規制の中から生まれる個性 (嚢中之錐) | 臨床美容師のつぶやき(豊後大野市共育塾)

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いくら良い言葉を並べても、お金がからむと真実が見えない。こころを商品化する社会にも同じ不安を感じる。そんなこころの悩みを和ダンボがつぶやきます。豊後大野市共育塾(場所ココミオ)では、そんな問題をみんなで語り合っています。お問い合わせは美容室WAKOまで。

日本は昭和20年8月15日の「終戦の日」まで、軍国主義の名の元に規制だらけの国でした。戦争に勝つために規制が必要だったのです。それも軍国主義であったために仕方がありませんでした。そして終戦から民主主義や自由主義が日本にも根付くようになりました。


「終戦の日」ではなく「敗戦の日」だと言う人もいます。そしていまの日本国憲法はアメリカの意向によって作られたもので、日本人で作り直さねばという空気もあります。 もちろん憲法であっても絶対の必要性を感じれば、変えることも必要かとは思います。


ただ問題は、誰が正しい判断で変えられるのかということです。一番わかりやすくいえば、戦争を二度と起こさない内容にすることです。細かいところは別にして、その一点だけは世界共通のものだからです。宗教や思想の違いもまったく関係なく、そこだけは一致するはずです。


この話になると長くなるので今日はもうやめます。そして終戦後の現在はどうなのかと見ますと、その自由と規制が混在したような世の中になっています。戦後の自由は貧しい中での自由でした。闇で悪いこともしてました。それでもそこから日本は見事に復活しました。


そして世界でも裕福な国になり、治安も守られた住みやすい国になったと思います。しかし問題がなくなったわけではありませんでした。学級崩壊など学校が荒れだした頃があり、そこから学校の自由にも規制が入りだしました。荒れだしたのは1990年代後半からだとされています。


荒れるときは荒れるだけの理由があると思います。子どもが荒れるときは、おそらく大人が原因をつくっていると思います。ですから子どもが反省するだけなく、大人が反省しなければならなかったのです。そこを見間違うと問題は長引きます。


現在の不登校も同じことが言えると思います。確かに学級崩壊以降に学校の規制は厳しくなったと思います。それもある意味仕方なかったことですが、その規制は同時に大人たちにもするべきだったのです。それは規制と自由をうまくミックスすることでした。


わたしの経験からは、自由にさせれば個性が伸びるとは思いません。そこから生まれる個性は「自由な個性」であって、わがままとの境界線でもあります。わがままとは自分の思い通りに振る舞うことですから、自由といえば自由です。ですから自由はわがままを伸ばすともいえます。


しかし個性とは別名わがままかも知れませんね。良くいえばわが道を行くからです。しかしそれが単独行動であればまだ良いのですが、集団の中に入るとそれではまずくなります。そこでまた規制が生まれるのです。しかしその規制はルールのようなもので必要です。


そしてその規制の中から生まれるものが、現実的な「通用する個性」だと思っています。そこがわがままとの一番大きな違いになると思います。「通用する個性」は規制の中からでも生まれます。「嚢中の錐」の教えのごとく、袋(規制)の中からでも突き出てくるはずなのです。


それが本物の「通用する個性」だと実感しています。ですから個性を見つけるためにもある程度の規制は必要となります。ただ現在の校則などは見直しも必要と思います。あまりにも細か過ぎると個性をつぶす原因にもなりますので、そこのさじ加減が先生の仕事になります。


まるで料理人のようですね(笑)。料理の味を決めるのには足し過ぎると失敗します。いつか甘酢の微妙な味加減を決めるのに、足し過ぎて失敗し捨てた経験があります(笑)。そして最近思うのは、考えさせる校則でも良いのではないかということです。


例えば「常に他人の気持ちも考えて行動しよう」だけでも良いのです。あとはケースバイケースで考えさせるのです。そして問題が起きたときにみんなで話し合えば、そこでそれぞれの個性も見えます。気持ちの強い子弱い子いろんな子がいるはずです。


そこでハッキリとした結論は出なくても良いのです。学生時代はすべて練習試合で、本番は社会に出てからです。勉強嫌いも立派な個性です。不登校も同じく個性です。そんな個性の子が合う仕事ももちろんあります。おそらく事務系ではない気がします。


規制がないと個性も見えにくいので、規制は必要とわたしは考えます。規制の中が心地よい子もいます。それも個性です。弱い子はどちらかといえば規制を好みます。わたしもどちらかといえばそんなタイプでした。しかし学校の規制が好きでも、不登校にはなるのです(笑)。


学校が合わないのは校則だけの問題ではありません。社会に出ても本当に自由にできるのであれば、自由な教育も良いでしょう。しかしもしその逆であれば、その自由さが苦しみを生む原因にもなります。方針はどちらでも良いのですが、最終的にはどんな仕事を選ぶかになります。


それまでの子どもなりの生き方が、将来の仕事にもかなり影響します。自分に合うのが何かを見つけるためにも、規制が必要と考える和ダンボでした。多数派を重視する少数派です。ややこしい人間ですがヨロシク(笑)。ではまた明日。