日揮社員を中心に10名の日本人の方々が
アルジェリアのプラントで起きたテロ事件で亡くなりました。
慎んでお悔やみ申し上げます。
ご親族並びに同朋を失った日揮並びに日揮社員の悲しみと喪失感は測り知れないほど大きいでしょう。
事件が起きてから後の事態の進展は我々日本人には予想できない程に急で且つ激しいものだったと思います。
私達日本人は人質の生存を考慮すると、
テロ部隊を攻撃するにしてももう少し時間をかけるのではないかと考えていました。
人質がいたなら犯人側の言い分を聞きながらまず時間をかけて対応する、
それが過去に日本で起きた、古くはよど号ハイジャック事件をはじめとする、
人質事件の対応策でしたし、
ハリウッド映画の常套ストーリーの擦り込みでもありました。
しかし現実に起こったことは、そういう漠然としたものを消し飛ばすかのような
アルジェリア政府軍のテロへの攻撃、
そして、その行為は捕虜の生存が脅かされることを辞さないものであり、
テロ事件は終わりました。
しかし日本人の目からみれば、人質17名の内10名が死亡するという痛ましい結果となりました。
このアルジェリア政府の決断に対して、情報開示の悪さを含めて非難する関係国は多かった。
しかし当初激しく避難していたアメリカは事件終結後に、
アルジェリア政府の判断を容認するように態度を変えましたし、
フランスは事件が起こってからずっとアルジェリア政府を擁護していました。
これらから導き出されるテロに対する主要国の態度は、
テロに対して厳しい態度を取らねばならない(妥協しない)、
よって人質が犠牲になることはやむを得ない、
というものです。
随分我々日本人の感覚とは違う態度ですが、
(これが完全に確立されたとは言えないと思いますが)
世界の態度であることが思い知らされました。

今回の事件は、ご親族や関係者の悔しさは当然として
日本人にいくつかのジレンマをもたらしたように思えます。
その一番が日揮でしょう。
こんな危険な場所で仕事はしたくないけれど、
この場所が日揮の最大の収益源であります。
この場所から去ったならもしかしたら会社の存続が困難になるかもしれない。
会社は存続のために、危険を承知で社員をアルジェリアに派遣し続けなければならないかもしれない。
日揮社員にしても、今後「アルジェリアに行ってくれないか」時には
二の足を踏むのではないかと思います。
又、日本政府にも新たな課題を提示しました。
今回の事件で日本政府は何も手を打つことができませんでした。
でも何もしなかったわけではありません。
何もできなかったのです。
でも、海外でも日本人の生命の安全を守る義務が日本政府にあります。
国際法ではそうなっていると思います。
でも何もできなかったという現実に直面しました。
これ(何もできなかったこと)を課題と捉え、
その課題に対処するための対策を考えるという思考方法があります。
日本人にとっては比較的馴染みの良い思考方法だと思いますが、
どういう対策を考えるのであれ、今回はこの思考方法を取らない方が良いと思っています。
亡くなった方々の関係者やご親族の無念さはいかばかりか、
とは思いますがでもその対策を考えるのはよした方が良いと思っています。
関係者やご親族からすれば、何だか裏切られたようなコメントですいません。
悔しいけど、慌てずにテロの悲惨さを訴え続ける、が取るべき道だと思います。
ボーイング787型機の事故が頻繁に起こり、
同機を導入している全日空と日航は運行の緊急中止を決めた。
アメリカの航空行政機関もこの問題に本腰を入れ出した。
全日空は数ある航空会社の中で真っ先にボーイング787を導入した会社である。
全日空ANAのボーイング787の胴体部にデカデカと787と表示し、
見る人に「我が社は787を使っています」ということをアピールしている。
787の使用中止が長引いたりしたら、
全日空は経営的打撃を被り方向転換を迫られることもありうる。
今のところ故障は大災害になっていないが、
今後事故が飛行中に発生して航空不能になって
墜落なんてことになったらそれこそ一大事なので、
行政も航空会社もこの問題に本腰を入れるのは当然だろう。
ボーイング787は世界で800程度の受注がある人気の最新鋭機である。
その飛行機に信頼性が置けないということになれば、
受注キャンセルが重なってボーイング社は経営危機に陥るかもしれないし、
787の部品を供給しているメーカーの経営にも影響を与えるだろう。
産業の裾野が広い航空機の事故はボーイング社にとどまらず
多くの企業に影響を及ぼす。

