ホームスクーリングの先駆者、自由な仕事を求めた羽仁未央さん | 臨床美容師のつぶやき(豊後大野市共育塾)

臨床美容師のつぶやき(豊後大野市共育塾)

いくら良い言葉を並べても、お金がからむと真実が見えない。こころを商品化する社会にも同じ不安を感じる。そんなこころの悩みを和ダンボがつぶやきます。豊後大野市共育塾(場所ココミオ)では、そんな問題をみんなで語り合っています。お問い合わせは美容室WAKOまで。

この元記事は2020年2月1日に書いたものです。最近は不登校世話人交流会でも、ホームスクーリングの話題がよく出るようになりました。おそらく公にはこの羽仁未央さんが、最初に大きく取り上げられたと記憶してます。約50年前の話ですから驚きですね。良かったら読んでみてください。    

                     ↓

ググっていたらなぜか「はにみお死す」(享年50歳)の単語が出てきて、たどってみたらこの「羽仁未央さん」に行き着きました。漢字で見るとすぐにピンと来ました。あの映画監督の羽仁進さんと女優の左幸子さんのお譲さんと気づきました。50代以上の人くらいしか知らないと思いますが…。

 

お父さんの羽仁進さんは未央さんの不登校問題で、教育委員会と戦ってきたそうなのです。そして未央さんは小学校四年生で学校を辞め、家で学ぶ「ホームスクーリング」というような形になりました。学校を辞めたのですから、もうこれは不登校ではないですね。

 

小中学校の義務教育の間は、普通は中退という扱いはないと思いますが、ご両親の考えがはっきりとしていてこのような形になったのだと思います。またそれができるような家庭環境でもあったのです。1970年代の出来事で、今から50年位前になります。

 

わたしが中学生のときくらいです。それでも記憶にはしっかりあって、そのときは親が変だと思っていたのを今でも覚えています。50年前ですからいかに先進的な考え方だったのか、改めて振り返ると驚くばかりです。映画監督の仕事をしていたお父さんだからできたのでしょう。

 

考えることも普通の人とはかなり違うと思いますし、またそうでなければできない仕事です。型にはまったような思考の人では絶対にできない仕事です。そんな両親の遺伝子と影響を受けて育った未央さん、自由に生きたいと思ったほうが自然なのかもしれません。

 

少なくとも羽仁家ではそれが特別ではなかったのでしょう。不登校新聞の初期にこの羽仁未央さんが、インタビューを受けていたことを今回はじめて知りました。さらに驚くことに、そのインタビューをしていた人があの奥地圭子さんだったのです。

 

奥地圭子さんは東京シューレ(1985年設立)という、日本でトップクラスのフリースクールの理事長をされている方です。話は戻りますが、羽仁未央さんは裕福な環境にありながらも自立を目指しました。しかし、組織に入って働くようなタイプではありませんでした。

 

個人としてエッセイストやフリーランスとしての仕事をしていました。わたしの記憶では30年近く消えていましたが、今回ググッていたら縁ができ、さらに不登校と関係あることを知り興味が復活しました。どんな生き方をされたのか、これからもう少し知りたいと思いました。

                     ↓

以上がそのときの記事ですが、自分で書いていても忘れていることも多いです。不登校新聞や奥地圭子さんとのこと、改めて驚いています。年長者にしかわからない内容かも知れませんが、こんなことがあったのでした。不思議な縁も感じます。ではまた明日。