一休の死んでも葬式だけはあげるな -4ページ目

一休の死んでも葬式だけはあげるな

私の人生今日でおしまい!そんな日がいつか来るのが諸行無常の世の中でございます。

こんばんわ、一休です。

よくわたしがジョギングしていて感じることの一つに

『壁にぶち当たる』という事があります。

どんな事かと申しますと、

例えば、いつも走り慣れた距離に近づいてくると、体から「疲れた」信号が発せられ、それ以上の距離を走ろうとすると、体が言う事を聞かなくなってしまったり・・・

いつもよりちょっとペースを上げて快調に走っていると、いつも走っている距離に到達する前にバテてしまったり・・・

と言った具合に普段以上の力を出そうとした時に、無意識にブレーキが掛かってしまったり、体から「NO」サインが出てしまったりします。

(この現象が誰にでも当てはまる事かどうかは、今の段階ではちょっと分かりませんが)

とにかく、いつもやり慣れた状態を上回る事をしようとすると、うまく行かなくなってしまう・・・

壁にぶち当たってしまう事があるのです。

例えを走る事に限定しますと、長い距離を走る為に、まず体の疲れを十分とり、睡眠と休養もたっぷりとり、高タンパクな食事と水分をしっかりと摂取して、膝やかかとに負担が掛かりにくいシューズやウェアを装備して、万全な状態が整っているとします。

それでも5km程度走った所で”気分”が乗らなくなってしまったりして、目標としている地点まで行く事が出来なくなってしまったりする事もあります。

これも一種の

「壁」が立ちはだかっているのです。


そんな時わたしは思うのですが、この「壁」を超えなければ、次の自分には会う事は絶対に無理なんだと。

自分との対話です。

今のわたしは、上記の様な万全な状態が整っていても、20kmを2時間15分程度で走るのが限界です。

それ以上の距離を走ったり、それ以上のスピードで走ろうとすると、体から「NO」サインが発せられます、

そこで自分の中での”葛藤”が起きるのです・・・

そして、わたしはよくその”葛藤”に負けてしまいます。

しかし、その壁を乗り越えなければ、次の自分・・・すなわちそれ以上の距離をそれ以上のスピードで走れる自分にはなれないのです。

そこで壁に立ち向かう事を止めてしまったり、諦めてしまえば、その先それ以上のパフォーマンスを出す事は

絶対に無理です。

そして、そこで壁に立ち向かう事を止めてしまったら、もしこの先20kmを2時間15分程度で走る事以上にツライ現実が立ちはだかった時、

絶対にそのツラさに打ち勝つ事は出来ません。


例えば、仕事でうまく行かなかった事があったとします。

何度営業をしても、ちっとも売り上げが上がらない状態が続いたとします。

そこで今まで通りの営業を続けたり、(営業を)止めてしまったりしたら、それ以上売り上げを伸ばす事は出来ません。

その壁を乗り越えようとする”努力”をしなければならないのです。

もし、その”努力”が報われなかったとします。

そんな事はしょっちゅうです。

20kmを2時間15分以上で走れるようになる為に、一年間必死で”努力”しても、走れるようにならない時はなりません。

しかし、そこで壁を乗り越えようとしたあなたの”努力”は必ず別の形になってあなたに帰ってくるのです。

これも絶対です。

どんな事にも”壁”はあります。

そのすべての”壁”に立ち向かい、乗り越えていく事が、

生きる

と言う事だと思っています。

そして、一つの”壁”を乗り越えた先に

また新たな”壁”が立ちはだかっているのです。

人生です。

↓↓<<一休からのお願い>>↓↓
   ☆人気ブログランキング☆
  ■読んでくれてありがとう■
こんばんわ、一休です。

今夜は”自我”について・・・

■自我

※自分。自己。意識や行為をつかさどる主体としての私。対象(非我)・他者(他我)から区別されるが、他我もまた一個の自我である。人格や作用の中枢として、認識の根拠・道徳的行為や良心の座となる。

※自分自身に関する主体としての意識の総体。自我意識。

※精神分析で、イド・超自我とともに人格を構成する心的領域。イドと外界の現実や超自我との間で現実原則に従って調整をはかるもの。エゴ。


上記のように、”自我”とは自分を自分として認識している自分。

と解釈する事が出来るのではないでしょうか?

では、どのようにして人は自分を自分として認識していたり、他者と自分の区別をつけているのでしょうか?

