解散してから二週間が過ぎた。この間一番目立つことは第三極という諸派の動きである。
党派がしっついたり、しっつくと思われていた党派どおしが完全に仲たがえたり、
突然思いもよらぬ党名と代表をようした新党が生まれたり、
アットランダムで、予想ができないような動きをしている。
何故こういう動きを諸派はしているのだろうかと考えてみると、
「第三極」というフィールドがマスメディアによって用意されたからだろう。
自民党を否定し民主党を持ち上げたが、その民主党も散々だったので、
今更自民党も民主党も支持する記事が書けない(書けない理由は、知性的に書けないのではなく
ニュースになるようなことが、マッチポンプのマッチをするような記事が、
書けないという意味)マスメディアにとって、
自民党でも民主党でもない「何か」が必要だったのである。
その何かに対し「第三極」という名前をつけて諸派が競うフィールドを作った。
マスメディアはこの第三極に人々の注目が集まることを望み、諸派がいろんなニュースを発信してくれることを虎視眈々と狙っている。
諸派の方にも自分の存在をアピールしなければならないという切迫した事情がある。
アピールしなければ第三極の中で消えて行く運命にあり、
第三極で一番の地位を勝ち取ることが何よりも大事なことなのである。
この状況下で、短期的に(投票日までの短い時間軸の中で)一番の地位を獲得するための戦術がある。
人々の衆目が集まるようにすることと、
人々の耳目に接する回数を圧倒的に多くすることである。
この戦術はデパートやショッピングセンターのバーゲン戦術と同じなのである。
ニュースになることを(バーゲンセールでは「すごい値下げ」)バンバンと(バーゲンセールでは大量のスポット広告を行う)行うことである。
諸派においては「二つの派が一つの派になりました」というニュースを発信することであり、
又少しでも多くのマスメディアに取り上げてもらう努力をすることである。
第三極はマスメディアによって作られたフィールドだが、
諸派側にもマスメディアを利用したいという事情があるのである。
現時点でこの戦術を最もうまく行っている諸派は維新の会であろう。
石原さんも橋下さんもマスメディアの活用法にとても長けている。
一方、みんなの党はとても下手である、と言って良いであろう。

そうやって一緒になった党派だが、
選挙を行っていくに連れて党派内のほころびが明らかになっていくだろう。
政治理念が一致したからとか大同団結だと声高々に言うけれど、
その実態は既に書いた戦術に則ったものであり、
もっと言えば議席を取るためであって、
政治理念は二の次なのである。
マスメディアだって多分、理念の不一致はわかっている。
わかった上で統合を報道し
その上で統合により政治理念の矛盾を突く。
矛盾を突かれた代表者があたふたとするところを
マスメディアは待ってましたと言わんばかりに報道する。
そのようなドタバタが続くと思われる。

ところで今回の選挙をネットでは原発問題が一番の関心事だそうである。
そこにある心情は、NO MORE 原発である。
福島原発事故は国民の中に深い楔を打ち込んだのだろう。
このことはとても重要なファクターであり、
これを軽視した党派は投票が伸びないのではないか。
原発停止によって電力料金が上がっても、
東電が破綻しても、
日本の製造業が空洞化しても、
原発がイヤなのである。
理性的判断に基づくチョイスをしているわけではなくイヤなのである。
こういう傾向が強くなっていくと日本はもっと内向き志向になって行くのではないか。
イヤが強くなった人は他者とのつながりが希薄になるように、
国民のイヤが高じると他国との連携は難しくなる。
自分はそういう状況を良しとは思わないし、
日本は日本であることを望みながらも、
東洋や世界の国々と手を組んでこそ、
の日本であり、日本がこれからも日本であるための条件であると思っている。
しかし日本国民の全体意志は違う動きをするように思える。
日本が明治維新を迎える前に起こったことをたどってみると、
ペリーによる開国があり、その後激しい攘夷運動が起こり、
それが討幕運動に収斂して明治維新を迎えた。
その動きに今を当てはめてみるなら、
グローバルスタンダードが開国であり(もしもTPPを導入されたらもっとはっきりした開国になり)、
アンチ原発やアンチ中国が攘夷運動に該当し、
そしていずれ戦後の憲法体制倒壊運動になり、
その後に新生日本が生まれることになる。
SF的にしか予測できないがそういう動きをするのではないか。
今の日本人を知・情・意で言うならば、
情に傾いているのである。
原発は安いコストで出来るといったような知、
それに対する生理的反発という情、
次に戦後体制倒壊という意を経て新しい日本になる。
知情意を含んだ全体観が必要なのだが、
