「I want to ride my bike.」









この季節になると思い出すことがあります。

何度か書いていますが、僕は4人きょうだいの長男です。
長男という立場は、いつも新しい服や靴を買って貰えたり、
写真をたくさん撮ってもらえていたりして、他のきょうだいたちが
主にお下がりを着せられたり、子供の頃の写真が少なかったりするのに
比べて何かと得なことも多いです。

その反面、親にとってのはじめての子供は、躾が厳しくなったり、
少しでも危険なことをさせて貰えなかったりと、過保護気味に育てられる
ところもあります。お小遣いも門限も自分の時が一番厳しく、
きょうだいの順番に緩やかになっていきます。

長男は、何かあるごとに権利(笑)を勝ち取るために、親とあの手この手を
使ってバトルしなければならないのですが、他のきょうだいたちは、
何もせずにその既得権利を享受できます。少しうらやましったですが、
今思えば、それを親に認めて貰うために戦う過程は、僕の成長の大切な
プロセスだったかもしれません。

親と戦ったことで一番覚えているのは、子供の頃の自転車を巡る戦いです。

確か幼稚園の年長組くらいのころ、僕は自転車が欲しくて仕方が
ありませんでした。一緒に遊んでいた友達は、それぞれ親に自転車を
買って貰っていて、遊ぶときは友達たちは自分の自転車に乗り、
僕はその後を走って追いかけていました。

初めは補助輪付きだった自転車も友達たちはだんだんそれを
外していきます。上手な子は、手を離して運転できたりして。
たまには、友達に自転車を貸して貰ったりしましたが、
自分の自転車がないということは、僕の大きなコンプレックスでした。
何か自分だけ取り残されていくような気がして、焦りさえ感じていました。

その時僕の家は、それほど貧乏だとは感じていませんでしたが、
他の友人たちが、ポテトチップスを一人で一袋食べているのを
しり目に、4人で一袋分けて食べたりしていて、子供心に自転車を
買ってくれなどとは言えるようなカンジではありませんでした。
父は、毎晩朝早くから夜遅くまで働き、母は幼い子供の世話で
大わらわだったからです。

後編へつづく)

「めでタイ!」







昨夜寝るときは99人だった僕のブログの読者登録。
朝起きてみると、1名増えて100名に!

最近は、ライブドアやエキサイトからも訪問者や
TBが来るようになり、記事を書いていてもすごく
やりがいがあります。

いつの間にかジャンル別順位もあり得ないところまで
上がっていますが、この上は鉄壁の3ブログですから、
もうこれ以上は望めないでしょう。(笑)

次は読者登録千人目指してがんばります。

これからも「育児オトコへの道」をよろしくお願いします。

「20歳の原点」






このテーマについては、前回で終わりのはずだったのですが、
皆さんのコメントや記事を見て、思い出したことがあったので、
付け加えます。

青春時代(死語)は、誰でも少しは悩むものですが、僕も人並みに
「生きるとは」「大人になるとは」ということで悩んだりしました。
かといって誰かに話すという訳ではなく、ひたすら本を読みあさり、
答えを探そうとしていました。

そんなとき、一冊の本の以下のようなフレーズに出会いました。

「ひとりであること 未熟であること それが20歳の原点」

確か、学生運動が盛んだった時に学生であって最終的には
鉄道に飛び込み自殺をした女学生、高野悦子さんの「20歳の原点」
の中のフレーズだったと思います。出版時はベストセラーになって、
映画化もされたような有名な本です。

この言葉には、衝撃を受けました。

それまで、僕は大人というのは知識があり、心も安定していなければ
ならない、と思っていました。
だから心が迷っている僕は、子供なのだ、と。

しかし、この言葉は違います。自分が「未熟であること」を認めることが
20歳、つまり大人の原点だというのです。
「知らないことを知ることが知ると言う」という中国かどっかの
言葉がありますが、結局、死ぬまで未熟であり完璧にはなれない人間の
大人と子供の境を見事に示しています。

また「ひとりであること」は、親の保護や他人への依存心とどうつきあうか
ということを示しています。たしかに「人は一人で生きられない」のですが、
その前提として「ひとりであること」がなければ、その関係に何かと問題が
出てきます。結婚、親子、職場、友人などの関係について考えるとよく分かる
と思います。