航空旅客機は膨大な部品と、
それらを齟齬なく運用させるためのソフトフェアがまた膨大な、
高度で巨大なシステムである。
飛行機を飛ばすということだけに着目しても、
十分訓練されたパイロットや乗組員による飛行運行と
多くの熟練者による機体メンテナンス、
それに例えば気象状況を確認する人達などいろんな分野で運行を支える多くのサポーターによって、
安定運行が行われている。
そしてどこか一つが故障や麻痺すると、安定運行は危険にさらされる。
飛行システムのミッションは、
持続可能な安定運行の実現とメンテナンス性にあると言って良いだろう。
要するに何回飛んでも、安心できる飛行が保証されていなければならない。
堕ちてはいけないのだ。
このミッションは航空爆撃機やオスプレイといった軍用機とは根本的に異なるものだ。
ボーイング787は、「他社より優れた経済効率性」を掲げて開発された。
経済効率性は今の時代の最重要な「意義」として世間に認知されたものである。
ボーイング社はこの時代一番の意義に応える旅客機を提供すれば
多くの受注を受けるだろうと考えた。
ところが運行を始めて1年あまりで事故が多発している。
安全運行ミッションに黄色信号が点滅したのである。
原因はいろいろ考えられる。
旅客機は本格運行前に時間をかけたテスト運行を行い問題点の発見と解決を行うが
それが不十分だった可能性も専門家は言及している。
そもそもの設計が不十分だったという可能性もある。
もしかしたら(あってはならないことだが)コストを下げるために
設計仕様よりも悪い仕様を使ったということもあるかもしれない。
原因はいろいろ考えられるのだが原因の底流に流れているものは、
時間を掛けるとコストアップになるので限られた時間で済ませたい、
部品は安いモノ、軽いモノがよい、
というものでその底流の源は、経済効率性なのである。
この事故状況が表していることは、
経済効率性と安定運行の二つのミッションが並列的に存立しているのではなくて、
経済効率性が全面に出る一方で安定運行ミッションはずっと後方に追いやられてしまった、
ということではないか。
どうしてそういうことになってしまったのか?

