里やが燃えた。
朝ドラ『純と愛』のことだ。
幸せなホテルを目指している主人公・純は、
この里やでようやく自分の目指しているものが実現しそうだった。
ところが、純の強い援助によって花嫁の幸福を掴みかけた女性が
酒癖の悪さがアダになって破談し自棄になって泥酔した。
その時吸っていた寝タバコが原因で、里やは燃えてしまった。
純はエネルギーを注いできた里やが焼失し、茫然自失になった。
純は夫の愛に、「どうして私がやることはダメになるのか。
一生懸命やっているのに報われないのか。
私はやれもしないことをやっていたのじゃないか。
やっても無駄じゃないか。
この世に神様はいないんじゃないか。」
と悲しみにくれて問う。
愛は「この世にはのうのうと生きている人がいます。
純さんのように他人以上に頑張って、でもなかなか報われない人もいます。
自分だって神様はいるのかと思います。
でもこの世の中はそういう風にできているのだと思います。
理不尽な世の中です。
でも純さんが人を幸せにしようとしてくれたおかげで
多くの人が幸せになれたし、笑うことができました。
これは事実です。
あなたはその事実を否定するのですか。
私があなたと出会えて幸せになったこと、これは否定できない。
こんな世の中だけどガンバルしかないんでしょう。
そして愛が一番大切で、希望を持って生きて行くんです」
と答えます。
NHK朝の連ドラ『純と愛』について書くのがこれで3回目。
結構、視聴者に訴えてくるドラマだ。
このドラマについて前に書いたことは家族のことだったが、
最近は困難に立ち向かうことが主題になっている。
脚本家も人が悪いというか、
純の周りでこれでもかこれでもかと、困難なことが起こる。
脚本家がどんな人か知らないが、
これだけ矢継ぎ早に困難が提示されても見飽きないのは、
困難に潜む意味を視聴者に受け取らせ感じさせる、
脚本家として大切な力があるからだろう。
冷静に考えると純が蒙っている困難の半分(それとももっと?)は
純が幸せと笑顔に満ちた他のどこにもない地上の楽園のホテルを
作りたいと願い、それを行動にし、
周りの人を巻き込んで行く過程で起こる困難なのだ。
そこで起こるわけのわからないことの意味を
ドラマのストーリーの中の登場人物に、
今回は愛が純に、この世は理不尽であると言わせている。
この世は善行をしたものには報奨を、
悪行をなしたものには懲罰を与える、
そのような単純な世界ではないと言っているように聞こえる。
純のキャラの特性は「これで終わり」というものがない。
無限の理想追求をやめない特性である。
どちらかというと日本人的ではなく、西洋人的特性と言って良い。
(日本人の特性は、むしろ折り合う、だから)
そこで思い出しました。
哲学者レヴィナスが神の実在を疑ったユダヤ人に対して言った言葉があります。
「あなたがたはこれまでどのような神をその頭上に戴いていたのか。
それは善行をしたものには報奨を、悪行をなしたものには懲罰を与える、
そのような単純な神だったのか。
だとすれば、それは幼児の神である。
だが、私たちがこうむった災厄は神のなしたものではない。
人間が人間に対してなしたことである。
人間が人間に対して犯した罪を神が代わって贖うことはできない。
人間が人間に対して犯した罪は人間しか贖うことができない。
神がもしその威徳にふさわしいものであるなら、
神は必ずや「神抜きで、独力で、地上に公正と平安をもたらすだけの
能力を備えた被造物」を創造されたはずである。
神の支援がなければ何もできず、ただ暴力と不正のうちで
立ち尽くすようなものを神が創造されるはずがない。
人間が人間に対して犯した不正は、人間が独力で、
神の支援抜きで正さなければならない。
人間が自分ひとりの力で、地上に平和で公正な社会を実現したときに
