面白い記事を見つけた。
文字通り、哲学好きな奴をキレさせるための痛烈なキラーワード(一言)が紹介されている。
いずれも、哲学が好きな奴の心をえぐる効果があるらしい。
僕も哲学は好きな方(一般に比べれば)なので、看過できそうにない。
なので今回は、それに対し強烈なカウンターを打ち込むための質問を紹介したい。
(ここは哲学好きらしく、問いで応酬してやろうじゃないか。)
・・・その前に、
まずは参考記事に書かれている一言に、哲学好きな奴の心をえぐるだけの殺傷能力が本当にあるのかどうかについて、それぞれ考えてみたい。その上でカウンターを打ち込む質問を紹介していこうと思う。
(ちなみに、タイトルでは「論破」という言葉を使ってるが、他に適当な言葉が思いつかなかった。やはり、あまり好きにはなれない言葉だ。)
まずは1つ目
ソクラテスよりもイエス・キリストのほうがたくさん信者を増やせたよね
このフレーズは正直なところ、決定力に欠ける。
実際に、この一言でキレるような哲学好きがいるとは考えにくい・・・。
そもそも、本当に哲学が好きな奴であれば、信者の数で思想の価値を決めたりしない。
哲学と宗教を比較している点も違和感でしかなく、明らかにアナロジーの乱用だ。
そんな人にはこう問いかけてみよう。
「地下鉄サリン事件を起こした某宗教の信者数はどれくらいだっけ?」と。
これ以上の言葉は要らない。
というわけで、次。
当たり前のことを真剣に考えなければならないって不幸な人生だね
この一言は、それなりの殺傷能力を持つかもしれない。
冒頭の参考記事でも書かれているように、
哲学が好きな人は何かに苦しんでいるため、哲学に救いを求めた可能性が高いからだ。
僕自身も、実際にこれを言われたら少しモヤモヤするかもしれない。
とはいえ、そこまでの威力を感じるかというと、あまりそうでもない。
この一言によって僕がモヤモヤするとすれば、
それは自分の人生が不幸であるという現実を突きつけられるからというよりも、人の人生に対して「不幸である」と軽々しくラベリングする人間の浅ましさに対してだ。
人生は幸せな時もあれば不幸な時もある。
常に幸せでいることはできないし、常に不幸でいられるわけでもない。
このことがわかっている人間からすれば、この一言はあまり脅威とは感じないだろう。
さて、ここでまず注目していきたいのは、
「当たり前のことを真剣に考えなければならないって不幸な人生だね」と言ってくる人の心理の方だ。
攻撃的であるのは言うまでもないが、それ以上に、この人は自分の人生が幸せだと思っているのだろうか。
いや、というよりも、これまで自分の人生のネガティブな側面から目を背けてきた可能性が高い。
だから、そんな人にはこう問いかけてみよう。
「あなたにとって幸せな人生とはなんですか?」と。
これに対して淀みなく答えられる人はそんなにいない。不意打ちとしてはなかなか効果的だし、何よりこちらの土俵に引きずり込むこともできる。
幸せの定義について考えることは、哲学好きな奴の専売特許だ。
仮に、「好きなことをするのが幸せな人生だ!」という、割とありがちな答えが返ってきたとしよう。
なら、こう返そう。
「だとすれば僕は幸せかもしれないですね。」
これは強烈な一言になる。
哲学好きな奴にとっては当たり前のことを考えるのが好きなわけだから、この返しで相手の論理の矛盾を突きつけることにも繋がる。
じゃあ、参考記事にもあるように「疑問を抱くことなく日常生活を満喫することだ!」と言ってきた場合はどう返せばいいだろう?
こう問いかける。
「虐待してくる親に対して疑問を抱かない子供は幸せですか?」
相手は極論だと言うかもしれない。
しかし、そもそも「日常」や「当たり前」というのは主観的なもので、人によって違う。
虐待されて続けている子供にとっては、それが日常であり当たり前だ。人間は良くも悪くも慣れる生き物だ。単なる極論として切り捨てるわけにはいかない。
そうなると、相手は「幸せ」を定義し直さなければいけなくなるところまで追い込まれる。
当たり前について考えざるを得なくなったわけだが、果たしてその人は不幸になっただろうか?
このように、哲学好きなら哲学好きらしく、問いで応酬してやればいいんだ。それが何より重い一撃になるのだから。
まぁ、相手の一言が馬鹿らしく面倒だと感じるなら、「幸せな人生でうらやましいですね。」と皮肉で受け流してやればいい。(心の底から「自分は幸せだ」と胸張って言える人はどれだけいるだろう?)
最後に、
何よりも重要なのは、参考記事でも言われているように、哲学をあまり絶対視しすぎないこと。
というのも、
ああいったことを言われて心が揺さぶられるということは、少なからず哲学に対する盲信があるからだ。
これだと宗教への信仰と変わらないし、哲学そのものを誤解してしまっている。
哲学は思考の材料や考え方の指針を提供してくれはするものの、理論や仮説そのものは現代では役立たないことが多い。
役に立つかどうかという点においては、哲学は科学の下位互換になってしまう。
それでも哲学がいまだに価値を持っているのは、その当時に得られた理論や仮説よりも、それに至るまでの考え方やプロセスの方だ。
例えば、かの有名なソクラテスは人間の魂の不滅や死後の世界が存在することを信じていたが、現代においてそれが妥当かと言われれば微妙だよね。(詳しくはプラトン対話集のパイドンにて)
しかし、そこに至るまでの対話や思考過程が洗練されていたからこそ、偉大な人物として語り継がれてきた。
2000年も前の書物がいまだに読まれ続けているのがその証拠じゃないか。大抵の本は100年も経たずに忘れ去られてしまう。
なので、キラーワードをぶつけられた時には、それを脅威として捉えるのではなく単なる道のりとして考えることが重要。