3月15日、安倍首相はTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)参加交渉する表明を行った。
TPPに参加するか否かは日本並びに日本人にとって
とても大きな分岐になる重要な問題なので、自分の考えは明らかにしておいた方が良いだろう。
ブログでははじめて取り上げるテーマだが、実はツイッターでは何度かコメントしたことがある。
自分はTPP参加反対の立場を取る。
自分の立場とは、職業社会人という立場から導かれる利害意識を外した純な日本人としての56歳(3月16日に56歳になった)の日本男子の立場である。それを簡略に書いておく。

TPPの出発点は、シンガポール、ブルネイ、ニュージーランド、チリ四カ国による自由貿易協定であった。
それが参加国が増える中でアメリカが交渉に加わるようになり、
アメリカ(オバマ政権)はこのTPPにアメリカの国益を見出し、日本にも参加を求めてきた。
日本は何年も前からこの問題を抱えて起きながら
明確な意思表示をせずにズルズル中途半端な態度であったが、
安倍首相が訪米しオバマ大統領と会った以降はいっきに交渉参加に傾いていった。
ズルズル中途半端だったのはこのTPP参加におけるメリットとデメリットが拮抗していて簡単に答えを出せないからである。
もう少し言葉を加えると、政府関係者が考えるTPP参加後の予想がバラバラであるために意見集約ができなかったからだ。
自分の立場をわかりやすくするために、まずは推進派との違いを明らかにしておこう。
推進派は大きく3つに分類できるのではないか。
最大の推進派はTPPの自由貿易という理念や制度が多くのメリットをもたらすと考える経済界、中でもグローバル企業群である。彼らは一貫してTPP参加を支持している。
次のグループはTPP参加によって自由化など間接的メリットを確保できると考える集団である。TPPは幾つもの業種分化を定めている。その該当分化業種が閉鎖社会という悪い体質に陥っている時に、TPP参加により閉鎖社会に風穴が通ると期待する人々である。
最後は日本の安全保障上アメリカと強固な関係を築く必要があるために、アメリカが求めるTPPに参加しなければならないと考える人たちである。
この人たちはTPPをアメリカへの献上物かのように考えているように思える。

経済発展は、フロンティア(未開拓地)を見出すことによって始まる。
フロンティアはズバリ土地や地域のこともあれば、新しい産業、新しい商品であることもある。
勿論経済を立ち上げるには、交易が行われ、
人、物、金(21世紀では情報も)が投入されることが必要である。
だから、経済発展できる集団とは、交易ができて、
人、物、金を投入できてフロンティアを見出した集団である。
アメリカは人、物、金が投入できる地位にあるが、
TPPにフロンティアと更なる交易を見出したからTPPに積極的なのである。
そしてアメリカがこのフロンティアに投入する商品(対象物、実弾)は
薬や医療、大量生産食物だが、隠し玉にシェールガスがある。
このシェールガスは石油価格高騰に悩みTPPに二の足を踏んでいる国に対して、
横っ面を張り倒すような効き目を持っている。
一方日本はどうか。
アメリカと同じ立場に立てるものは、人、物、金が投入できるところにある。
ではフロンティアは見出されるかというと
アメリカに比べてそれほどのことはないと自分は考える。
それはアメリカにとって日本はフロンティアになり得るが、
日本にとってアメリカはフロンティアではない、というところに収斂される。
日本が投入できる実弾は自動車であり、
その自動車は今でもアメリカのかなりの市場を押さえている。
簡単に言ってしまうと、自動車以外の実弾が見出されない限り、
TPPで経済バトルをした場合、日本はアメリカに負ける。
日本が負ける最大の業種が農業である。
TPP参加により日本の農業生産は10兆円から7兆円に激減すると日本政府は試算している。
単純に言ってしまえば、農業に従事している人の3割の方々が職を失うのだ。
TPP推進派の経済団体は、農業で失うであろう3兆円の消失を
上回る益を獲得するからTPPに参加せよと主張する。
数字では合理性があるように見えるが、ここがちょっと疑わしい。
日本国家にとって何が合理的かというと、
国家を維持するための税を払ってくれるかどうかにある。
しかるにTPPを推進するグローバル企業はそもそも国に税金を払うテンションが低い。
できれば払わない方法を考えるのがグローバル企業なのである。
都市銀行というグローバル企業に30年務めた自分が言うのだ。
現に大手銀行は長い間税金を払っていない。
はっきり言ってしまえばグローバル企業がTPPで得る益は、
日本の懐にそのまま入ってくるものではない。
つまり、TPP参加は日本にとって失うものは多く得るものは少ないのだ。

安全保障上の対策としてTPP参加という考え方がある。
安倍首相はここを重視しているように思える。
確かに隣国中国、それに暴走する北朝鮮の脅威は大きく、
それに対抗するには日米同盟が日本にとっての生命線であることは論を待たない。
だからと言って、日米同盟とは直接的関係がないTPPに無理やり入らなければならないのか?