「未熟であること」からスタートし、知識や経験を取得し、
「ひとりであること」からスタートし、他者との関係を結ぶ。

そのスタート地点に立った人を僕は「大人」と呼びたいと思います。

「そういうお年頃」







急な用事で週末は、奥さんと実家に帰ってきました。
僕の母親が自転車で転倒して入院したからです。
自転車での単独事故ですが、おもったより深刻で、
手術と2ヶ月以上の入院を余儀なくされるような大ケガです。

普段は、まだ親も現役で(団塊の世代!)遠くで暮らしていることに
お互いにそれほど不自由は感じていなかったのですが、
(僕は北海道、親は関西のある街にいます。)
こんなときはやはりちょっと困ります。
実は昨年は奥さんが内地に住む母親を病気で亡くしており、
その間も行ったり来たりで精神的にも経済的にも大変でした。

今回の帰郷では、かなりショックを受けている様子の母親の話を
たくさん聞いてやり、きょうだいや父親と今後のことなどを話し合ってきました。
そして、いつになく弱気な母親や全ての家事を一手に引き受けていた
母親がいなくなって戸惑っている父親をいたわり、励ましていると、
妙な感慨に陥りました。

僕が知っている親は、時には強引過ぎるくらい強くて、子供には弱気なところを
一切見せない人たちでした。そんな親に反発したり、尊敬したりしながら、
僕は育ってきたのです。

しかし、今僕の前にいる親は、一方的に不安を口にし、弱気な姿を見せ、
子供のように泣き、怒り、叫びます。僕はそれを懸命になだめ、
将来に希望を抱かせ、不安を取り除いてあげられるように努力します。
まるでこちらが親になったようです。

そういう親の姿を見て「情けないなあ。子供に面倒かけるなんて」と
思う気持ちも正直なところある一方、自分が親に頼られることに自分の
成長を認められたような、嬉しい気持ちもあります。

僕は大人になったんだ、と。

子供が大人になるとき、その定義はいろいろあると思います。
法律的にだとか身体的にだとか精神的にだとか切り口もいろいろです。

僕が思う精神的な面での大人になるという定義は、

「親が完璧でないことを認められること」

つまり、親も一人の人間であるということを認められるということです。

子供の特徴の一つとして、親や他人に完璧さ・万能性を求めると
いうものがあります。
これは、依存心という形で、誰もが他人に対して多少なりとも
持っているものですが、大人になりきれない人は、いくつになっても
親に対するそれを捨てられないでいます。
ちょっとでも親が弱気なところをみせると、過度に反応し、非難を
浴びせるような人もいます。

親が子供に過度の保護を与え続けるあまり、子の親離れ(=親の子離れ)
が出来ないでいるような家では、少しでも歯車が狂うととんでもないことに
なることもあるようです。親は自分を保護してくれるだけの存在であって、
自分が保護しなければならない存在であるとは到底考えられないからです。

そう考えると、現在の若者(だけじゃないけど)の「大人なりたくない症候群」
という現象は、親の過保護が招いている部分もあるのかもしれません。

かといって、多くて一人っ子や2人の子供が多い現代の日本では、
過保護気味になってしまうのも致し方ないのでしょうけれども。

理想を言えば、子供の自立のためには、5人~6人くらい子供をもって、
あまり隅々まで目を行き届かせず大雑把に育てるくらいがいいのでしょう。
そうすれば、子供の方が「親はいっぱいいっぱいだな」と大人になる自覚を
早く持つのかもしれませんから。(笑)

そういった意味からも、子供をたくさんもてる世の中になって欲しいものです。

「この記事が いいねと君が 言ったから
11月5日は フジタ記念日」




昨夜、いつものように藤田社長のブログを訪問してびっくり!
なんと、以前書いた僕の記事が取り上げられていました。

実はそれを見つけたのは、熱烈な藤田さんファンである奥さんで
声にならないうめき声を上げていたので、ウイルスにでも感染した
のかと思っていると、今度は

「だこ!だこ!」

と夜中だというのに大声をあげて僕を呼ぶのです。

奥さんは、いつも見慣れた緑のシンプルな藤田さんのブログを
指差しています。なんだろうと思って覗いてみると、そこには
どっかで見たような文字が。

「挽回の世代」

一瞬我が目を疑いました。しかし、読み進めてみると確かに僕の書いた
記事です。しかも、藤田社長のコメントに、

「いい言葉ですね」

とのお褒めの言葉が!

