重光葵(まもる)知らずに生きていた恥 | 臨床美容師のつぶやき(豊後大野市共育塾)

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参政党のタウンミーティングが昨日大分市でありました。テーマは「大分県出身の外交官重光葵から戦後の日本を考える」でした。重光葵は大分県豊後大野市(旧大野郡)三重町の生まれでした。わたしは子どもの頃そのすぐ近くに住んでいました。

しかし三重町で重光葵の話題を聞くことはほとんどありませんでした。今回の講師は山岡鉄秀さんという方でした。これまでもテレビで多少お見かけした程度でしたが、今回の講演を聞いてイメージはガラッと変わりました。 

そして参政党もいろいろありましたが、今回の講演会は非常に点数が上がったと思います。あんなゴタゴタがあったのが不思議でたまりません。山岡さんはあえてそこには触れませんでしたが、逆に聞いてみたい気もしました。

なぜなら話の内容がすべて納得できたからです。同じようなことを党首の神谷さんも言いますが、説得力がやはり違います。街頭演説だけではやはり伝わりにくい内容ではあります。山岡さんの話の内容や話し方は最高でした。

重光葵は第二次世界大戦の敗戦調印式に、外交官として身体が不自由な身でも出ていった人です。普通は天皇もしくは総理大臣が行く場面だそうです。なのにたかが外交官である重光葵がなぜ行ったのか、そこから重光葵のすごさを話されました。

はじめに関係者に質問時間を要求しましたが、今回はなくても納得しました。もっとじっくりとお話を聞きたいくらいです。わたしは重光葵の生家のすぐそばに住んでいたとはいえ、重光葵のことはほとんど知らずに生きてきました。

これはわたしだけではないような気もします。そして重光葵はあの吉田茂と総理の座を争った人でした。その吉田茂の名前は多くの人たちが知っています。このわたしでも知っていましたが、ただどんな政治家であったかはまではよくわかりません。

「吉田茂は、優れた政治感覚と強いリーダーシップで戦後の混乱期にあった日本を盛り立て、戦後日本の礎を築いた人物」となっています。その側近中の側近に白洲次郎という人がいます。「従順ならざる唯一の日本人」としてGHQ要人が語った人です。

このように素晴らしい評価の二人に、対抗したのが重光葵のようでした、ですから片方が持ち上げられれば、片方はかすんで見えるのもわかる気はします。しかし吉田茂元首相は、自虐史観が蔓延する社会構造つくった人とも最近は言われています。 

国民が「歴史の真実」を追究できなくなる措置を取っていたのです。吉田茂の評価はどちらが正しいのか研究するだけの価値はあります。山岡さんの話では未だに日本はアメリカの占領下にあると発言されていました。

岸田総理はアメリカのポチだと、確かにそう感じる部分はアメリカに対してだけでなくあります。どちらにしても戦後のこれまでの日本は、他国の戦争で死ぬこともなくこれたのは事実です。その間にアメリカでは多くの人が戦争で亡くなっています。

その代わりに日本は多くのお金をアメリカに出しています。それが戦後の日本の役目だったようです。そのようにアメリカが仕向けたのです。そしてアメリカから見て都合の悪い政治家は排除されました。その代表格があの田中角栄元総理大臣です。

大分県は福沢諭吉をはじめ偉い人は出る県ではあるが、それを活かしきれていない県でもあるのです。福沢諭吉は力のない人は学問を学べと勧めました。今回の講演会もそんな学びになりました。重光葵の強い意志を少しでも見習いたいと思いました。

今日からのまちづくりに活かします。やはり意志ひとつですね。本当に地域のことを考えているのであれば、重光葵のように正しいことは正しいと言えなければウソになります。ウソつきにはならないよう頑張ります(笑)。

参政党、貴重な刺激をありがとうございました。吉田茂が偉大に見えたことで、重光葵は影に隠れてしまったのもしれません。しかし本当に日本のために役立ったのは、平和主義者の重光葵です。これだけは忘れないようにしたいです。ではまた明日、