それは経済効率性と安全運行というミッションは、
ただ並べていても自然に混じって一体化するものではないからである。
経済効率性は競争原理である。仲間よりも自分を優先する原理である。
他者よりも自分が目立ち秀出る原理である。
一方安定運行は毎日が平和で同じであることを望む。大きな差を求めない。
コツコツと積み上げていくことで成り立つ。
正直で実直であり、奇を衒うものではない。
多くの人とモノとプログラムなどが安全運行という目標のために共同して取り組むものである。
そこには「俺が俺が」という意欲は求められない。
つまり安全運行の本質は「共に生きる」ための共同体原理であり、
他者と自分は共存関係にある。
競争原理が強まれば強まるほど共存が難しくなるし、
共存原理が強まり平等が強まれば競争は排除されていく。
競争原理と共存原理は相克の関係にあるのだ。
そういう相克する原理の並立関係配置を実現するには、
そうあらねばならぬという厳しい自己規制が必要になる。
相克する原理を合わせ飲み込む大きな人間力が必要である。
大人(大人とは複数の人格が併存しつつ一体となった人)の運営が必要である。
ところが今の世界に自己規制なるものは
個々の人間にも、それぞれの社会にも希薄になっている。
大人と言われる人も以前より少なくなっている。
重貨幣主義とか、グローバルスタンダードというものは、
自己規制はむしろ自由な発展を阻むもののように扱われているのである。
ボーイング787を事例にしたが、
同類の事件は日本で数年前に社会問題になった食品偽装問題がある。
但し今回のボーイング787のケースは、
民間航路に登場する前にアメリカの行政機関に申請し政府のチェックを受けて認可を得ているのに起こった、
ところに不気味さがある。
規制が弱いから事故が起こるのだから
しっかりしていれば社会はきちんと維持される、
ということをマスコミは何かあるたびに声高に叫び
世間も「規制が大事なのだ」ということを深い吟味もせずに無意識的に受け入れているが、
この常識化した規制大事に対し、
ボーイング787事故はあざ笑うかのようである。
競争原理と共存原理の相克に住み着いた何かの虫が、
我々の住む社会が平常に活動するために積み上げ築いてきた仕組みの
そそかしこを食い荒らしている。
人体の腸に善玉菌と悪玉菌が併存しているが、
健康であれば善玉菌が活性しているので悪玉菌は休眠状態にあるが
健康が阻害されると善玉菌が不活性になりその結果悪玉菌が活性し
腸が不健康になる。
この仕組みと同じようなことがボーイング787のシステムや社会の諸々のシステムで起こっているのではないか。
このまま今の社会風潮が進んでいれば、
社会を支える仕組みが一気に崩壊しかねない、
そんな心配を自分は感じる。
年明けから高校生の自殺事件について、ニュースで連日報道されている。
バスケットボールの名門校のそのバスケ部の二年生キャプテンが自殺したという衝撃と、
その生徒の遺書のようなものにバスケ部監督から継続的に体罰を受けたと書いてあったことが、
波紋を呼んでいる。
マスコミは教育現場の問題としていろいろ語っているが、
高校生の自殺は、彼を逃げ場のない心理状態に追い込んだ結果ではないのか。
それは教育現場に限定できないと思う。
心の育成や救済がない状況にあったからではないか。
自分は教育現場について何の知見もないが、
人の「育成」についてはそれなりの経験と知見は持っている。
教育は教育理念という言葉があるように多分に理念的だが、
育成はむしろ実践である。
育成する対象の個々の特質を考慮して、実践的に行うものである。
自殺は自らの存在を自ら抹消する行為である。
自殺に至る心理課程は色々だろうが、
端的に言うと自己の存在を抹消した方が良いと思い且つその行為を選択することである。
自己の存在について云々するものは、
学びを起動させることを主な目的とする教育問題よりも、
人の存在を前提にした育成の問題ではないかと考える。
今回の高校生の自殺は、教育問題もあるかもしれないが、
育成問題の方が重大だと思うのだ。
育成には、学校だけでなく、家族そして日本の社会もかかわる。
今回は育成の経験と知見に基づいてこの高校生の自殺について
自殺に至らせた構造について書いてみようと思う。

育成は弱き者を育てることだが、
大きく二つのカテゴリーがあると思う。
一つは社会において相対的な優位を確保するための育成である。
人が弱いままでは社会の中で優位な位置に着くことも、維持し更に上位に行くことも難しい。
だから育成の目的は「強くする」ことに集中する。それ以外の目的はずっと後方に押しやられる。
強くするための手段は、競争状態を作ることである。
競争を継続させることで、強くなりたいという感情を誘発させるのだ。
そして指導方法の工夫である。
指導方法はいろんな工夫がありうるが、
優勝劣敗を身体に染み込ませるという方法がある。
劣敗を体罰という形で具現化することがある。
努力をしないものや強くならない者に体罰で「痛い」思いを加える。
痛い思いがイヤだから、強くなろう、努力しようと考えるようにさせるわけだ。
この部分がトコトン強化されると、人格は無視されていく。
「お前の代わりはいくらでもいる」という言葉がはびこる。
そして更に強化されれば、調教レベルに至る。
指導者と被指導者の関係は明確で、指導者は被指導者の絶対的優位に立つ。