はじめて私たちはこう宣言することができる。
「世界を創造したのは神である。なぜならば神が手ずから創造すべき世界を
被造物である私たちが独力で作り出したからである。
神がなすべき仕事をみずからの責務として果たしうるような被造物が
存在するという事実以上に神の威徳と全能を証明する事実があろうか。」」
何とも力強いお言葉であります。
無敵であります。
もしかしたら、脚本家はこのレヴィナスの言葉をベースにして
ドラマを作っていたりして。
レヴィナスの言葉を直接聞いても
日本人にはすっと胸に染み込んでこないかもしれない。
日本人の底辺にある思想は因果応報であり、それは仏が支配する世界です。
子供のいたずらに親が叱る時の言葉は
「そんなことをしたらバチが当たりますよ」でしょ。
これは因果応報のことです。
でも、自分は子供の時から不思議に思っていたことがあって、
「同じいたずらをしても、叱られる人がいる一方で
全く叱られない人がいるじゃないか」と思っていました。
子供の頃からこの世は理不尽であると思って生きてきた。
でも報われる人がいる一方で報われない人もいる世の中を、
「善行をしたものには報奨を、悪行をなしたものには懲罰を与える、
そのような単純な神だったのか。
だとすれば、それは幼児の神である」という思考の跳躍は思いもつかない。
でも同じような理不尽を目の前にして、
全く違う思考の跳躍をした人を自分たち日本人は知っています。
それが愚禿・親鸞であり、親鸞の悪人正機です。
「善人なおもて往生をとぐ、言わんや悪人をや」の大逆転を説きます。
善人とはスイスイと上手く行って幸せな人、悪人とはなすことが上手くいかず
苦悩に苦しむ人、と自分は読みます。
親鸞は逆説の根拠を
「自力作善の人は、ひとえに他力をたのむ心かけたるあいだ、
弥陀の本願にあらず」(自分の力でスイスイとやり遂げる人は、
如来の力に頼る心が欠けている。そういう善人を救済するのは如来の
本当の願いではない)というところに置きます。
親鸞は、苦悩で苦しみ困難に悩む人こそ阿弥陀如来によって救われると
説きました。
そこにいる人間は、愚かで弱い人間です。
愚かで弱い人間が、この世の中の理不尽に耐え、生き抜いてこそ
阿弥陀如来の愛を受け取ると説いたのです。
レヴィナスの神と親鸞の如来の差は
レヴィナスの神、神の創造力を人間に与えた神は(何も言わずに)、
「人間よ、自力で神の世界を実現せよ」の思いで人間を見守っているのに対して、
親鸞の如来は「弱き人間よ、私が必ず衆生をみんな救うから、
苦しくとも私を見失わず私の力を求めよ」と手を差し伸べます。
理不尽を前にして、レヴィナスと親鸞の二種類の跳躍があります。
レヴィナスの跳躍は無限発展を目指す人向き、
親鸞の跳躍は自分を愚かで弱いという人向き、と言えるでしょうか。
レヴィナスは父性が強く、親鸞は母性が強いとも言えます。
レヴィナスは自力で、親鸞は他力ともいえます。
でもどちらも、困難に遭遇している人に跳躍を求めています。
正しい行いには報酬があり悪い行いには罰があるということを基本にしながらも、
それでは解けないことがこの世の中にはいっぱいあり、それがこの世の中である。
そういう困難に遭遇した時には、跳躍しなければならない。
跳躍とは「この世は理不尽なものである」と悟ること、
原理で起こる現象と理屈では説明できないこととが混在することを「受け入れる」こと。
その跳躍によって簡単な原理でしか現象を見ていなかった幼児的な自分から、
逆転の発送もできるという大人への脱皮が始まる。
その上で、跳躍の方法にレヴィナスと親鸞の
大きく二つが用意されている、ということでしょう。
父性でいくか母性でいくか、自力でいくか他力でいくか。
自分は、レヴィナスはすごいと思うけれども、
親鸞の跳躍の方が馴染む、と感じます。