これじゃあ、TPPはアメリカへの貢物と考えているとしか思えない。
貢物とは属国が宗主国に贈るものであり、
日本はアメリカの属国であることを実質的に認めることとなる。
日本政府が日本はアメリカの属国であると認めて(表明して)、
そして国家としての主権は無いと認めてTPPに参加するならば、百歩譲ろう。
何を譲るかと言えば、農業の大打撃である。
日本が農業生産のかなりの部分を放棄し食物自給率が世界の中で最下位になったとしても、
宗主国アメリカは属国日本が食いつなぐだけの食料(まずくても危険でも文句は言えない)を
売ってくれるだろう、という推論が成り立つからである。
もっと言うと、アメリカの51番目の州になりたいと表明したらどうか。
英語を国語と定め自衛隊は海外派兵する。
日本語は弱体化し日本文化の弱体化を招く。
戦争放棄を放棄し、アメリカの正義のもとに派兵され戦争が行われるだろう。
アメリカの正義で痛めつけられた人々はテロで報復しているが、
テロリストの矛先は日本領土と日本人にも向かうだろう。
でも非核三原則を放棄し日本国内に核を持つことに反対できる近隣国はなくなる。
隣国たちは本気でアメリカと戦争すると決意しない限り、日本を攻めてくることはない。
しかし、日本政府は日本に主権がない、と表明することはないはずだ。
そんなことをすれば、日本国内が大混乱に陥ってしまい、政府が転覆するに違いない。
だから表明しないで、主権国の自主的判断としてTPPに参加するがのごとき装おうとしている。
しかしこのツケはとても大きく
(属国と同じような振る舞いをすれば宗主国は宗主国としての要求を日本に求める)
日本の主権は今後大きく毀損し
(TPPすらアメリカの意向と違うことが出来ない日本は
これからもアメリカの要求を拒否出来ないだろう)
結果的に主権国家である地位を失い、日本国憲法にある戦争放棄は守れなくなるだろう。
日本の安全保障の重要なテーマは、防衛力と資源とエネルギー確保である。
この二つが経済よりも先である。
防衛力は核を持つことによる抑止力が今現在の最大の安全保障になるが、
第二次世界大戦で隣国に侵略した日本に核保有を認める国があるはずがなく、
日本はアメリカに抑止力を求めざるを得ない。
それが非核三原則に隠れた真意である。
真意であるが、非核三原則を建前に国内に抑止力の核はないと言う。
まことに不可思議なロジックである。
ただアメリカを起点にして、環太平洋諸国と戦略的に軍事協定を作り上げて行く手段はあるはずだ。
又、資源の問題も環太平洋で協定を結んで行く手段はあるはず。
インドネシアは資源国だしオーストラリアも期待できる。
四島返還問題が解決できず、平和条約が結べていないロシアに対しても
樺太さらにはシベリアの資源に着目すれば、戦略的に協定を結ぶことはあって良いと考えられる。
TPPの前にそういう議論をするべきだ、と申しているのだ。
これは日本国家の主権にかかわることであり国益にかなうことである。
要は安全保障問題の主題は防衛力と資源確保であり、
その議論をしないでいきなりTPPに頼る戦術は、
結果的に防衛力と資源確保問題を置き去りにしてしまい、
日本の主権は毀損されて行くと考えるから、
反対なのである。

TPPの問題の根本は、国家とグローバル経済のどちらが21世紀の主導権を握るのか、にある。
日本にはその問題がTPPというテーマで現れたのである。
グローバル経済は経済合理性だけが活動原理であり、国家の利害を離れて活動する。
一方国家は人民と領土を持ち、人民の最大利益を追求することを目的に政府と官僚を持つ。
国家は農業しかできない人も含めて国民の利益を守らなければならない。
