絶望的であってもイエスと言える(ヴィクトール・フランクル) | 臨床美容師のつぶやき(豊後大野市共育塾)

臨床美容師のつぶやき(豊後大野市共育塾)

いくら良い言葉を並べても、お金がからむと真実が見えない。こころを商品化する社会にも同じ不安を感じる。そんなこころの悩みを和ダンボがつぶやきます。豊後大野市共育塾(場所ココミオ)では、そんな問題をみんなで語り合っています。お問い合わせは美容室WAKOまで。

耐え難い苦しみの中でも、それでも人生には意味があると、ヴィクトール・フランクルは言ったのです。フランクルはロゴセラピーという心理療法を編み出しました。ロゴスとは「意味」や「理性」を表す言葉です。


絶望的でもなぜイエスと言えたのか、とても深いことであり哲学的でもあります。苦しいときに助けてくれるのは、自分自身の精神の中にある、とフランクルは答えます。自分が嫌いな人でも自分を好きになるのです。


耐え難い苦しみの中でも光を見つけ、生きようしたのがヴィクトール・フランクルでした。フランクルは青春時代に強制収容所に入れられていました。そこでロゴセラピーの原点が生まれたのでした。


今の時代にこのヴィクトール・フランクルの思想を知ることはとても意味があります。フランクルの人生を考えれば、今のわたしたちの不満など天国のように思えてきます。それでも子どもたちの自殺が多い昨今です。


こんな幸せな国の日本にいて、なぜ自ら命を絶つのでしょうか。おそらくいろんな悩みを抱えていたのでしょうが、その前にこのフランクルと出会っていればと思います。フランクルは何かに対して苦しむ中にも、意味を見つける人でした。


苦しむことの意味です。逆に苦しみの意味が見つかれば、その苦しみも和らぐのでした。一例をあげれば、妻を亡くしてひどく悲しんでる夫がいます。その人に対してフランクルは、もしもあなたが先に亡くなったら奥さんはどう思いますか、と訪ねました。


夫は今度は妻が悲しむだろうと答えました。それならばその代わりに今あなたが悲しんでいると思えませんか、と返答しました。それによって夫の悲しみは意味のあるものに思えたのです。災害も同じだとフランクルは答えます。


災害自体には特別な意味はないのです。そのあと災害をどう考えるかで意味は出てくると考えます。少しややこしいですが、意味がないものに意味を与えるのがフランクルの考えのようです。これを受け入れられるかは人によるでしょう。


わたしはおこがましいですが受け入れられました。わたしには困難が必要とあるときから思いだしました。それは自分のために必要と思ったからです。普通に生きていても突然の悲劇は起きます。しかしその悲劇に直接意味はないのです。


何かをしたから突然の悲劇が起きたわけでもありません。ですからそのことに対する後悔もなくて良いのです。あのときこうしておけばなどと考えても、それには意味はありません。あるのはただ後悔だけになるでしょう。


フランクルの父と母は敬虔なユダヤ教徒でした。幼いながらいつも質問を大人たちに投げかけていたため、「思想家さん」のあだ名もつけられていました。そして4歳のときに、「人はなぜ生きるのか」という疑問にとらわれました。


フランクルはわたしもいつかは死ななければならないと気づきます。死ぬことにとらわれるのではなく、また意味を探し出すのでした。この話はまだまだ長くなりそうなのでまた明日にします。しかしこの混迷の時代には合うはずです。


しばらくはフランクルの話をすると思います。またこの何ごとにも意味を考えるやり方には、地方創生にも使える気がします。また一つ流れが来た感じです。ではまた明日。