『1Q84』を読みました。
今頃?と思われるでしょうね。そう、今頃です。
この小説が世に出た頃から注目はしていたんです。
何度も本の前に立ったこともあります。
でもなぜか「今は読むべき時ではない」という心の声が聞こえてきました。
それから月日が過ぎて僕にも変化がありました。
長く務めた会社を辞し別の会社に移って2年が過ぎました。
住んでいた世界が変わるということが少し分かってきたこと、
それが今回『1Q84』を読もうと思った理由です。
年末頃からゆっくりと読み始め年始に読み終えました。

面白かったですよとても。
過去の作品よりも大きな物語になっていると思います。
でも読後の余韻という意味では『ノルウェーの森』の方が強かったように思います。
まずこの自分の感覚を元に勝手な分析を試みます。
『ノルウェーの森』と『1Q84』とは余韻の響きが違うように思います。
『ノルウェーの森』は虚無の響きが読者の胸の中に余韻をもって響くのに対し、
『1Q84』は希望というべきかどうかはありますが、
自由の響きを我々にもたらします。
自由と言っても「~からの自由」です。
でも『1Q84』では虚無の響きも同時に揺れています。
虚無の響きの中に、微かな希望の響きが鳴るのでどうしても、僕たちはその余韻の中に浸りきれない。
そういう風に感じます。
『ノルウェーの森』は小説として面白いのですが、『1Q84』は物語性が強いように思うのです。
物語とは「昔むかしこういう話があってな、・・」という振りで始まる話です。
主要な登場人物は親や家族から決別した人か見向きもされない人たちです。
宗教に没頭する両親から離れた人、
仕事に忠実な父親と別れた人、
捨てられて孤児院で育った人、
家族とは疎外感を感じて孤立した人、
親族にイタズラされて心が殺伐としている人。
親や親族から切り離れた人とは「欠けたる人」と言っても良いでしょう。
そうすると『1Q84』は欠けたる人たちの物語です。
欠けたる人たちの物語は、「神話」の世界ですね。
はい、こう評論する人は何人もいるので特に目新しく無いです。
親(父親)はシステムのメタファーでしょうか、
そしてシステムは邪悪なものとして描かれています。
『1Q84』は邪悪なものの企みを壊して、そして邪悪なもの追求をかわして逃げ切る物語性を持っています。
ただこの時代を知っていて21世紀に生きている僕たちにとって、
1984年は近すぎるのです。
例えば、「さきがけ」という宗教団体が出てきますが、
作者は「さきがけ」はオウム真理教に似せてはいるけれど
オウム真理教とは異なる性格を持たせています。
でも僕たちはこれをどうしてもオウム真理教として読んでしまいます。
この違和感が耳鳴りのように鳴り続け、物語の中にどっぷりと浸かっていけなくさせています。
でも『空気さなぎ』という小説を作り上げることをきっかけとして、
ストーリーが進んで行く構成はさすがだなと思います。
空気さなぎってなんだろう?という強い興味を読者に持たせて読者をどんどんと村上ワールドに連れて行く力はさすがだと思います。
物語は『空気さなぎ』をテーマに舞台展開するヒーロー天吾と、
女性虐待を憎むヒロイン青豆の二つの舞台が並行して進みます。
この段階では中心は天吾だろうと思っていました。
青豆は刹那であるのに対して、天吾は小さいながらも未来思考があったからです。
しかし物語が深度を増していくにつれて状況が変わって行きます。
青豆の舞台に二つの月が出てきてそして1Q84という言葉が出てきます。
天吾の方は、自分のオリジンは何なのかそれがわからないと全く前に進めないという状況になります。その世界は猫の町という言葉で表されます。
物語はやがて、マザとドウタ、パシバとレシバというキーワードが加わってこんがらかり、
牛河が触媒になって一つにまとまって行きます。
(個人的感想ですが、牛河の舞台が加わる5冊目はあまり成功していないと思います。
物語の前進力が喪失してしまいました。二本の糸が急に三本になって戸惑いました。)
そして実のところは、青豆がパシバ、天吾がレシバであったことがわかってきます。
そして青豆が天吾の手を引っ張って1Q84の世界から脱出していきます。
二人が一つになった時に新しい世界を切り開くエネルギーとなります。
『1Q84』に響く虚無は、システムというモノに自分を吸い取られていった者たちやシステムそのものの虚しさです。
NHKの集金人としか自分が見出せない天吾の父、
さきがけというよくわからないモノとくっついてしか生きていけない探偵牛河、
声に支配され死を選んださきがけのリーダー、
リーダーが死んでもなおさきがけを維持しようとするさきがけの幹部たち、
文壇を蔑みながらそこでしか生き場所がない小松、