グローバル経済にとって大事なものは、今手に入る利益であり富である。
グローバル経済の主体であるグローバル企業は、
10年後も存続しているかどうかもわからない存在であるために、目先の利益を求める。
国家は100年後も存続しているだろうことを前提に制度設計されている。
当然目先の利益よりも長く続く富の形成を目標化する。
この違いが社会資本の対応に現れる。
国家は長い繁栄を形成するために、社会資本の充実を行う。
道路を整備し交通を整え施設を作ることで、人民の利益を図る。
つまり社会資本は国家の富の一部である。
グローバル経済はその社会資本を只のように使い自己利益の最大化を図る。
社会資本の使用に一生懸命になるが、社会資本の増大には消極的である。
グローバル経済の利害は国家の利害とは決して一致しない。
しかし20世紀後半からグローバル経済は国家の束縛を外れてどんどん巨大化した。
この巨大化はグローバル経済が発展したアメリカで起こり
アメリカ政府もその巨大化を支援し、今も支援しているように見える。
(アメリカの内向き化傾向もあって必ずしもそう言い切れないケースも見られるが)
アメリカが世界のリーダーである限り、
グローバル経済の振る舞いはアメリカの国益の範疇にある。
このロジックは世界のリーダーであるアメリカにだけ通用するロジックであり、
アメリカ以外の国々には通用しない。
ヨーロッパがユーロ経済圏を形成した理由もグローバル経済問題が根本にある。
一国の経済では国家の主権を維持できないので、
ユーロでまとまりグローバル経済に合わせる一方で、
それぞれの国は限定された主権を守ろうとした。
欧州がユーロで纏まることができたのは、
400年前は神聖ローマ帝国として一つであったこと、
国家という概念が生まれたウェストファリア条約は自らの意思で作ったものであること、
幾多の戦争を経てこれ以上の戦争は益が無いと認識を共通したこと、
ソ連に対抗するためにNATO軍事同盟を作り
ECという共同体を作ってきた歴史的積み重ねと関係があるからである。
だか環太平洋には欧州のような歴史的事実も関係もない。
アメリカから見ても世界経済から見ても、環太平洋はフロンティアであることと、
中国の巨大化に対抗する必要に迫られているという状況がある。
この状況をTPPで解決を図るという考え方があることは自分も認める。
しかし、それは考えなければならない防衛問題と資源問題を抜きにしてしまうことであり、
取り返しがつかないことになると考える。
グローバル経済重視は必ず国家の主権を脅かす、
ということをわかっていないとTPP問題を見誤る。

400年続いてきた(国民)国家が制度疲労を起こしている、ということは認めざるを得ない。
国家という制度枠を新たな枠組みで作り直さなければならないのではないか、
という思いは自分にもある。
しかしその取って代わるものが、グローバル経済だとは思えない。
理由はすでに書いたことの繰り返しになるが、
グローバル経済は社会資本の蓄積に興味がないために
世界の富の底上げ貢献が期待できないからであり、
自己利益優先原理が人民の格差を生み社会を荒廃させると思うからである。
グローバル経済が進めば
一握りの集団に富が集中しそれ以外の人民は貧しい。
そして世界の富を有する王たる者が社会資本に興味がなく人民の生活に興味がないどころか、
そういう人民たちを敗者と切って捨てる社会にだってなりかねないのだ。
そういう社会にしてはいけないし望んでもいけない、と自分は考える。
自分にとって、
日本の土地、日本の人民、日本の食、日本の自然と風土、
2000年以上の歴史、日本の文化そして日本の勤勉性が