わたしが通っているヨガ教室では、よく「自分を見つめて下さい」と言われます。

「普段いろいろな所で外に向いている意識を、ヨガをしている間だけは内側に意識を向けてあげて下さい。」と・・・


しかし、いくら集中して自分を見ようとしても、一向に自分が見えてくることなどありません。


例えば、ある人があなたの事を「とても親切な人だ」と思っていても、また別のある人はあなたの事を「とても意地悪な人だ」と思っているかもしれません。

自分が見た自分は、”自分はこんな感じだ”と勝手に思い込んでいるだけで、周りからは少し違った風に見られていることなど、しょっちゅうです。

例えば、”わたしは頭がおかしくなってしまった”と言う人がいますが、自分で自分の頭がおかしくなってしまったと認識出来ているのですから、ある意味”自我”を失ってはいませんし、周りはあなたの事をとてもそんな風には思っていないかもしれません。

では、なぜ自分で自分の”頭がおかしくなってしまった”と認識したり、自分で自分が見えなかったりするのでしょうか?

それは、他者へ自分を”認識”してほしいからではないかと思うのです。

人は自分自身の事を分かっていないので、他者に自分の事を”認識”してほしいのです。

そして、その情報が積もり積もって、”自我”へと変化していくのではないでしょうか?


もし、無人島でひとりぼっちで生まれ育ったあなたが、自分自身の事をすべて理解して、”自我”を”認識”出来ていたとしたら、どんな風に他者が見えるのでしょうか?

自分以外の存在を知らないのですから、他者を認識する事など出来ないはずです。

やはり”自我”とは”他者”との区別が必要だからでしょう。

そして、まったく同じ人間はこの世に一人もいないからです。

つまり、自我とは元々”なかったモノ”であり、これまでの色々な”つながり”が「”自我”を形成してくれた」と考えるのであれば、自己中心的な考え方から開放され、周りのすべての”つながり”に感謝をする事が出来るようになるのではないでしょうか。

■あなたの存在が、わたしを形成してくれているからなのです■


↓↓<<一休からのお願い>>↓↓
   ☆人気ブログランキング☆
  ■読んでくれてありがとう■
こんばんわ、一休です。

突然ですが、『元気』ってなんですか?

■元気
※活動のもとになる気力。また、いきいきとして活力の盛んなさま。

※体に悪い所がないさま。健康。

※中国の宇宙生成論で、万物生成の根本となる精気。


一般的に”元気な人”と言いますと、健康で活発、ハキハキとしていて、笑顔が絶えず、活動的で、肌の艶もよく、爽やかに汗をかき、常に前向きな精神を持った・・・

そんな人を想像してしまいます。

では、元気になりたい時、

例えば・・・

職場の人間関係でうまく行かずに元気が出ない時

大好きな人と些細な喧嘩をしてしまい、元気が出ない時

一生懸命頑張りすぎてちょっと疲れてしまって、元気が出ない時

病に伏していて思い通りに体が動かずに、元気が出ない時

大切な人を亡くした時

などなど・・・

元気になりたい時に、上記の”元気な人”を想像して自分もそうなろうとしても

絶対に無理です。

もし健康の為に毎日適度な運動をして、お酒やタバコや高カロリーな食事は避け、規則正しい生活を心がけ、休日には映画、音楽やお笑い、アロマやエステでリラックスし、時間のある時は自己啓発本を読み漁るか、何かの信仰を持ってメンタル面で前向き思想に取り組み、仕事や学校で積極的にやる気を発揮して、充実した毎日を送れていたとしても・・・

元気になれない時はなれません。。。

毎日好きな事をして、ストレスを一切感じない状況に置かれ、すべてが自分の思い通りになるような生活を送ったとしても・・・

元気になれない時はなれないと思います。


では、そもそも”元気”とはどこからやってくるモノなのでしょうか?

目に見えないモノですから、

やはり『ココロ』の問題では?と思いますが、

では、”心”ってなんでしょう?

(↑”心”に関しては、後日またゆっくりと)

体の健康を保つには、いくつかの方法を思いつく事が出来るかと思います。

上記の様な生活をされている方の大半は、身体的には健康な状態を保っていらっしゃるのではないでしょうか?

では、心の健康を保つ為に出来る事?


それは”つながり”が大きな影響を持っているのではないでしょうか?

人と人との”つながり”

動物と人との”つながり”

植物と人との”つながり”

大地と人との”つながり”

太陽・月と人との”つながり”

などなど・・・


元気の源はあなたと今目の前にある”何か・誰か”との”つながり”にヒントが隠されているのではないかと、思っている次第です。

↓↓<<一休からのお願い>>↓↓
   ☆人気ブログランキング☆
  ■読んでくれてありがとう■