この全体観を日本国民が獲得するには知情意の変遷を経験する必要がある。
自分が勝手に言っているのではなく夏目漱石が言っているのである。
知に働けば角が立つ。
情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。
兎角この世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安いところへ引っ越したくなる。
どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画ができる。
諦観に立った全体観、これが日本国民の全体観であるらしい。
日本国民がこの諦観に至る前にたくさんの劇変を経なければいけないらしい。
政治の混乱はまだまだ続く、と考えておくほうが良さそうである。
そしてたどり着く全体感は
カントが言うような、知情意を統合する全体観とは全く違うものである。
中国の習政権の顔ぶれがどうなるのかと注目していたら、
今週14日に日本の政治でニュースが起こった。
野田総理が安倍自民党総裁との国会での党首討論で16日に衆議院を解散すると言ったのである。
この二人の討論は討論の内容は兎も角、その臨場感において惹きつけるものがあった。
政治討論の舞台としても最高だった。
この討論の是とするところは、「政治家の政治家たるもの」を二人の政治家がこの舞台の中でやったというところにある。
政治家の政治家たるものは、言葉である。
言葉が貧弱では政治は動かない。
しかし言葉がしっかりしていれば政治は動く。
その目線で野田総理と安倍総裁を採点するならば、野田総理に軍配が上がる。
野田総理はかなりの覚悟を持ってこの討論に臨んだのに対し、
安倍総裁はその覚悟を持たずに臨んだので立ち遅れていた。
あの討論で野田総理が勝ち取ったものは、
自らの決断で解散総選挙を行う決断をした、ということである。
これがどれほど意味があることなのかは自分には図り兼ねるが、
野田首相にとっては重要な先制攻撃という意味はあるのだろう。
(別に野田首相を支持しているわけではない)

政治を動かすものが言葉である一方で、
政治を決めるのは数である。
そして16日に衆議院は解散、12月4日に公示、16日投票ということになった。
投票までの間に立候補者の言葉をよく聞いて、
その結果皆さんの心が動いた人に投票することで、
当選者が決まり衆議院の勢力が決まるのである。
いろいろ言いたいことや不満や不信はあるだろうが、皆さん投票には行きましょう。
この選挙は今まで以上にとても大事な選挙である。
大事という意味は、日本と日本を取り巻くこの混乱した状況の中で
政治の停滞を選ぶのか、変革する政治を選ぶのか、
変化させながらも現実的な対応して行こうとするのか、
それによって日本の命運が決まりかねない一歩になるからである。
選挙に立候補する人にも、投票する人にも、また状況を把握し他者にコメントしなければならないマスメディア他の立場の人にとっても、大事な選挙となる。
今回の選挙と過去二回の選挙と決定的に違うことは、
YESかNOを問う選挙ではないことである。
郵政民営化にYESかNOか争点になった前々回、
サヨナラ自民党にYESかNOかが争点になった前回と違って
今回はそういうたった一つの争点で決める選挙にならない。
理由は、世界の混とんと今までの政治の停滞により問題や課題が山のように残っているからであり、
YESかNOの選挙は一見問題の解決のように思えるとは裏腹に
何の問題解決にもならず寧ろ政治は停滞するということが
過去二回の選挙とその後の政治を経験して
国民の知るところになったのである。
YESかNOの選択を二者択一という。
二者択一が政治を停滞させるとうどういうことか。
政治はいつも多くの問題を抱えている。
それらをどんどん片付けていかないと問題はどんどん溜まって行く。
自分の住んでいる部屋を掃除しないと部屋の中が散らかっていくのと同じことが起こる。
そんな状態で一つの問題で二者択一を迫るということは、
急に人が訪ねて来るので散らかったモノをとりあえず押入れに押し込み
部屋をスッキリさせることと同じことなのだ。
選挙が終わって現実の政治になった時は、
人が帰って押入れを開けて押し込んだモノがどっと出てきて呆然としている姿と重なるのである。
日本は二度も押入れ押し込みを行い、
そして今モノが溢れていることに呆然としているのである。
もう押入れに押し込むことが許されない状況に我々はある。
散らばったモノが壊れたり異臭を放っているので、
今回押入れに押し込んでしまっては住めない部屋になるからである。
日本の政治課題は沢山ある。
外交では、隣国との関係をどうするのか、日米同盟をこのままとするのか再強化するのか?