そしてリトルピープルと彼らが発するハイホー。
それに対し、希望は青豆が雷雨の夜に身籠った小さきものだけ。
この小さいものがこの先どうなるのか全くわかりません。
でもそれは問題ではない。
問題なのは、深いところまで掘り込んで獲得した青豆と天吾の確信にこそあります。
この確信を得るために青豆は1Q84の世界に入り、天吾は猫の町に入ったとも言えるのですから。
確信をもたらしたものは、「手を繋いだ」から。
1Q84も猫の町も深層心理の世界のようですね。ユングの世界なのかもしれません。
それに対して今の世界は、やたらとペニスのことが書かれているのでフロイトの影響下にある世界かもしれません、よくわかりませんが。
ただ、1Q84でも猫の町でもセックス描写が気迫になっているところから推察すると、
セックスが必要(肉体的)な世界が現実世界、セックスよりも心のエロス(魂的)が大切でそれは手を握るだけで十分な世界が深層心理の世界のように感じました。
1Q84が1984から来ているわけで、リトルピープルはビッグブラザとの対比で使われているのでしょうが、リトルピープルについての説明が全くされていません。
もしかしたら、今後の作品でリトルピープルが又登場するのかもしれませんね。
最後に、『1Q84』が神話の構造を持った物語だとするならば、
そこには暗示があるはずです。
暗示の対象物は、天吾が大事に持っていた書きかけの小説と青豆が捨てなかった人の首筋を刺すための先の鋭く尖ったピックとピストルです。
書きかけの小説の暗示の意味は何となくわかります。
小説に書いたことが現実として起きる、ということでしょう。
ではピックとピストルは?
ピストルはいらなくなったら東京湾に捨てろというアドバイスが前振りでありましたから、
一時的な防衛武器なのかもしれない。
でもピックはどうしているのかな?
わかる方は教えて下さい。
松井秀喜が引退した。
大リーグのレイズから解雇されてから、大リーグのどこの球団からの声がかからず、
そして来シーズンも何所からも声がかからないと判断したのだろう。
彼は日本に戻って日本のプロ野球で野球を続ける気持ちはなかったのだろう。
ご苦労様でしたと言いたい。
彼のホームランに何度も興奮させてもらった。
かつて巨人ファンだった僕はいつしか松井ファンになり、
松井がヤンキースに移籍した後は松井選手が所属するヤンキースを応援した。
球団が変わっても松井選手を応援した。
ありがとう、松井秀喜。
テレビでの選挙放送では、今回比例区に出ることが認められた各党の党首の演説風景を
細切れに流している。
各党が画面に登場する時間が平等に充てがわれる報道方法は、
自分が知る限り初めてだと思う。
ニュース番組という短い時間の中での、更に総選挙報道という限られた時間という制約下で、
各党の主張を細切れ報道するとどういうことになるのか。
それは番組を制作するプロならば放送する前から予想はつくはずである。
人が30秒という時間の中で一般人を説得させる内容を語ることなど、不可能である。
内容あることを話せない以上、話すことは
「自分が優れている。他は劣っている。」というセンテンスとなるか、
大衆にとって耳触りの良いフレーズでしかなくなる。
そして実際に放映されていることも、この域を超えていない。
この報道を見て、色んな政党の言い分を一度に見られるからありがたいという声があるのかどうか。
自分が予想するに、各党がそれぞれ何を主張しているのかどうかわからないという声の方が多いのではないか。
少なくとも自分は報道を見て、さっぱりわからない。
わからないので、自分は各党の言い分を新聞で確認している。
しかし今や新聞を読まない日本人がとても多いのである。
するとテレビ局は、この重要な選挙で各党の言い分をできるだけ国民に伝えるという使命を
果たしていないことになる。
本来なら報道機関は国民の視線を報道に集めて、
そして各党の意見が平等に放送内容に反映される番組作りに努力すべきである。
その方法はいろいろ考えられるが、
自分なら党首討論のリーグ戦を行う。
各党党首が一堂に集まった討論ではどうしても問題を深堀りできない。
だから、一対一の討論を組み合わせを変えて行う。
これなら討論の平等性は確保されるし、
各党の主張も国民の前に明らかになる。
一方で問題もある。
不人気な党首どうしの討論では視聴率が取れない可能性がある。
それに、党首側にも嫌いな相手や苦手な相手を忌避するかもしれない。
何よりも党首討論のリーグ戦など、全く前例がない。
報道機関はこういうチャレンジをしなかった。
つまり今回のテレビ局の総選挙の報道姿勢は、
情報を与えるという自らの責務を全うする姿勢にない、とも考えられるのだ。
どうして責務を全うしないのか?