その後は何度も何度も記事を読み返し、奥さんとダンスを踊り(笑)、
興奮して遅くまでいろんなことを話しました。
普段は滅多なことでは興奮しない僕ですが、昨夜ばかりは
遠足の前の日の子供のように眠れませんでした。

素直に嬉しいです。昨日は人生で一番藤田社長に近づけた日でした。
我が家では、毎年この日を「フジタ記念日」と名付けて祝うことにします。(笑)

夫婦の記念日は多ければ多いほどいい。



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「僕は泳ぐ。君のもとへ。」







前回の記事から少し成長し小学校高学年になった僕は、当然のごとく(笑)
さらにセックスについて関心を持ち始めました。
小学校の高学年と言えば、学校でも保健か何かで「性教育」の授業が
行われる頃でもありました。

男女が別々の教室に集められて「おしべとめしべが・・・」といったところから、
「男性のペニスから精子が放出され、女性の卵巣の・・・」といったところまで、
図解や本で教えられます。

僕は勉強熱心だったので(笑)、そんなことはとっくに知っていたのですが、
それでも一つだけよく分からないことがありました。
それは「どうやって、男性の精子が女性の卵子にたどり着くのか。」
ということでした。

精子と卵子が結合して受精するのは分かります。
授業で見た鮭のオスはメスが生んだイクラに白い精子をふりかけていました。
メルモちゃんでも、たくさんの精子がいっせいに卵子を目指す絵
が出ていました。しかし具体的な場面はなし。(当たり前)

卵子は卵巣の中にあるし、精子は精巣の中にあるし、どうやってたどりつく
のだろうか・・・それが分かりませんでした。

もちろん、テレビや映画などで男女が裸であんあん言っているのは
知っていましたが、それは「反社会的な」「いやらしい」人がすることで
僕の親がそんなことをするわけがない、と思っていました。

僕は、一度くらいはあんあんしてみたいなと思っていたので、それをするには
まっとうな人生を捨てなければならないのか、と少しだけ悩んだものです。(笑)

それで考えて考えて、ひょっとしたらそうかなあと思ったことは、
「あ、そう言えばお母さんとお父さんは一緒に風呂に入るなあ」
というものでした。つまり、

「男女が恋に落ちる」 → 「結婚する」 → 「一緒にお風呂に入る」
→ 「精子が浴槽の中を泳ぐ」 → 「卵子と出会う」 → 「受精!」

何せ精子は実際もすいすい泳ぐそうですから。(笑)

それにしても、

「男女が恋に落ちる」 → 「結婚する」 → 「一緒にお風呂に入る」

という三段論法が子供らしくて可愛いですね。我ながら。

さて、これはどう教えればいいのでしょう。
今は、昔と違ってインターネットや雑誌など性の情報が得やすく
なっていますので、子供は僕のように悩むことはないでしょう。
親が教えるまでもないかもしれません。

しかし、それでも僕はあえて親は子供に直接教える必要があると
思います。時期は子供それぞれでしょうが、女の子なら初潮が
来たとき、男の子ならひげが濃くなってきたときくらいが、
いいかもしれません。つまり、作ろうと思えば(思わなくても)
赤ちゃんが出来てしまう体に子供がなったころです。

雑誌やインターネットの情報は、どなたかがコメントして頂いた
ように、セックスの刺激的で気持ちいい部分だけを取り上げます。
しかし、避妊や堕胎や病気のことはまず取り上げません。
親からの教育で必要なのはその部分です。これは、教育というよりも
むしろ、本人の防衛のためと言ったほうが良いかもしれません。

安易で無防備なセックスが、どういった結果をもたらすのか、
堕胎はどのように行われるのか、どこかの中学教師がしたように、
子供の気分が悪くなるくらい具体的に話すべきです。
機会があれば、タイなどにあるエイズ患者の施設を訪ねてみるのも
良いかもしれません。
(そのうち日本にもできるでしょう。大流行だそうですから。)

先輩方のご意見、お待ちしております。

「お父さん、僕はどこから生まれてきたの?」

「困ったぞう~」




これまで育児について思いつくことをいくつか記事にしてきました。

実は、今回のテーマについても前々から書きたいと
思っていたのですが、なかなか書けずにいました。
自分の中で考えがまとまっていなかったことが主な理由です。

今でも、完全に考えがまとまっているとは言い難いです。
調べれば調べるほど、考えれば考えるほど、難しい問題だと感じます。
しかし、ぷれこさんうなさんの記事を読んで、
やはりこれは育児を考える上で、避けては通れない道である
ことをあらためて強く認識しました。

そこで、このテーマについては、皆さんの意見や経験を
お伺いしながら何回かに分けて、記事にしていきたいと
思います。とりあえず今回と次回の記事では自分の受けてきた
性教育について書きます。