もう一つの 育成は、普通でいられるように育てることである。
競争社会の戦士として育てるよりは、共同体の一員として平和で幸せに生きていけるように育てることである。
この育成策は、普段は意識することがないが、生物学的にも人類が原始時代から今日まで生き残ってきた大きな法則がある。
それは、想定外の(あり得ない)ことが起きた時でも生き残れる可能性が高くなるということである。
弱きものが生き残る方法は草食動物に象徴されるように、
群れを作り、群れの仲間と共に生活するという生物的法則がある。
そして、仲間と上手く付き合うことが、集団の外からの想定外の襲撃があった時に
生き残れる確立(あくまでも確立だが)が高い、
ということは人類は歴史以前から生き残ってきた経験則である。
よくわからない邪悪なものの襲撃に対応するための育成である。
集団の外からの襲撃に備えるための育成の目的は、
仲間と上手く付き合う者を育てることである。
そしてコミュニケーション能力強化と
自我の極端な発揮を抑制することを指導する。
自我が極端化すると仲間との軋轢が生じ、孤立化するからである。
自我の極端な発揮は抑制されるが、自我が抑制されるのではない。
ここを間違えると、均質化社会に向かっていく。
没個性で無気力な集団になることが均質社会の弊害だが、これではとても邪悪なものの襲撃に耐えられない。
邪悪なものの襲撃があった時に発動しなければならない気分は
「私は生きなければならない」と「我々は生き延びなければならない」だが、
これは「誰かに十分生かせてもらった」という感謝の思いと
「生かせてもらった恩を後の誰かのために発揮しなければならない」という負債感と、
自己犠牲の習慣である。
こういう与える、与えられたという関係が網目状にあるのが共同体社会である。
共同体社会のキーワードは競争ではなくて成長である。
成長することが主眼であり生きる楽しみであり、
そのためにゲームとして競争も取り入れる。
指導者と被指導者の関係は複雑である。
上位に立つことがあれば、同位に立つこともあるし、
時にはあえて下位に立つこともある。
弱いのに我が強い幼児に対し仲間と上手く付き合うことを教えるには、我慢することや自己犠牲も身につけさせなければならない。
そのために指導者側に自己犠牲や愛情が必要である。

以上の記載で分かっていただけると思うが、
前者は父性型育成であり、後者は母性型育成である。
この二つの育成策は想定している事態状況が異なる。
スタジアムで試合をしているとしよう。
その試合で相手に勝てるかどうか、それを想定しているのが前者である。
試合に勝てるかどうかは、リスクで量ることができる。
だから前者の育成策はリスク対応育成策と言える。
でもそのスタジアムに突然暴徒が機関銃で襲撃してきた時に
(映画みたいな事態だが、現実に起こっていること)、
生き残る確立を上げる方法が後者である。
想定外の事態は、デインジャーというものなので
後者の育成作はデインジャー対応育成策と言える。
これを育成の構造として、今回の事件を見てみよう。

この事件を起こしたバスケ部の監督と高校について。
監督は弱小バスケ部を強くし、全国レベルに引き上げ、
いろんな賞を取ってきた人物だそうである。
バスケットにおける生徒育成においても経験的に確立していたはずである。
そして体罰が有効であることを(良し悪しの問題ではなく)経験的に確立していたと思われる。
一方高校は、バスケ部を全国レベルにして知名度を上げることで、
高校存続競争で優位性を得ようと考えていた。
監督は高校側の要請に見事に応えた人物であり、
高校は監督にその貢献に相応する遇し方をしたであろうし、
バスケ部を更に強くすることを期待していた、と思われる。
高校と監督はバスケ部を「強くする」ことを目的にすることで一致していたはずである。
この環境では、監督の生徒育成策は父性型育成になりリスク対応育成になったはずである。
その手段として、体罰もありだ、と監督は当然のことと考えたであろうし、
高校側もある程度の体罰はやむを得ないと考えたと思われる。
だから、教育委員会の調査もなおざりな対応をした。
(教育委員会がなおざりな調査で終わらせた、という点は今回のブログの論点ではない)
だが、高校も監督も競争やリスクの外にある大事なことを想定だにしなかった。
人は厳しい痛みを受け続けると壊れる生き物である、ということを想定しなかった。
今回のような事件を起こすとバスケ部の存続も難しくなるということを、
場合によっては高校の存続も難しくなりうることを、想定しなかった。
試合に勝つため、という狭い視野でしか思考していなかったと思われる。
デインジャーに対する想定はなく、
監督やバスケ部の他の仲間や周りの人間が、その自殺したキャプテンを擁護するような行動を取らせるような育成指導をしていなかったと思われる。