失いたくない国富であると考える。
人口減少社会になって経済が少々小さくなっても守るベキものだ。
そしてこれらの富を支える経済理念はグローバル経済原理と一線を引く、
国民経済原理であり経世済民思想の延長にある。
国民に職を提供しどうやって食わせていくかが大きなテーマとなる。
富の集中ではなく、富の適正な循環が大事であり
そのためには相互扶助の精神は失ってはならない。
人民は守られなければならない、それが原則であり
守られる人民は応分の努力を社会に提供しなければならない。
守るべきものがあれば、独自の意見が必ずできる。
それは「当事者の当然の発露」である。
それは時にアメリカの意とそぐわないことがあるかもしれないが、
それでも日米同盟に則して果たすことはあるはずだ。
それは、戦後日本の振る舞い方と一部異なるところが発揮されることになるだろうが、
それは国家が存立する基盤がグローバル経済の発展によって
変わってしまったから起こることである。
何も言わずに日本国家の主権が守られる時代は終わった。
何も言わないことはグローバル経済に国家が屈服することを指す。
しかしマスメディアはそれを言わない。
農業団体が自分の利権を守るために反対している、
という構図でしか描けないことこそが日本国民の悲劇である。
グローバル経済(団体)の意見は当事者の当然の発露では無い。
彼らは日本に存立することに益が無いと判断すれば、
間違いなく日本を捨てる。
自らグローバル経済の旗手を任ずる経済界の重鎮は同じ日本人の顔をしているが、
日本の主権を守り発展させようと日々もがき苦しみ努力している人々とは違うのだ。
当事者で無いものたちの意見は話半分で聞いておけば良い。
それが大人の聞き方であると思う。
2013年3月9日の春。
テレビでは2年前の震災について、特に原子力発電所事故と放射能放出について
各放送局が特集を組んでいる。
そうか、あの悲惨な事故から2年が過ぎたんだ。
原子力発電について、日本の基本方針は蛇行し
(民主党政権では原子力発電廃止を打ち出したが、阿部自民党は原子力発電存続を打ち出す)、
又福島原発のその後について、少なくとも私たち国民には
具体的対応が進んでいるようには見えておらず、
混迷しているのか具体的対応を怠っているのかも、知らされていない。

春になると、中国大陸から飛来する黄砂に辟易する。
これは21世紀では毎年のことだが、今年はPM2.5というもっと深刻な問題が起こっている。
マスクの防布の間をすり抜けるくらいにとても小さくて体に有害な粒子が、
中国大陸から大量に日本列島に飛来してきている。
だから健康のことを考えると、外出しない方が良い。
花粉もかなりの量が飛んでいる。
全く春だというのに、滅入ることが一杯ある。

でも野球はWBCで盛り上がっているじゃないか。
昨日の日本ー台湾戦はとても素晴らしい試合だった。
ヒーローは井端選手である。
日本が同点に追いついたそのすぐ後の8回裏に台湾が1点を追加して日本を突き放した。
日本にはもう9回一回だけしか残されてなくて、崖っぷちである。
そんな追い詰められた状況で同点打を打った井端選手は、間違いなくこの試合のMVPだ。
しかし僕ら素人の目からみれば、阪神所属の(関西在住の自分はここを強調する)鳥谷は、
最も驚かせてくれたMS(サプライズド)Pである。
9回2アウトで一塁ランナーだった鳥谷は、2塁にスチールしたのだ。
このプレーがもし失敗しアウトになっていれば試合はゲームセットだったから、
盗塁というプレーを誰も想定していなかった。
そんなギリギリ状態の盗塁成功に鳥肌がたった。
そしてこのプレーが井端の同点打を導いたと言える。