沖縄米軍基地をどうするのか?
原子力発電とエネルギー問題をどうするのか?
TPPをどうするのか?
経済をどうするのか?このまま産業空洞化を放置するのか?
震災後の東北をどうするのか?
積み上がった国債残高をどうするのか?
年金をどうするのか?
高齢化・少子化にどう向き合うのか?
教育の荒廃、あらゆる制度の疲弊・形骸化により身動きが取れなくなった日本とどう向き合いどういう方向にして行くのか?
ざっと頭に浮かぶだけでもこれだけ上がるし、
日本の未来戦略という目線に立てばもっと違う課題が出てくる。
複雑な問題を一度に目の前に並べられて一つを選ぶことは大変難しいことであるが、
これこそ日本人の民度が問われるのだから多いに思い悩もうではないか。
自分が一番心配しているのはマスメディアである。
マスメディアにいる個々人の能力を心配しているのではない。
マスメディアの構造とその構造に則って活動するマスメディアの人たちの思考とビヘイビアを心配している。
マスメディアの構造は大きく二つある。
一つは複雑な問題を「国民にわかりやすく」(そのまま提供したのでは国民はわからないと思っているらしい)提供するために問題を整理し簡単にして提供することが使命だと決めつけていること。
もう一つは、読者、視聴者を保持獲得するためには演出効果が必要であり演出効果を最大に上げる方法は「(強い)敵を攻撃する」ことである。攻撃方法は、間違っていると相手を批判することである。批判は全体である必要はなく部分で足りる。部分を切り出してきて、その部分を人々に提供してそれに対してYESかNOかを量り聴衆を興奮に持ち込む。この手法構造にある。
マスメディアがこの構造にあるために、
日本はいろんなところで部分攻撃をマスメディアからさんざん受け(教育現場も、医療現場も、官僚も郵政などの既得権益団体も。)社会的な問題を引き起こす誘引組織になっただけでなく、
日本の政治停滞を誘引したのである。
自分はマスメディアの構造改造を期待したいのだが、
改造しないのなら最低限の自己防衛を行うしかない。
それはメディアが好む人物には強い疑いを持って臨むということだ。
メディアが好む人物の特徴は、
部分を攻撃することに長けた人であり、ハッキリモノ言う人物である。
しかしそれらの人は部分攻撃には長けていても全体観を持ちあわせていない。
全体観を持つ人は(部分を問題だとは言えても)鬼のような攻撃などできないのだ。
どんなものにも部分的には問題があるのである。
部分は問題があるものの全体の中では必要性がゼロではない(俗に必要悪と言われるもの)、ということが多いのである。
そういう仕組みがわかっている全体観のある人は、攻撃意図を持って攻めてくる人よりも言葉が弱くなりがちとなる。
部分攻撃にこだわる人の一番困るところは、それを「否定し消し去る」という答えしか持ちあわせておらず、その答えが無理だと分かった瞬間にその攻撃課題からさっさと手を引いてしまうビヘイビアにある(誰のことだかわかりますね、石原氏であり橋下氏ですよ)。
そして全体観を持ちあわせていないから、共通の敵が見出されたら平気で大同団結なんてウソを平気でついて、一緒になろうとする。(大同団結の本意はここでは意見が違うけれど方向性に大差ないから、小異を捨てて大意で団結しようということですから)
複雑で対立事情が絡んでいる問題を解く方法は問題の次元を一つ上げることである。
今いる立場から一つ次元を上げて問題を見るという思考が必要である。
それは部分だけを見ている人にはできない思考であり、
全体感がある人だけができる。
今こそ全体観を持って政治課題に取り組む人物が必要ではないか、自分はそう思う。
複雑な問題をたった一つの問題に置き換える手品師のような人ではなく、
複雑な問題を複雑な問題として捉えて方向性を出して行く人を選びたい。
またも『純と愛』から。
(知らない人は一つ前のブログを読んで下さい)
純の家族は長男の結婚式破談(映画『卒業』は男性が花嫁を奪い去るが、
このドラマでは女性が花婿を奪い去る)をキッカケに崩壊する。
ヒロイン・純は父親に「お前なんか生まれてこなければ良かった」とまで言われ、
返す言葉が無くなり悲しみと脱力感を抱いて、
