先日行った板橋のワークショップ、そしてこの夏鶴見で行ったワークショップとも
参加者には、カッターやハサミといった「切る道具」を使わずに
「手」だけを使って作業をしてもらった。
カッターやハサミは、僕を含め、インタープリターやファシリテイトの方々のみ使用した。
参加してくれた方々には、さぞかし不自由であったろうと思われる。
「手」という道具は、思いのほか自由にならないものなのである。
でもカッターやハサミを使うのも「手」である。
「手」そのものが自由にならないのに、その「手」で別の道具が上手に使えるはずもない。
僕らは、カッターやハサミ、あるいは文明の力によって
種々様々な便利な道具に囲まれている。
むろん、それら道具の恩恵は計り知れないものだろう。
が、道具の力と自分の力をはき違えてしまうことも多いのではないだろうか?
もう一度、原点に戻って、「手」という素晴らしい「道具」を考え直してみてもらいたい。
そんな思いを僕はワークショップに込めている。
この作業に関して、僕は一つの考察をしてみる。
人間の体は数多くの細胞の集合体である。が、地球上には「単細胞動物」という生き物もいる。
つまり、たった一つの細胞で生きている生物がいるのである。
彼らに思考があるのか?目的があるのかは定かではないが、
彼らにもたとえば「気持ちよい」という感覚があるとすれば、
細胞単位で「快感」が存在する事になる。
さて、もう一度人間に戻る。
人間は細胞の集合体だから、「脳」を構成している細胞と
「手」を構成している細胞は別のものである。
で、何かを描いてもらうと「脳」は思った線ではないと「×」を出したりする。
同時に「脳」はイライラした気持ちを持ったりする。
しかし、もしかしたらその線は「手」の細胞たちにとっては心地の良い線であったかもしれない。
つまり「手」にとっては「○」なのである。
僕はワークショップ中に「消しゴム」を使わせない。
つまり「脳」が否定した線も残しておいて、続けて描画させる。
「手」は描きたい線を描き続ける。
これは「手」の細胞たちにとっては「心地の良い事」であるに違いない。
その作業を続けると、不思議な事に「脳」の方でも徐々に「手」の心地よさを
認めてくる(ような気がする)。
そしてこの作業の繰り返しが、「上手に絵を描く事」が苦手な人たちの
心の扉を開いてしまうのではないかと思うのだ。
そもそも「上手に絵を描く」ことという価値観が間違っている。
絵は「気持ちよければそれで良い」のだ。
(むろん、僕らのように「上手に絵を描かなければならない仕事」の人たちもいるわけだが)
ちょいと難しかったろうか?
でも、僕のワークショップの根本的なテーマは「手の力」である。
言い換えれば、それは、「人間というイキモノ」の仕組みを
解明して行く事にも繋がっていると思うのだけれど・・・。