合わず、着たのは公開対局の第3局からであった。
その第3局は矢倉戦となったが、初手から終局まで両者の飛車が一度も動かないという珍しい一局となった。
七番勝負は0勝4敗で敗れたが、「村山らしくない終盤のミス」(谷川談)が何度もあった。
これが、村山にとって最初で最後のタイトル戦となる。
しかし、一方で順位戦では好成績を収め、2年連続昇級で1993年春、B級1組へ昇級する。
1994年1月12日に師匠の森が結婚式を挙げる。
結婚するという話を直接聞かされていなかった村山は、披露宴のスピーチで「新聞に出るまで弟子に黙っているなんて、考えられないと思いますけどねぇ」と笑顔で述べ、列席者達を爆笑させた。
その後村山は関西から関東への移籍を決心。
森も村山自身のためになるとして賛成し、大崎がアパート探しをして数軒の候補に絞った結果、村山は会館から徒歩5分のところに決めた。
東京では遊びも覚え、先崎学、郷田真隆ら棋士仲間と麻雀、酒を楽しみ、人生を語り合い、その際結婚願望も口にしたという。
「聖」の字から「ひじりちゃん」というあだ名をつけられた。
1995年4月、A級八段まで登りつめ、名人位が射程圏となる。
1996年度の終わり、第30回早指し将棋選手権で優勝。
これが村山にとっては新人棋戦以外での唯一の優勝である。
また、同時期の1997年2月28日に竜王戦1組の1回戦で羽生と対戦し、強手△7五飛(70手目)から優勢を保って124手目までで羽生に勝ち、通算対戦成績を6勝6敗としている。
しかし、この頃体調がますます悪化、脱力感や血尿に悩まされるなどして、持ち時間の長い順位戦では成績が振るわず、1997年春、B級1組に降級してしまう。
その直後、進行性膀胱癌が見つかり、東京のアパートを引き払って地元の広島大学病院に入院。
村山は子供を作れなくなるのが嫌だからと手術を一旦拒否したが、同じ手術をした経験のある男性と会わせて体験談を聞かせるなどして医師が説得。
手術を受けることを決断させた。
手術(1997年6月16日)は片方の腎臓と膀胱を摘出するという8時間半の大手術であったが、休場することなく棋戦を戦い続けた。
抗癌剤・放射線治療については、脳に悪影響があって将棋に支障が出ては困るという理由で拒否していた。
手術後の復帰第1戦であった第56期B級1組順位戦2回戦(1997年7月14日)の対丸山忠久戦は、角換わり腰掛け銀の激しい展開から総手数173手という、深夜に及ぶ戦いとなる。
持ち時間の残りがなくなり1分将棋となっていたところで、村山は強引に丸山の玉を詰ましにいったが詰まなかった。
結果は丸山の勝ちで、33手詰めであった。
しかし、病苦に耐えながら指していたとはとても思えない内容の激闘・名局として伝説化されている。
医者には「脱走してでも行く」と告げていた。
この一戦では敗れたものの、1期でA級復帰を決める。
同年度は、NHK杯戦でも決勝まで勝ち上がる活躍。
決勝の相手は羽生であった。
村山優勢で進んでいたが、最後に秒読みに追われてミス(68手目△7六角)をして優勝を逃す。
しかし、局後のインタビューでは、笑顔で「優勝したはずなんですが、ポカしてしまいました」と冗談を言った。
これで羽生との対戦を通算6勝7敗で終えた。
出だし3連敗からの追い上げであった。
1998年春、癌の再発・転移が見つかり、「1年間休戦し療養に専念」する旨を公式発表。
森は「1年休んだら弱くなるぞ」と言ったが、村山は「命のほうが大事ですから」と答え、森は「変わったな」と思ったという。
1998年3月の最後の対局を5戦全勝で終えて将棋対局の場から離れ、そして、A級復帰祝賀会が村山最後の表舞台となった。
1998年版「将棋年鑑」のプロフィールでは、「今年の目標は?」との項目に「生きる」と書き残している。
以降、逝去するまで広島大学病院の名札の無い病室でひっそりと過ごし、1998年8月8日、29歳で死去。
薄れていく意識の中で棋譜をそらんじ、「……2七銀」が最後の言葉であったという。
本人の希望により葬儀は家族のみで行い、葬儀終了後その死が将棋界に伝えられ、大きな衝撃を与えた。
日本将棋連盟はその功績を讃えて逝去翌日の8月9日付けで九段を追贈した。
また、「将棋世界」誌は98年10月号を「特別追悼号 さようなら、村山聖九段。」と題して発行し、無冠の棋士の死を悼んだ。
A級在籍のまま逝去したのは、大山康晴、山田道美、村山の3人だけである。
死後、地元府中町では村山聖杯将棋怪童戦を、日本将棋連盟広島将棋同好会支部・中国放送・中国新聞社と共催し、顕彰に努めている。(ウイッキペディア)
棋士番号とは、4段になって正式にプロ棋士と認められた時点で順番につけられる通し番号です。
病弱な村山の180は、羽生(175)よりは遅いですが、佐藤康光(182)や森内(183)よりも早かったんです。
ウイッキペディアの人物紹介だけでも十分泣けますが、彼について書かれた素晴らしい小説があるので紹介します。
「聖の青春 (講談社文庫)」 大崎善生著 – 2002/5/7 発売
メディア掲載レビュー:
「聖の青春」難病と闘いながら,29年の短い生涯を生き抜いた天才棋士の伝記。
その生涯は純粋で激しく,哀しいが温かい。
水晶のように純粋で,温かい輝きを放つ人生の記録。
(日経NETWORK 2001/10/01 Copyright©2001 日経BP企画..All rights reserved.)