朝ドラ『純と愛』のことだ。
幸せなホテルを目指している主人公・純は、
この里やでようやく自分の目指しているものが実現しそうだった。
ところが、純の強い援助によって花嫁の幸福を掴みかけた女性が
酒癖の悪さがアダになって破談し自棄になって泥酔した。
その時吸っていた寝タバコが原因で、里やは燃えてしまった。
純はエネルギーを注いできた里やが焼失し、茫然自失になった。
純は夫の愛に、「どうして私がやることはダメになるのか。
一生懸命やっているのに報われないのか。
私はやれもしないことをやっていたのじゃないか。
やっても無駄じゃないか。
この世に神様はいないんじゃないか。」
と悲しみにくれて問う。
愛は「この世にはのうのうと生きている人がいます。
純さんのように他人以上に頑張って、でもなかなか報われない人もいます。
自分だって神様はいるのかと思います。
でもこの世の中はそういう風にできているのだと思います。
理不尽な世の中です。
でも純さんが人を幸せにしようとしてくれたおかげで
多くの人が幸せになれたし、笑うことができました。
これは事実です。
あなたはその事実を否定するのですか。
私があなたと出会えて幸せになったこと、これは否定できない。
こんな世の中だけどガンバルしかないんでしょう。
そして愛が一番大切で、希望を持って生きて行くんです」
と答えます。
NHK朝の連ドラ『純と愛』について書くのがこれで3回目。
結構、視聴者に訴えてくるドラマだ。
このドラマについて前に書いたことは家族のことだったが、
最近は困難に立ち向かうことが主題になっている。
脚本家も人が悪いというか、
純の周りでこれでもかこれでもかと、困難なことが起こる。
脚本家がどんな人か知らないが、
これだけ矢継ぎ早に困難が提示されても見飽きないのは、
困難に潜む意味を視聴者に受け取らせ感じさせる、
脚本家として大切な力があるからだろう。
冷静に考えると純が蒙っている困難の半分(それとももっと?)は
純が幸せと笑顔に満ちた他のどこにもない地上の楽園のホテルを
作りたいと願い、それを行動にし、
周りの人を巻き込んで行く過程で起こる困難なのだ。
そこで起こるわけのわからないことの意味を
ドラマのストーリーの中の登場人物に、
今回は愛が純に、この世は理不尽であると言わせている。
この世は善行をしたものには報奨を、
悪行をなしたものには懲罰を与える、
そのような単純な世界ではないと言っているように聞こえる。
純のキャラの特性は「これで終わり」というものがない。
無限の理想追求をやめない特性である。
どちらかというと日本人的ではなく、西洋人的特性と言って良い。
(日本人の特性は、むしろ折り合う、だから)
そこで思い出しました。
哲学者レヴィナスが神の実在を疑ったユダヤ人に対して言った言葉があります。
「あなたがたはこれまでどのような神をその頭上に戴いていたのか。
それは善行をしたものには報奨を、悪行をなしたものには懲罰を与える、
そのような単純な神だったのか。
だとすれば、それは幼児の神である。
だが、私たちがこうむった災厄は神のなしたものではない。
人間が人間に対してなしたことである。
人間が人間に対して犯した罪を神が代わって贖うことはできない。
人間が人間に対して犯した罪は人間しか贖うことができない。
神がもしその威徳にふさわしいものであるなら、
神は必ずや「神抜きで、独力で、地上に公正と平安をもたらすだけの
能力を備えた被造物」を創造されたはずである。
神の支援がなければ何もできず、ただ暴力と不正のうちで
立ち尽くすようなものを神が創造されるはずがない。
人間が人間に対して犯した不正は、人間が独力で、
神の支援抜きで正さなければならない。
人間が自分ひとりの力で、地上に平和で公正な社会を実現したときに