まずは「赤ちゃんはどこから産まれてくるのか」についてです。

僕が子供の頃、初めてそのことについて興味を持ったのは、
おそらく一番下の妹が生まれた時だったかと思います。
僕とその妹は7つ年が離れているので、小学校の1年生か
2年生くらいのことでした。

日に日に大きくなっていく母親のおなかを見て、ごく自然に
「赤ちゃんはどこから産まれるの?」と母親に尋ねました。
すると、母親はきっぱりと「女には第3の穴があり、子供が
産まれるときにそこが開くのだ」と教えてくれました。
今思えば少々生々しい感じもしますが、その時は全くそんな
印象は受けませんでした。

むしろ僕はその当時、「赤ちゃんが産まれるごとにお医者さんが
母親のおなかを切るのだ」と思っていたので、少し安心したのを
覚えています。なにせ4人目のきょうだいでしたから、母親の
おなかの傷がそれ以上増えることに耐えられなかったのです。

このように僕が受けた一番初めの性教育は、まるで生物学の授業の
ようなあっさりしたものでした。

世の中には変に隠して「コウノトリが運んでくる」とか、
「桃から産まれてくる」とかいう(桃太郎かよ!)家庭もあるようですが、
当の子供にとっては「む、なんか隠してるな?」とすぐ分かるような嘘を
つかれるよりも、ずばり言ってもらってよかったと思います。

親が何かを隠そうとする雰囲気は子供であってもすぐに分かりますし、
むしろそっちの方が性に対して「あ、やばいことなんだ」という
意識を植え付けることになる気がします。

その結果、思春期に親に反抗したい子供は、幼少の頃に植え付けられた
「やばいこと」を利用しようとするのではないでしょうか。
それはそれで自然なんでしょうけど。
ただ、性の神秘性や崇高性はしっかり教えておきたいわけで、
その加減は本当に難しいですね。
「やばいこと」は、裏を返せば神秘性を意味しますから。

次回は僕が一歩進んで「どうしたら子供はできるか」を
いかにして知ったかについて書こうと思います。



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「君といるところが、HOME」







新潟で地震が発生してから、10日あまり経ちました。
いまだに避難生活を余儀なくされている方も多数いらっしゃるようです。
亡くなられた方、負傷された方にお悔やみとお見舞いを申し上げます。

さて、テレビの映像や新聞で今回の災害のすさまじさを目の当たりにし、
改めて思ったことがあります。
それは、以前、家は買わない。の記事でも書いた、
「家を所有することのリスク」についてです。

その記事を書いた際、すみくさんから、

賃貸の場合、老後の年金暮らしから、家賃を生涯負担しなければ
ならないし、高齢になると家が借りにくくなるというデメリットがある


という意見を頂きました。

確かに、大家さんによっては年をとった人に住宅を貸さない、
という人もいるようです。
一人暮らしの老人ならなおのことで、部屋の中でいつの間にか
死んじゃって腐乱死体にでもなられたら、不動産の価値が
下がってしまうし、何より目覚めが悪いですものね。

多くの老人は収入が年金のみであるので、家賃滞納のリスクも
あるでしょう。払えなかったからといって追い出せませんし。
僕が大家さんでもそう考えるかもしれません。

しかし、これらのリスクはそれに対して準備したお金か
収入源さえ持っていれば、全て避けられるリスクです。
家賃滞納を恐れる大家さんなら、1年分くらい前払いすることを
持ちかけることもできますし、一人暮らしや病気の問題は
賃貸であろうとなかろうとありうることですので、
前もって老人ホームに入るなど準備することが可能です。

もちろん、その時にそんなにお金を持っているとは限りません。
ひょっとしたら、家を買わない僕は、将来老人になって住むところが
なくて呆然としているかも知れません。
精神衛生上、持ち家があるということは、将来への不安の解消になる
というのは良く分かります。
住宅ローンさえ、なければ、ね。

しかし、賃貸はそうならないために今からいろいろ準備が出来ます。
より稼いだり、貯金をしたり、物価の安い外国に移り住んだり、
家族の人数の変化に応じて最も効率のいい広さの住宅に住んで、
生涯の住宅にかかるコストを調整したりするようなことです。

よく、住宅雑誌などに借りると買うとどっちがお得?なんて企画があり、
結論としてどちらも生涯における資金的には同じ、なんて記事が載ります。
それはそれで正しいのですが、ひとつ抜けている視点があります。
たとえば、購入派は、4LDKのマンションを一度買ったら、家族が増えようと
減ろうと一生その広さに対するコストを支払わなければなりませんが、
賃貸派は、その時々の家族の規模にあわせて広さに対するコストの支払いを
変えることができるという点です。
また、収入の増減にあわせて家のグレード(豪華さや便利さ)を変更できるか
どうか、という違いもあります。その差は実はかなり大きい。

大切なのは将来の避けられないリスクに対して準備が出来るかどうかと
いうことではないでしょうか。
そんなことを、地震で崩れ落ちた家が散乱する映像を見ながら考えました。

地震。雷。火事。リストラ親父。離婚。台風。介護。治安の悪化。

どちらがより準備の選択肢があるでしょうか?