父親との決別を決意する。
そしてその後で心機一転、愛(イトシ)と二人だけで新しい家族を作ることを決意した。

「お前なんか生まれてこなければ良かった」は親が言ってはいけない言葉である。
しかしその言葉を発した父親にしてみれば、
家族が崩壊させたのは純のせいであり、
そんな純の言動を許せない感情がピークに達してしまって
言ってはいけない言葉を吐いた、
という弁解はある。
勿論弁解したところで言葉の責任が軽くなるものでは無い。
家族が崩壊した一番の原因は父親にある。
ところが父親はそのことを純に指摘されて認めようとしないどころか、
激昂しそういう純を完全否定した。
父親は「家族は自分を尊敬し愛さなければならない」と思っている。
しかし、その思いを本人的には隠して(自分も隠しているということすら意識していない)いるので、
それを面と向かって指摘されると感情を爆発させてそれを否定する。
これはフロイトが指摘した抑圧がもたらすメカニズムの一つである。
大事な思いを隠していることすら意識していない人は、
それを他者に指摘された時に、
潜在意識の方はそれを否定することで内なる思いを隠そうと本人に働きかけるので、
激情的な振る舞いをしてしまうのである。
どうして激情的な振る舞いをしてしまうかというと、
潜在意識は隠そうとするがその時の表面意識は「自分には隠し事などないのだ」という正当性を主張するからである。
バレタ?というアタフタ感情と取り澄ましていたい感情がせめぎ合い
自分の中で全く違う感情が同時に発動するために、
感情のコントロールができなくなって激情的な振る舞いになってしまうのである。

家族は社会組織の基礎である。
人間の歴史を遥か太古に遡れば、
社会と言えるものが出来上がるより以前に家族という組織単位があった。
家族という組織単位があって、
その家族社会を基に部族社会ができ部族社会の変転に従って社会が出来上がったはずである。
だから社会があって家族があるのでは無い。
歴史が変遷しいろんな社会が地上に登場し今も変化している社会だが、
その社会組織の基礎には家族がある。
そしてこの家族組織にはいくつか果たさなければならないことがある。
純の父親は家族を崩壊させたわけだから、家族の長としては失格である。
しかし家族組織で果たさなければならないことの一つは
(そんなことは家族制度として勿論明文化されているわけではなく、
父親自身が気付いていないと思うが)果たしているのである。
そのことを後で明らかにしたい。
日本社会における家族の様相は江戸末期と今では隔世の観がある。
江戸末期には色んな国の異邦人が日本を訪れて
日本で見聞きしたことを色んなメディア(日記も含む)に記録しているのだが、
彼らが一様に驚いていることがある。
それらは日本にくれば何処にでも目にすることが出来て
しかも彼らにとって「驚き」だったものである。
それは、子供達がみんな元気で明るくて楽しく暮らしている、ということだった。
百数十年前の異邦人はそこに驚いているのである。
皆さん自分が異邦人の目線になって想像してもらいたい。
今の日本の子供達を見て「みんな元気で明るくて楽しく暮らしている」と言うだろうか。
そう言ってくれる異邦人がどれだけいるだろうか。
ゼロではないかもしれないが、かなり少ないのではないか。
むしろ「日本人の子供はどうして元気がなくて俯きがちで人の顔色を気にしているのか」
と書く異邦人がいるのではないか。
日本は幕末から現代までの間に実に沢山のことを経験してきた。
日本は百数十年の間に
幕末と明治維新、文明開化と富国強兵、戦争と領土拡張、
経済拡大と世界大不況、太平洋戦争での多くの戦死者と焦土、
敗戦と茫然自失、復興経済成長と核家族、個人主義と高学歴高収入思考、
経済停滞と社会の迷走等を経て、
そして世界の先端とも言える高齢化と少子化社会を迎えている。
そして百数十年をかけて子供達から元気と明るさを奪った。
百数十年前の日本人の平均寿命は統計的に判明していて、
男女に差はあるがどちらも平均寿命は30歳に届かない。
つまり多くの子供達は大人になる前に死んでいたのである。
赤子や幼児の段階でも死んでいただろうから、