自殺した高校生はとてもお気の毒である。
彼はバスケットボールの強い高校でキャプテンになったのだから、
バスケットボールにおいて優秀であったのだろう。
ただ、それが結果的に彼にとって災いとなった。
バスケットボールが上手いことが、自分という人間が存続していることの意義の上位を占めていたと思われる。
それが名門バスケ部に入ることで強化され、キャプテンに抜擢されることで更に強化されたと思われる。
バスケットボールを取ったら自分は何もない、という自己認識が強化されていただろう。
ところが、監督から体罰が継続して行われた(厳しい言動も多分あったであろう)。
想像だが、彼のプライドはボロボロになり人格は歪められていったと思われる。
そして、この辛い状況から逃れる最後の手段である「辞める」ということを選択することさえできないほどになってしまった。
それは、コーナーロープに追い込まれたボクサーがボコボコに打たれてフラフラになっている時にタオルを投げてくれるセコンドもいないので、ダウンして試合を終わらせるしかないと考えたのと同じである。
ある有名なスポーツ選手が体罰にあって耐えられないならば、勇気を持って他の高校に移るべきだと今回の事件に関して言っているそうである。
自分もこの意見に賛成である。
だが自分はこの意見にもう一つ加えたい。
それは先ほどのボクシングの例でいうならば、
これ以上ボクシングを続けることは危険であると判断された時に、
タオルを投げるセコンドが絶対必要だという意見である。
このセコンドの役目は、競争と強化を目的とする育成策の中に組み込まれていると良いだろう。
ここは教育の現場で考えていただきたい課題である。
しかし、そういうことを父性型育成に求めるより前に
育成される対象者の周りに「対象者の状況を考えてやり、対象者が生きる場所は他にもあるし見つけることができる」と言ってあげることの方が大事ではないか。
サポートし、そう考えるように育成する母性型育成の強化を求めたい。

今の日本は襲撃が外からくるばかりでなく、
組織や環境が邪悪化しつつある。
邪悪化が言い過ぎというなら閉塞でも良い。
何故閉塞しているかというと、
長く平和で繁栄した安全な時代が続いたためにデインジャーに対し鈍感になり、
競争社会やリスクしか視野に入っていないからである。
競争もリスクも閉ざされた環境でこそその力を発揮するので、
競争は閉じた環境を好みリスク対応育成が横行する。
閉じた環境は、行き場のない水場がそのままにしておくといずれ腐臭を放つように、
閉塞する。
自分も会社を辞めたいと真剣に考えたことがあった。
それでも辞めずに済んだのだが、それはひとえに「辞めてもいいよ」と言われ、
ここを辞めたからといってあなたという人間が否定されるものではない、
というメッセージを「受け取った」からである。
自分は、辞めてもいいんだ、と思えたことでその環境で頑張り打開することができた。
他の社会に開かれたドアがあると思えたから、
閉じた環境で頑張ることができた。
日本の社会で若者だけでなく大人や勤労者の自殺を減らすには、
今いる組織や環境や社会から逃げることができるということがもっと強化される必要があるし、
自分はそれをデインジャー育成策や母性型育成の復権に求めるのである。
そんな閉塞で邪悪な処に運悪く入ってしまった場合には、そこから逃げるということも母性型育成、デインジャー対応育成の方法の一つであろう。