WBCのNHK日本チームは僕たちは僕らに元気をくれている。

仕事は満腹感一杯、休みの今日は朝11時に起きた。
それからしばらくしてお昼にパスタを作ったら、
家族に美味しいと言われて嬉しかった。
明日から大相撲春場所が始まり、妻と一緒に初日を見に行く。
ポカポカして外に出ると、車に乗ると遠回りしてドライブを楽しんだ。
やっぱり、春はうふふなのだ。
震災や原子力事故やPM2.5や花粉に苦しんでいる人々には申し訳ないが、
やっぱり春は嬉しい。
未来の春でもそんな気分になれることを願っている。
叩く指導について考えてみたい。
先日テレビで、教育委員会の方と教育現場の先生、教育問題に詳しい方たちが
討論している様子を見た。
叩いて指導する、とはどういうことなのか。
もし自分の目の前に生徒を叩いた指導者がいるとして、
素直に「どうして叩いたのですか?」と聞いたら何と答えるだろうかと想像してみる。
指導者は、腹が立ったからと言ってはならない、ことになっている。
(それが今の日本の暗黙のルール、だから)
「生徒を正しく指導しようと思ったからです。
叩くという行為はその指導の手段に過ぎない。
叩くことが褒められたことでないことはわかっているが、
そうでもしないと正すことができない生徒がいる、
ということをご理解願いたい。」といったところが標準的な回答ではないだろうか。
指導者が指導の命題としている「正しく指導する」とは
「正しいことを教える」ことか又は「生徒を正す」ところに置いている。
この指導は言葉と身振りで行われるが、
口で言ってわからない生徒に対しては「叩く」ということもやむを得ない。
(勿論叩かない方が良いことはわかっている)
しかし今の日本人は口で言ってわからない人が多いので、
例外手段であるはずの叩くという行為が頻発している。
指導者の立場からいえば、叩いて指導する方法を撲滅するには
指導者が反省し叩かない指導をするだけではダメで、
教育現場以前の家庭での教育(目上の人の言うことはしっかり聞く)が欠かせない、
ということになる。
同じ現代に生きている自分がこの説明を聞いて、おかしいではないか、
とすぐに反論するかというと、実はそうでもない。
指導者の言い分に頷きそうにもなる。

別の視座が必要だろう。
100年以上も前の日本にタイムスリップしてみよう。
江戸時代の日本人は世界の中で飛び抜けて識字率が高かった。
その識字率向上に寄与した仕組みは寺小屋だった。
寺小屋で教えることは読み書きそろばんだった。
そろばんは実益に繋がったが、読み書きとは論語を読み書くことだった。
でも論語が読み書き出来ても当時の庶民にとって何の実益もない。
実益はないが日本にとって先進の国の思想を「学ぶ」ことが大事なことだ、
という意識の下に論語の読み書きが奨励された。
では、その寺小屋では今と同じように叩くことも許容された指導だったかというと、
そうではなかった。
子供達の寺小屋での過ごし方は様々で、真面目に先生のいうことを聞いている子がいる一方で、
寺小屋で遊びまわっている子も、隣の子供にちょっかいを出している子供もいる。
そんな状況にありながら、指導者は叩くということなどせずに
子供達を自由にさせながらも、自らは本に書いてあることを説いている。
こんな指導で良いのかと思う前に、
こんな教育指導で当時の日本は世界一の識字率になったし、
それは学ぶ意識が高かったからと言えるとおもう。
ところが、今の日本は小学レベルで世界一の知的水準にない。
まだ上位にあるが、日本の上には複数の国が存在するようになったし、
残念なことに、日本の順位は下がり傾向にある。