いろいろあるが、責務の全うよりも平等性の確保を優先している、からである。
どうして責務の全うよりも平等性の確保を優先するのか?
国民が不平等についてとても敏感に反応するからである。
(そしてマスメディアがこの敏感に関与した)
平等性を優先しておけば、国民から大きな避難を浴びないで済むからである。
国民から大きな避難を浴びなければ、報道機関の責任者は責任追求されない。
答えが予測できないことをやって失敗するよりは
良い答えが得られないことが予測できてしまうことでも、
責任追求されず、そして不平等性が顕在化しない方法を選ぶ。
そういう思考プロセスを報道の責任者は思考している、と思う。

報道機関が公共性を有する機関である以上、公平性を考慮することは大事である。
公平性をどうやって担保するか、それは公共性のある機関が常に意識なければならない問題である。
しかし今の日本の公共性を有する機関(報道機関に限らない。官庁もそうだし、民間機関である金融機関でもそうである)は、この公共性を担保する問題に対峙する時の姿勢が
著しく劣化しているように思えてならない。
公平性の担保とは、平等性の確保のことと読み替えてもらって構わない。
課題は、「自らに課せられた使命の遂行と平等性という(時として二律背反する)課題にどうやって取り組むか」にある。
この課題にどう向き合うのかが一番の問題である。
少なくとも自分はそう確信している。
そして使命の遂行と平等性の確保を秤にかけた場合は、
大抵の場合使命の遂行が優先される、と思う。
公共性を有する機関は国民にその機関に与えられた資源を「できるだけ公平に」
国民に分け与えなければならない責務を有するが、
公平にするための配分方法を誰よりも深く考えるところに
その公共性を有する機関の本質が現れてくる。
何故なら公共性を有する機関は大抵の場合
「全ての人に平等に行き渡る資源がない」状態にあるからである。
使命の遂行という行為の中に公平の姿が現れてくるのである。
ところが今の日本の公共性を有する機関はこの課題を自ら問うことを
どんどん放棄しているように思えてならない。
経済環境が良い時と悪い時があるように、国民全員に平等に資源配分できない時が必ずある。
それが現実の世の中である。
ところが長く右肩上がりの経済にいられたために、
そういうリアリズムを日本の公共機関は忘れてしまったのではないか。
1995年の阪神大震災の時、沢山のケガ人がいて薬などの医療品が絶対的に不足した時に
医療機関は苦渋の決断をした。
その決断とは、急を要する医療処置をしなくても大丈夫なケガ人には、我慢をしてもらった。
医療処置をしても助からない人には、医療処置を見送った。
そして医療処置を急を要しそして助かる人に、行った。
この処置に対し、医療を施されない人々とそのご家族には反対の言い分はあっただろうが、
できるだけ多くの命を助けるという使命を全うするために、
そういう決断をしたのである。
自分はこのことをその医療現場で働いた人から聞いた。
一方2011年の東北大震災。
どこの被災地かは知らないが、ある避難所に300枚毛布が届けられた。
ところがその避難所には被災者が500人いた。
その避難所では不公平になるといけないという理由で毛布を配布しなかった、
ということがおこった。
何故こういう判断になったのか?
体力が弱い幼児、老人、子供という順番に毛布を配るということにならなかったのか?
ここにある心理は、不平等なことをして責められるリスクは追わないということが優先された、
としか思えない。
不平等は良くないが、それが不作為を誘発しているのである。
今の日本に不平等を大事にする不作為がかなりの程度蔓延し、
そして進行している。
これに目をつむり続けるならば、残念だが日本はますます劣化していくだろう。
マスメディアは目をつむっているので、
やむなくこんなちっぽけなメディアで声を発するのである。