内容紹介:
重い腎臓病を抱え、命懸けで将棋を指す弟子のために、師匠は彼のパンツをも洗った。
弟子の名前は村山聖(さとし)。享年29。
将棋界の最高峰A級に在籍したままの逝去だった。
名人への夢半ばで倒れた“怪童”の一生を、師弟愛、家族愛、ライバルたちとの友情を通して描く感動ノンフィクション。
第13回新潮学芸賞受賞作(講談社文庫)
では、渾身のブックレビュー2本です。
投稿者:tin-toy 投稿日: 2003/8/29
恥ずかしながら、現代将棋界で、これだけすごい成績をあげている村山聖という人を僕は知りませんでした。
以前「将棋の子」を読んで感動した事があったので、この本の存在は知っていました。
それで、文庫本が出たのを機に何気なく海外旅行のお共として買ったのですが、それは失敗でした。
時差ぼけを解消すべく寝続けるべきの飛行機で一睡もできなくなったのと、公衆の面前(飛行機の席)で号泣してしまったからです。
しかも何度も。
最初に涙が出たのは「いかせてくれ」の一言で、その後は、ほぼページをめくるたびに涙が出続けます。
体調のせいで、何日もまんじりともせずに布団にくるまっている時に、水滴の音で自分の命の炎がまだ消えていないことを知る、対局に行くために階段を下りたところで力尽きながら、それでも這ってでも対局に向かう。
たった一つ、名人位を取るためだけに、彼は、なぜ絞り取るように自分の命を削ることができるのか。
こんなに激しい人生が、この現代で、ほとんどリアルタイムで進行していたなんて。
なぜ、生前に彼の活躍を知ることができなかったのか、応援することができなかったのか、それが本当に悔しい。
投稿者:コナン.O.
1998年に夭折した天才棋士、村山聖(さとし)の一生を描いたノンフィクション。
幼少時より「ネフローゼ」という 腎臓の難病を患いながら、プロ棋士となり、ひとつ年下の羽生善治のライバルと目されながら、29歳の若さで逝去した村山の、病気との闘いと将棋への情熱は凄まじいものであった。
「蒲団にくるまり、ただひたすら体を休める。・・・カーテンを閉め切って、部屋を可能な限り暗くしてただじっと体力が回復し、蓄積していく時を待ち続ける。
2日で終わることもあるし、そんな状態が1週間近くつづくこともあった。
水道の栓をゆるめて、洗面器に張った水に水滴がポタポタとしたたるようにしておく。
ポタッ、ポタッと闇の中に響くかすかな音、それがなければ自分が生きているかどうかさえわからなくなってしまう」というネフローゼとの壮絶な闘い。
「わいわいと賑やかに、冗談を言いながら盤をつつきあっていたそんな部屋の雰囲気が、ある瞬間にがらりと一変した。
座っていた奨励会員がさっと立ち上がり最敬礼した。
居合わせたプロ棋士たちも皆何も言わずに会釈をする。
対局中の谷川浩司がフラリと部屋に現れたのである。
・・・立ち上がって最敬礼なんてしてたまるか、お愛想なんか見せてたまるか。
僕はあの男を倒す、あの男を倒して絶対に名人になるんじゃ。
・・・光よりも速いといわれる谷川を自分は追いつづけてきた。
いまさら何に驚き何を恐れることがあるというのだろう。
自分はその光をいつの日か必ずこの手に捕まえてみせる、いつの日か必ず・・・」という将棋への純粋で激しい情熱。
自分の人生が長くないことを知り、いつ倒れてしまうか恐れながら、山の頂(名人)を目指して必死に登り続ける村山の姿には、胸を締め付けられる。
自分の生き方を問われるような一冊。
(2009年9月了)
人生にリミットのある戦いを強いられてたという意味では、村山は名人位までの戦いと、自分の病との闘いを余儀なくされていたわけです。
奨励会の頃から「終盤は村山に聞け」と仲間棋士からも終盤の明るさへの信用を得、将棋の天才少年が集まる奨励会を2年11ヶ月という驚異的な速さで抜け、と順風満帆な棋士生活のようでしたが、年頃の男子なら気になる話題(恋人や結婚など)を極力避け、文字通り森師匠と二人三脚の生活が始まりました。(東京に移ってからは郷田や先崎が側にいたようです)