※前回・今回の記事については、あくまで経済上の損得の話をしています。
家を持つことによる精神的な充足感や幸福感などは考慮に入れていません
ので、あしからず。そういう部分はまさに人それぞれですから。



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「アメブロの特性を完璧に表した素晴らしい
キャラクター」




このたび、育児休暇を取得することにした僕ですが、
そのまま専業主夫になるつもりは毛頭ありません。

もちろん、育児休暇を取得している間は僕が主体的に
家事・育児をやるつもりですが、もちろん働いている
奥さんにもその間も育児と家事の一部分は担って貰うつもりです。

「奥さん働かせて自分は休むくせに」と思う方もいるかも知れません。
しかしこれは、逆に専業主婦の夫が全く育児や家事をしなくていいのか、
と考えれば、別におかしくないことであることが分かると思います。

当然、将来彼女が仕事を休んで、僕が扶養する事もありえます。
たまたま今回は、彼女の会社が拡大期にあって手が離せず、なおかつ
彼女も働き続けることを望んでいました。
僕は会社員という立場で、ありがたいことにそういった制度も整っています。
それで、僕が育児休暇を取り、彼女が働くという選択をすることにしました。
あらゆる面でそれが合理的だからです。

結婚すれば(別に法律的に、でなくてもいいのですが)、
人生のある時期に、どちらかがいったん足を止めてサポートに回ることが
必要な場面が出てきます。
今まではその適性に関わらず男性が働き、女性は介護や家事や
育児を担ってきました。

しかし、その役割の硬直性が男性に結婚に対して過度のプレッシャーと、
女性にどうしようもない閉塞感を与えてきました。
それが、昨今の婚姻率の低下と離婚率の増加の主たる原因だと僕は思います。

二人が主体的に人生を生きる人間であれば、その時の状況やそれぞれの
適性に応じて人生の選択肢が広がります。
時期によって、共働きをするのもいいし、専業主婦(夫)もありですね。
週末婚も寂しいけどありでしょう。資金計画して夫婦無職で外国を
放浪するのもいいですね。イラクは行きませんが。

僕の考える結婚の最大のアドバンテージは、迫り来る様々な
人生の出来事に対してまさに「アメーバ」のように柔軟に形を変え、
対応することが可能なところだと思います。
なかなか難しいですけどね。



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「いざ、出発!」









来年夏頃からの育児休暇取得を目指している僕にとって、
今月から数ヶ月は勝負の日々です。

今までは、頭の中でいろいろ計画していましたが、
今度はそれを実行に移していかなくてはなりません。
とりあえず今日は、申請書の前段階である人事上の
要望書のようなものを上司に提出しました。

内容はこんなカンジです。

「妻が会社を経営しており、双方の両親も遠方にあるため、
私が主体的に育児をしなければならない環境にあります。
つきましては育児休暇を申請したいと思っております・・・云々」

育児休暇は、詳しくは後日記事にしたいと思うのですが、
法律に定められたれっきとした権利であり、取得することに
関しては、よほどのことがない限り会社側は認めなければならないものです。
しかし、実際は女性はともかく、男性が取得することに関しては、
事例が少ないこともあり、まだまだ一般的ではありません。

おそらく僕も、今回の要望書を提出したことによって、数日後に
上司に呼ばれ、出世に響く、だとか、周りの人にしわ寄せがいく、だとか、
君がいないと困る、だとか(←これは言われないかも(笑))
いわゆる脅し・すかしが入り混じった細かいヒアリングが
始まると思われます。

さらに、近いうちに僕は職場の誰もに
「男性ながらに育児休暇を取得しようとしている○○な人」
という視線を浴びせられるようになることが予想されます。

しかし、賽は投げられました。もう後戻りはできません。
僕の人生は何より僕と奥さんと子供のためにあるのですから。

僕は、育児オトコへの「道」を歩いていくのだ!



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