日本人の学習意欲は年々低下していると教育関係者からの報告もある。
学習意欲と勤勉性とは強い関係があるだろうから、
学習意欲が低下している日本人は勤労意欲も低下しているはず。
(統計がないからわかっていないだけ)
勤労意欲を欠いた日本は国力を落として行く。
100年以上をかけて、叩かない指導から叩く指導に変わった日本。
世界一の識字率から、世界一の知的水準の座を滑り落ちた日本。
学習意欲が低下し続けている日本。
人類学者のジャレド・ダイヤモンド(『文明崩壊』などの著者)が日経新聞の
インタビューでこんなことを言っている。
「牧畜社会は狩猟社会に比べ、子供をたたく文化が多い。
その理由は、守るべき財産があるからだ。
もし、子供が家畜のいる小屋のフェンスを開けっ放しにするミスをしたとしよう。
その子供の小さなミスで、全ての家畜が逃げ、全財産を失ってしまう場合がある。
そのため、子供がミスをしないよう、体罰でしつけをするのだ。
狩猟社会では、特に守るべき財産がないため、
体罰を与えてまで子供をしつける必要に乏しい」
ダイヤモンド氏の指摘はとても斬新である。
世界をまたにかけて数百年スパンで思考する人類学者だけが持ちうる視座かもしれない。
間違ってもらいたくないが、牧畜社会は子供への関心が強く教育熱心で
狩猟社会は子供への関心が薄く教育熱心でない、と考えないで欲しい。
子供が生きて成長することへの関心は牧畜社会も狩猟社会も同じ。
その関心の表れ方が違うのである。
このダイヤモンド氏の視座を補助線にして、
叩かない指導から叩く指導に変わった日本を見ると、
次の姿がおぼろげに見えてくる。
江戸時代の日本は、多くの人々にとって守るべき資産などなかった。
(例えば江戸っ子は「宵越しの銭は持たない」ことを粋がっていた)
そんな時代の寺小屋では子供達は結構自由に振る舞い、
指導者は叩く指導をしなかった。
ところが明治維新以降の富国強兵策によって、
日本人は守るべき資産を持つようになった。
日本は豊かな資源がある国ではない。
資産ができたと言ってもそれは勤勉に働いて築いたもので、
ボヤボヤしていたりちょっとした間違いがあれば資産はすぐに失われるようなものだった。
勤勉に働いて資産を蓄えると同時に資産を守る必要があった。
守るべき資産ができるようになると、
「ミスをしないこと」が子供を指導する目的の上位に位置付けられた。
その結果叩く指導がなされるようになった、という姿が浮かんでくる。

叩く指導はダイヤモンド氏が指摘するように、
ミスを嫌う守りの指導、である。
ミスを嫌う守りの指導は、先ほど書いた状況が日本で起こっていたとするならば、
戦前の日本で既に行われていたと思う。
でも叩く指導がこれほど巷間で言われるようになったのはいつのことからか。
昭和40年代に小学時代を過ごした自分には先生に叩かれたという記憶はない。
自分は決して優秀ではなかったし、むしろ出来は悪かった。
通信簿を受け取ってきた母が
「お前の通信簿はアヒル(数字の2のこと。1~5の五段階評価で2は下から二番目に悪い。)
の行列」と言っていた。
2を「二」と言わずにアヒルに置き換えることで、
母はガックリくる気持ちを茶化して平静を保っていたのかもしれないし、
(妻から聞いたが、そういう表現が一般的だったそうである)
それを聞いた自分はあまり怒られている気分にならずに済んだ。
立たされたことはあるが体罰はせいぜいその程度だった。
その記憶が当時の標準的なものだったと思うが、
(映画『オールデイズ 三丁目の夕日』の子供達も体罰を受けているように見えない)、
その頃の体罰指導と現代の体罰指導の頻度に変化があるのだろうか?