はじめて私たちはこう宣言することができる。
「世界を創造したのは神である。なぜならば神が手ずから創造すべき世界を
被造物である私たちが独力で作り出したからである。
神がなすべき仕事をみずからの責務として果たしうるような被造物が
存在するという事実以上に神の威徳と全能を証明する事実があろうか。」」
何とも力強いお言葉であります。
無敵であります。
もしかしたら、脚本家はこのレヴィナスの言葉をベースにして
ドラマを作っていたりして。
レヴィナスの言葉を直接聞いても
日本人にはすっと胸に染み込んでこないかもしれない。
日本人の底辺にある思想は因果応報であり、それは仏が支配する世界です。
子供のいたずらに親が叱る時の言葉は
「そんなことをしたらバチが当たりますよ」でしょ。
これは因果応報のことです。
でも、自分は子供の時から不思議に思っていたことがあって、
「同じいたずらをしても、叱られる人がいる一方で
全く叱られない人がいるじゃないか」と思っていました。
子供の頃からこの世は理不尽であると思って生きてきた。
でも報われる人がいる一方で報われない人もいる世の中を、
「善行をしたものには報奨を、悪行をなしたものには懲罰を与える、
そのような単純な神だったのか。
だとすれば、それは幼児の神である」という思考の跳躍は思いもつかない。
でも同じような理不尽を目の前にして、
全く違う思考の跳躍をした人を自分たち日本人は知っています。
それが愚禿・親鸞であり、親鸞の悪人正機です。
「善人なおもて往生をとぐ、言わんや悪人をや」の大逆転を説きます。
善人とはスイスイと上手く行って幸せな人、悪人とはなすことが上手くいかず
苦悩に苦しむ人、と自分は読みます。
親鸞は逆説の根拠を
「自力作善の人は、ひとえに他力をたのむ心かけたるあいだ、
弥陀の本願にあらず」(自分の力でスイスイとやり遂げる人は、
如来の力に頼る心が欠けている。そういう善人を救済するのは如来の
本当の願いではない)というところに置きます。
親鸞は、苦悩で苦しみ困難に悩む人こそ阿弥陀如来によって救われると
説きました。
そこにいる人間は、愚かで弱い人間です。
愚かで弱い人間が、この世の中の理不尽に耐え、生き抜いてこそ
阿弥陀如来の愛を受け取ると説いたのです。
レヴィナスの神と親鸞の如来の差は
レヴィナスの神、神の創造力を人間に与えた神は(何も言わずに)、
「人間よ、自力で神の世界を実現せよ」の思いで人間を見守っているのに対して、
親鸞の如来は「弱き人間よ、私が必ず衆生をみんな救うから、
苦しくとも私を見失わず私の力を求めよ」と手を差し伸べます。
理不尽を前にして、レヴィナスと親鸞の二種類の跳躍があります。
レヴィナスの跳躍は無限発展を目指す人向き、
親鸞の跳躍は自分を愚かで弱いという人向き、と言えるでしょうか。
レヴィナスは父性が強く、親鸞は母性が強いとも言えます。
レヴィナスは自力で、親鸞は他力ともいえます。
でもどちらも、困難に遭遇している人に跳躍を求めています。
正しい行いには報酬があり悪い行いには罰があるということを基本にしながらも、
それでは解けないことがこの世の中にはいっぱいあり、それがこの世の中である。
そういう困難に遭遇した時には、跳躍しなければならない。
跳躍とは「この世は理不尽なものである」と悟ること、
原理で起こる現象と理屈では説明できないこととが混在することを「受け入れる」こと。
その跳躍によって簡単な原理でしか現象を見ていなかった幼児的な自分から、
逆転の発送もできるという大人への脱皮が始まる。
その上で、跳躍の方法にレヴィナスと親鸞の
大きく二つが用意されている、ということでしょう。
父性でいくか母性でいくか、自力でいくか他力でいくか。
自分は、レヴィナスはすごいと思うけれども、
親鸞の跳躍の方が馴染む、と感じます。