「子供」の段階にある自分たちの子供に対する親の気分は
「よくぞ生きていてくれている」でなかったか。
その子供達も大人になる前に何割かは何かの拍子で死んでしまう。
そうであれは「今を元気に生きて欲しい」となるのではないか。
断定はできないが、親が子供に抱いている気分が子供達の元気さに
それなりに影響しているということが類推できるのである。
であれば今の時代の子供達が元気が無くて俯きがちなのは
今の時代の親の気分が影響しているのである。

自分にも家族がある。
妻と娘が二人、娘は仕事勤めをしているが独身で一緒に暮らしている。
結婚して二十九年、子供が出来て二十七年、今の構成になって二十四年が過ぎたが
家族運営(そういう言葉があるのか又は妥当なのか知らないが)において
特別な理想や観念を持って取り組んできたことはなかった。
日々のことは妻に任せてきたし、子供に特別な熱意を持ってもいなかった。
子供達からすれば、親らしいことをしてもらった記憶がないということになるだろう。
それについては申し訳なかったと思っている。
ただそんな父親だったが、子供に期待するいくつかの基本的な気分は持っていた。
普通でいいから元気でいて欲しい、
人様に大きな迷惑をかけるようには育って欲しくない、
大人になれば自分の人生の進路は自分で決めるようになってほしい、
自分らしさを失わないでほしい、
である。
それだけ?と思われるかもしれないが、それだけである。
この思いが子供の成長過程において父親の態度としてどういう風に表面化するかというと、
子供の進学においては普通の学校で良いではないか、となる。
小学校の段階で無理矢理受験勉強で時間を奪われることは
本来なら子供時代に経験することを捨てるほど大事なことだと思えなかったし、
子供時代は選択され選ばれた人たちといるよりも、
選択もされずたまたま集まった人たちといる方が(生きていく上で)いいだろうと思ったからである。
大学受験や就職では進路は自分で決めろという対応をした。
高校生はまだ大人とは言えないが、
もう大人としての判断も必要な頃であるからそれを求めたのである。
躾については思考錯誤した。
自分が四十台前半くらいまでは、せめて躾ぐらいは身につけさせなければいけないという思いがあった。
でも日常的に娘たちと接しているわけではないから、
躾の気分は寧ろ突発的に起きるのである。
夕食の席で突然小言を言ったりするのである。
これがある時「どうもおかしい」と自分自身が感じた。
躾は普段から対応していないと相手に伝わるものではないし、
自分は普段から娘と接していない。
そうであるなら、自分の躾したいという気分はいつまで立っても相手の身にはならない。
同時並行的に一つの気分を新たに加えることにした。
新しい気分は、せめて家の中では家族が寛いでいられるしよう、というものである。
生きていくにはなかなか大変な時代に自分も妻も子供達も生きている。
社会で受けるストレスは大変なものである。
何処かに寛いでホッとできる場所がないとたまったものではない。
自分の意思でできるところは家庭でしかない。
こういう論理を自分の気分に持ち込んだのである。
その気分もあって以降躾の気分はほとんど放棄した。
そんな気分で自分の家族は今日までやって来た。
まあまあいいかな、と言えると思う。
しかし、社会の基礎としての家族に課せられている(不文律の)制度という視線に立つと
今の自分の家庭に欠けているものがある。
それは子供の巣立ちである。
子供は巣立ちを行うことで新たな経験を積み上げ
そして次の家族を形成して行くのである。
『純と愛』における純の父親は、純が次の家族を形成する決意を固めさせたという点で、
彼は家族制度で果たさなければならないことを実現した。
家族というものは不思議なものである。
くつろぎの場であることは今でも子供の成長にとって必要な要素だと確信しているのだが、
その一方で子供の独立も果たさなければならないのだ。
早い話が「早く出ていけ」という要素がいるのである。
自分には子供の独立を促す気分を家族に持ち込むことを忘れていたようである。
最近そのことに気がついて
娘に「そろそろ自立したらどうでしょう」と
本当にたまにボソッとお願いしている。