魏の歴史は三国志の中で最もっともユニークなパタンになる。

まず建国の父=曹操の歴史を見てみる。曹操は皇帝を人質とし、彼の最大な敵は世襲制士族であり、その代表人物は袁紹である。曹操は身分が低く、宦官の養子の息子で、同時の世襲制士族階級社会では国のトップになれない(なれる道がない)。曹操は士族を憎んでいた。孔融、楊彪など代表的な士族は曹操の手に殺された。曹操はその士族の秩序を打破し、新しい秩序を立てたいところが、その夢はかなわなかった。

蜀や呉は世襲制士族に勢力に滅ぼされ、魏はどうでしょう。結果をみると魏は世襲制士族に利用され、世襲制士族が魏を乗っ取った結果になった。

曹操は士族の世襲特権を阻害したに対し、その息子の曹丕は妥協して、士族に特権を戻した。その代表は陳群、司馬懿。最終的に魏は士族に乗っ取られ、滅亡するといった運命となった。

三国志の歴史は曹操、孫権、劉備(諸葛亮)が士族特権に挑戦する歴史であり、三ヶ国ともに失敗で終わり、中国の歴史は晋と南北朝に入り、士族階級の特権が最高に振るった乱世の400年に入る。
呉の国の統治集団は構成は以下の三つからなる。

1、南下名士:北の戦火から亡命し、南下した士族。代表人物:張昭、魯粛
2、淮泗家将:孫権、孫策と共に戦って来た荊州の武将。代表人物:周瑜
3、南方士族:江南の地に代々住み着いた世襲制士族:代表人物:陸遜、顧雍

孫権は世襲制士族の力を知っていた。江南に定着するには彼らとの同化政策を取っていた。孫権が皇帝に即位したのち、陸遜を大将軍に、顧雍に丞相に任命した。文武とも南方士族に権力を委ねた。

しかし孫権を含め、のちの呉の皇帝は誰しも南方士族を信頼したわけではない。陸遜は孫権に猜疑され、憂鬱で病死したのがその証拠である。末代の孫皓は酷刑を使い、大量な士族を殺し、ついに呉の崩壊を招いた。

呉の崩壊の理由は蜀と同じ、現地士族の支持を得られなかったことにある。その違いは政策の手段が異なるにある。

蜀の政策は法律のもとで世襲制の士族階級を打破することを試みたが、呉は士族と同化政策をとり、それに失敗した。


諸葛亮が5回(演義では6回)にわたる北伐は何のためなのか?勝つ見込みはあるのか。答えは魏を討伐ではなく、別の政治目的がある。理由を示す。

1、当時蜀の人口=GDPは魏の3割程度、冷兵器時代では人口=戦闘力なので、実力的には魏に勝てるはずがない

2、出師の表に語る理由が成り立たない。諸葛亮が言う最大な敵は北方。しかし赤壁の戦い以来、魏は一度も蜀を侵略したことがない。襄樊の戦い、漢中の戦い、後の北伐、いずれも蜀からちょっかいを出している。魏は戦争を望んでいなく、敵ではないゆえ、出師の表の記述は諸葛亮の口実に過ぎず、北伐の目的は別にある。

3、諸葛亮は北伐が勝てないことを知っていた。勝つつもりもなく、そのため、戦争の目的は戦争そのものを発起し、そして全兵力を温存して戦争を終結する。そのため魏延が提唱する子午谷進軍の提案はリスクを追って戦争を勝つための良策であっても、採択されるはずがない。

4、蜀の最大な問題は内部不団結。統治階級は3つ巴のにらめっこ。そのときもっとも有効な内部結束方法は共同な外敵を作ること。かつて幕末時代に坂本竜馬も同じ手を使っていた。

5、諸葛亮は法治国家の建設を望んでいた。法律のもとで集団闘争の問題を解決し、平等な世界の夢をみていた。最愛の愛弟子馬謖を処刑したのもこの理由である。

北伐を通して内部権力闘争を一旦沈め、その間に法律を制定し、その法律のもとで国を治め、世襲制の士族秩序を打破することが諸葛亮の設計図である。しかし夢は夢で終わった。諸葛亮死後、劉禅はその設計図を継続せず、蜀は人治国家に戻った。蜀が滅びた理由は現地の士族の支持を得られなかったことにある。

結論結論を先にいうと、内部崩壊が原因である。

蜀の歴史を見ると、統治階層が三つの派閥からなる。
1、現地人:従来蜀に積みついた人たち。代表人物=張松、黄権、譙周。
2、東州軍団:劉焉/劉璋父子が入蜀した際に率いた官僚階層。代表人物:王累、劉巴、孟達
3、荊州軍団:劉備が入蜀した際に率いた官僚階層。代表人物:諸葛亮、李巌、蒋琬、费祎

三つの派閥はそれぞでの政治目的が異なる。

まず、現地人を見る。彼らは世襲制士族であり、蜀の古来の統治者である。東州軍団が入蜀した際、彼らの地位が脅かされ、彼らのパイ(の一部)が奪われた。そのため、彼らは本質的に劉璋を支持していない。劉備が入蜀した際、張松をはじめ、劉備軍団を迎えた。当然、彼らは劉備を支持したわけではない、劉備の力を借りて劉璋を追い出したかった。劉備が夷陵の戦いで敗れた際、黄権は大量の水軍を率いて曹丕に下った。彼らは劉璋にも劉備にも忠誠心はない。

次の東州軍団ですが、もちろんあとから来た荊州軍団には忠誠心がない。孟達の反復は定型的な例である。

荊州軍団は劉備入蜀してから実質上最高権力を握った。しかし現地人のサポートを得られなかった。とくに諸葛亮死後に権力闘争が表面化、最終的に崩壊に至った。

劉禅なぜ戦わずに降ったのか
1、戦には勝てない。
2、譙周をはじめとした現地人から降伏を勧めた。
3、南へ逃走しても、現地人が着いてこないとみた。

上記の状況で、現地人は自分たちの蜀を取り戻すため、魏の軍隊を解放軍として迎え入れ、劉禅を売った。その後、司馬昭は荊州官僚をすべて中央政府に人事異動し、蜀を現地人に返した政策を取ったため、晋王朝にとってやっと蜀を服した。