「dakoパーンチ!」
ふと疑問に思ったことがあります。
人は大人になるにつれて、多くのものは
自分の好みや能力で変えられたり、
新しく持ったりできます。
例えば、職業や服装や何のテレビを見るか、
自由な時間をどうやって使うか、
とかです。
しかし、名前だけはその人の意志や能力とは
関係なく与えられます。
多くの場合、死ぬまでその名前を名乗り、
当たり前のように人からそう呼ばれます。
その子がどうなるか分からない赤ん坊のころ、
だいたいにおいて親が本人の意志とは関係なく
「勝手に」決めます。
まあ、それは数少ない親の権利といっても
いいでしょう。その後20年も汗水垂らして
扶養するのだから当然です。
翼でも美咲でものび太でもジャイ子でも
ぴゅんぴゅん丸でもなんでもOKです。
しかし、その子供が成長するにつれ名前と
その子供の雰囲気や性質がうまく一致して
いけばいいのですが、(のび太みたいに)
自分も含めて人の名前とその人の性格や能力を
見るにつけ、良くも悪くもだいたいにおいて
「名は体を」表していないことが多いのでは
ないでしょうか。
例えば、鈴木一朗という平凡な名前を持った
野球選手が二人といない存在であるように。
例えば、絵里香という可愛い名前を持った女の子が
アジャ・コングであるように。
今更言うまでもないかもしれませんが、
どうも「名」は親の「コンプレックス」や
「欲しいもの」を表していることが多い
ようです。
特殊な名前、変な名前を子供につける親は、
良くも悪くも平凡すぎるくらい平凡。
外国語に不自由しない人は、自分の子供に
「亜蘭(あらん)」や「建斗(けんと)」
なんて名前は恥ずかしくてつけない気がします。
その不一致が周りの苦笑を誘うとき、
最終的に可哀想なのは子供ばかり。
僕は逆にこう思います。
なぜ、他人につけられた名前を当たり前のように
一生背負って生きていかなければならないのでしょう。
昔みたいに元服、つまり成人したり出世したりすれば
名前を変えるという自由があってもいいのでは
ないでしょうか。(実際は改名はかなり難しいらしい)
また、その後も何か人生の節目がある毎に名前が変わって
いくことがあってもいいと思います。
しかも、それは年齢によって自動的ということではなく。
今でも、落語家は芸を磨くにつれ、お相撲さんは強くなる
につれ、名前を変えます。それならば僕たちも、
「初めて選挙に行った」り、
「働いて他人から給料をもらった」り、
「親からの援助なしに生活をした」り、
「結婚した」り、
「子供が生まれた」り、
「失恋した」り、
「離婚した」り、
「退職した」り、
するごとに名前を変えられるというのは
どうでしょうか。
その時の考え、知識、希望を自分で考え、
新たに自分で名前を決めるのです。
そうすれば、その節ごとに自分自身を誇りに
思えるようになるし、名と体に自ら責任を持ち、
同時に他人はその人の人生における
習熟度を知ることができます。
今、名前が変わるのは死ぬときしかありません。
そして、いつまでも大人なりたくないパラサイトな
甘えんぼさん達のみがいつまでも親が付けた可愛い名前で
いればいいのです。
それも自由の一つですから。
人気blogランキングに思わず参加。あなたも登録してみては?