じが | 一休の死んでも葬式だけはあげるな

一休の死んでも葬式だけはあげるな

私の人生今日でおしまい!そんな日がいつか来るのが諸行無常の世の中でございます。

こんばんわ、一休です。

今夜は”自我”について・・・

■自我

※自分。自己。意識や行為をつかさどる主体としての私。対象(非我)・他者(他我)から区別されるが、他我もまた一個の自我である。人格や作用の中枢として、認識の根拠・道徳的行為や良心の座となる。

※自分自身に関する主体としての意識の総体。自我意識。

※精神分析で、イド・超自我とともに人格を構成する心的領域。イドと外界の現実や超自我との間で現実原則に従って調整をはかるもの。エゴ。


上記のように、”自我”とは自分を自分として認識している自分。

と解釈する事が出来るのではないでしょうか?

では、どのようにして人は自分を自分として認識していたり、他者と自分の区別をつけているのでしょうか?

わたしが通っているヨガ教室では、よく「自分を見つめて下さい」と言われます。

「普段いろいろな所で外に向いている意識を、ヨガをしている間だけは内側に意識を向けてあげて下さい。」と・・・


しかし、いくら集中して自分を見ようとしても、一向に自分が見えてくることなどありません。


例えば、ある人があなたの事を「とても親切な人だ」と思っていても、また別のある人はあなたの事を「とても意地悪な人だ」と思っているかもしれません。

自分が見た自分は、”自分はこんな感じだ”と勝手に思い込んでいるだけで、周りからは少し違った風に見られていることなど、しょっちゅうです。

例えば、”わたしは頭がおかしくなってしまった”と言う人がいますが、自分で自分の頭がおかしくなってしまったと認識出来ているのですから、ある意味”自我”を失ってはいませんし、周りはあなたの事をとてもそんな風には思っていないかもしれません。

では、なぜ自分で自分の”頭がおかしくなってしまった”と認識したり、自分で自分が見えなかったりするのでしょうか?

それは、他者へ自分を”認識”してほしいからではないかと思うのです。

人は自分自身の事を分かっていないので、他者に自分の事を”認識”してほしいのです。

そして、その情報が積もり積もって、”自我”へと変化していくのではないでしょうか?


もし、無人島でひとりぼっちで生まれ育ったあなたが、自分自身の事をすべて理解して、”自我”を”認識”出来ていたとしたら、どんな風に他者が見えるのでしょうか?

自分以外の存在を知らないのですから、他者を認識する事など出来ないはずです。

やはり”自我”とは”他者”との区別が必要だからでしょう。

そして、まったく同じ人間はこの世に一人もいないからです。

つまり、自我とは元々”なかったモノ”であり、これまでの色々な”つながり”が「”自我”を形成してくれた」と考えるのであれば、自己中心的な考え方から開放され、周りのすべての”つながり”に感謝をする事が出来るようになるのではないでしょうか。

■あなたの存在が、わたしを形成してくれているからなのです■


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