なぜそういう疑問を持つのかというと、報道件数と事件件数は比例しないのである。
例えば日本の殺人件数は、昭和30年代をピークに低下し今では半分程度になっている。
ところが、ニュースで報道される殺人事件は以前よりも増えていると思う。
マスコミに報道されることと実際に事件が起こっていることとは一致していない。
そういうことが体罰指導に起こっていることはないか、という疑問である。
体罰指導は良くない。
桜ノ宮高校の事件はとても悲しい事件であり、その監督は責められるべきである。
でもバッシングされることを恐れずに言うならば、もしも今の体罰指導が
自分が子供時代に先生から受けた体罰(立ってろ、とか、出席簿で頭をゴツンと叩かれたこと)
と大差ないならば、それだけで子供が学校を拒否する絶対的な理由にならないし
学習意欲が低下するとは思えない。
子供の学習意欲の低下はもっと他に理由があるのではないか。
物事には「許容範囲」というものがある。
叩くという行為自体には相手を救うための方便として行われることがある。
仏教の憤怒の形相で迫る不動明王は、悪い道に入って行く人々を力尽くで防ぐために
大日如来が不動明王に姿を変えたという考え方もある。
それを「叩くことは全て悪いこと」と決めつけるのはいささか幼児的すぎないか。

今の日本で正しさとは何かというと、「間違いがないもの」に収斂できるだろう。
誰がやっても手順を間違えなければ同じ答えに辿り着く科学性を重んじている日本。
質問の回答が間違いなく一つしかないから、全国規模で一斉試験ができるし
優秀な人から劣等な人まで順位付ける仕組みが形成でき、
それがとても重要なことだと考えている教育行政。
そして手に入れた資産(それは地位や名誉や権力基盤も含まれる)を守るために
ミスをしてはいけない、と無意識的に考える国民。
これらの意識が「間違いがないもの」に収斂し、
キュウキュウとして身動きができなくなっているのではないか。
人を指導するということには、正しい知識を身につけさせるということも大事だが
その時その場でしっかりした判断ができるようにすることが大事である。
でもそのような判断力はミスを嫌う叩く指導よりも、
自由にやらせて失敗も含めた色々な経験を経て養われるものだろう。
いろんな経験を積ませた方が子供のためである、と思っている指導者は結構いるはずだ。
しかし「間違いがないもの」を打ち破る力を現代の日本は持っていない。
気持ちが熱くて勇敢な先生はGTOのようにドラマや漫画にだけある世界である。
(GTOが人気を博するのは、人々の意識の中にはいろんな経験をさせてくれる
鬼塚先生を望んでいるからだろう)
そういう間違いがないものを求める意識が、知識偏重教育にさせている。
正しい判断を問われて答えられる人などいない。
正しかったかどうかは事後的に判明するからである。
結婚するパートナーを正しく選んだか否かは、事後的に且つ本人たちの
努力によってわかるのである。
そういう不確かなことを回避するので、教育は知識偏重になっている。
そんな教育が面白いわけがない。
学習意欲は簡単ではないからより強化され、
答えが容易にわからないから探求意欲が湧くものである。
わかり切っていることを真剣に時間をかけて追求しようとする人などいない。
それらは覚えてしまえば、そこで終わるものである。
知識偏重では学習意欲が低下するのも理解できる、と言えないだろうか。
時代が変化して今までのやり方や考え方では対応できなくなっている。
現代の世では、未知の事象に対応して行く柔軟さが必要になっている。
ところが世の中には就活サポートや婚活サポートが大流行りである。
この傾向は若者が自分で判断する力が養われておらず、
しっかりと指導されていないことを表していないだろうか。
その時その場で判断ができない人ばかりの社会は他者依存的であり、
知識も知恵も他者(インターネット依存もその一つ)に依存してくる。
指導者達は家庭での教育がなされず学校に指導を丸投げしてくる親を嘆いているが、
それは叩く指導が、柔軟な対応力がない人・他者依存の人を作り
その人たちが子供を学校に丸投げするために、
益々叩く指導にならざるを得ない状況になっていないだろうか。
教育のプロの方々はこんな考え方はしないのだろうか。
学習意欲が低下しているところにスポットを当てて一から考え直す時にきていると思う。
何が子供達から学ぶ意識を奪ったのか?
機会があれば伺ってみたいものだ。