わたしは普通の人間です | 臨床美容師のつぶやき(豊後大野市共育塾)

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いくら良い言葉を並べても、お金がからむと真実が見えない。こころを商品化する社会にも同じ不安を感じる。そんなこころの悩みを和ダンボがつぶやきます。豊後大野市共育塾(場所ココミオ)では、そんな問題をみんなで語り合っています。お問い合わせは美容室WAKOまで。

わたしは一見変わり者のように見られがちですが、ごくごく普通の人間だと思っています。またそうありたいのです。では何が普通かって突っ込まれそうですが、普通とはハードルが極力低いことだと思います。誰でもできることです。


例えば料理の中でも、玉子焼きであれば上手い下手は別にして誰でもつくれます。それがわたしの普通の基準のようなものです。わたしの美容師という職業も、技術的にはできない人はほとんどいませんが、接客が苦手な人はいます。


しかしこの部分(接客)は大きく、飲食業などでも同じと思います。また普通とは学歴も関係ないことを示します。先日も書きましたが、公務員試験対策は学歴不問になっています。ただ面接もあるのでそこをクリアできれば大丈夫です。


しかし現実の仕事となると、就いてからは普通だけでは通用しなくはなります。そこに今度は何らかの差をつける必要があります。その差が売り上げのような成績の差になるからです。それによって自分の待遇も変わってきます。


わたしのいう普通とは、あくまでもなれるまでの条件のことです。デザインなどもすべてを自分で考えてはいません。どこかで見たものを頭の中で参考にしながら、自分流にアレンジしているのです。デザイナーはほとんどがそうです。


わたしら美容師も単なる技術の伝達者です。多少は時代によって変わってきましたが、基本を考えた人は一人です。カットの場合はヴィダル・サスーンという人です。この人が全世界にカットの基本を教えました。イギリス人です。


教えれば先生と呼ばれますが、本当の先生は一人であとは弟子です。わたしらはその弟子から習った孫孫弟子のようなものです。親鸞聖人の「弟子は一人もいない」と同じことです。逆にその考え方で日本一の教団にまでしました。


親鸞聖人もおそらく普通の考えの人だったのではと推測します。普通だからこそ、自分はお釈迦様の弟子の立場を守ったのだと思います。普通に徹するといつかは普通でなくなると思いました。欲のあるうちはダメですが、ではまた明日。