人生に「もし」はありえませんが、もし彼がネフローゼでなかったら、もし彼が入院して将棋に出会っていなかったら、もし目標となる谷川浩司という存在がいなかったら、と詮無い仮定の話をすればするほど、人生の理不尽な厳しさとそれゆえの精一杯生きようとする美しさが胸に迫ります。
確か、「将棋マガジン」という将棋雑誌で故米長邦雄氏が若手棋士の家に訪問して話を聞くという連載企画があったのですが、村山のボサボサの髪やひげと伸ばし放題の爪など、それらを「自分の中で一生懸命に生きようとする象徴」としてみて無残に切るのが忍びなかったという悲しいコメントが印象に残りました。
そして、対談の後にその若手棋士と一番ということになるのですが、漫画雑誌の山に囲まれた村山の部屋には、将棋の駒が何枚か足りないことがわかり、米長が急遽紙で代用品を作成するという場面は忘れられません。
「聖の青春」は、「なんで僕だけが」という悔しさとどうしようもならない運命を呪いながらも、最短・最速で将棋の最高位を目指した若者の青春の足跡です。
興味があれば是非読んでみてください。
では、最後はこんな記事を。
野際陽子 33年間続ける500円玉貯金で300万円のピアノ購入
NEWS ポストセブン 6月14日(日)
「500円硬貨が、初めて発行された1982年4月から、これまでに使ったのはせいぜい20枚くらいだと思うんです。
今日まで33年間、貯金し続けています」
500円硬貨は重い。だから外で買い物した時のお釣りなどでもらうと、すぐに使ってしまいたくなるけれど、そこを我慢して家の貯金箱に入れてきたと、女優の野際陽子(79才)は語る。
「貯金箱といっても、お菓子の箱等の再利用。500円玉を手にしたら、とにかくその中に入れるんです」
最初はとくに目標や目的があったわけでもなく、なんとなく始めたそうだが、いつの間にか習慣になったと笑う。
「箱がいっぱいになると、どのくらい貯まったのかはわからなくとも、とにかく重い。
その重い箱をよっこらしょと抱えて銀行に持っていくんです(笑い)」
銀行では500円玉だけの預金通帳を作り、他の預金とは厳然と区別して、入金専用にしてきた。
「おろしたのは1度だけ。何年前だったかしら。
300万円まで貯まったところで、自分のために念願のグランドピアノを買ったんです、少し付け足してね(笑い)」
その時のことを思い出すと、思わず笑みがこぼれる。
やった!という達成感と充足感で、幸せに包まれた。
500円玉を塵というには、ちょっと抵抗があるけれど、まさに“塵も積もれば山となる”だ。
「それ以来、また貯金箱に入れる、重くなったら銀行に持っていく、を繰り返しているんです」
そして最近、こんなニュースを目にした。
「初期の認知症の人に共通する行動として、買い物をする時に、小銭が財布にあっても、大きなお金で支払うという傾向があるんですって」
年をとり、計算が苦手になってくると、例えば108円とか216円のものを買うのでも千円札、一万円札をパッと1枚出す。
確かに楽ではあるけれど…。
「それを見た時、毎日の買い物でお釣りの計算をしながら、お金を出し入れすることが大切だと気がつき、ますます積極的に500円玉を貯めるようになりました」
スーパーで買い物をしたり、タクシーの支払いをする時など、合計金額で500円玉のお釣りがもらえるように考える。
支払いが1750円だったら、2250円を出す。
そして500円玉のお釣りをもらう。
「レジ前でこうした計算を瞬時にすることで頭は素早く回転。
認知症の予防にもなるし、お金も貯まるし、一石二鳥じゃございませんこと(笑い)」
500円硬貨が発行された1982年は、村山聖が奨励会を受験した年でもあります。
それから33年間、私には確固として残したものがありません。

では、6-15生まれの有名人です。
774年空海(弘法大師)(僧侶,真言宗の開祖)、1930年平山郁夫(日本画家)、1941年ハリー・ニルソン (米:歌手)、1961年スコット・ノートン (プロレス)、1963年ヘレン・ハント (米:女優)、1969年村山聖(将棋棋士)。
おめでとう!

これがDiscoミュージックです!
Delegation - You And I (1979)