春のうららに誘われて、甲子園球場にやってきました。
甲子園球場は選抜高校野球大会で大勢の観戦者を迎え入れていました。
昨年は大阪桐蔭高校が、今はタイガースにいる藤波投手を擁して、
春夏連続優勝していたんですってね。
そして今大会で三連続優勝を狙っているのだなんて、ホントに知りませんでした。
僕は社会人になって以降どんどん高校野球に疎くなっています。
でも学生時代は結構熱い高校野球ファンだったんです。
高校時代は、石川県の地方大会で母校を応援してスタンドから声を張り上げていました。
甲子園では石川県選抜の高校をずっと応援していました。
郷土好きというかオラが郷のような気持ちが
自分にも働いていることもイヤじゃなくて、
むしろ自然なことだと思っていました。
でも高校野球がセミプロ化するかのように、
野球に強い高校が優秀な選手を集めるようになって、
そしてそういう選手集めに熱心な高校しか勝ち残れないような状況になって、
僕は高校野球に対する興味をすっかり失っていったのです。
だから、高校野球を生で見るのは30年以上の間が空いていて、
本当に久しぶりです。

嫁が甲子園に行こうというものだから付いてきました。
ちょうど注目の大阪桐蔭高校が岐阜商業と戦う試合でした。
春の日差しが優しい土曜日の午後、
地元関西の注目高校を応援しようと球場はほぼ満員です。
僕らは外野席に座りました。
球場に入った瞬間からプロの試合と違う雰囲気です。
それが真っ先に感じられました。
一塁側、三塁側にはっきりと応援団が別れていて、
両校のブラスバンドがそれぞれ自分たちの自慢の応援曲を吹奏して、
自分の左側から発せられる熱気と右側から来る熱気が
グラウンド上で渦を巻いているかのようです。
対抗戦という熱気が球場全体を包んでいる、そんな感じです。
プロ野球は自分のファンチームを応援するのだけれど、
高校野球は自分たちの代表を支え、応援しているという違いでしょうか。
高校野球を応援する時の感情は、
グラウンド上の選手を自分たちの代理人と思っているんですかね。
この雰囲気こそ甲子園で行われる高校野球の良さなのでしょう。
この雰囲気はテレビからは絶対に伝わりません。
やっぱり、高校野球は生観戦しなきゃいけなかったのです。

さて、大阪桐蔭と岐阜商業の試合は、
僕のそれまでの感情も考慮すると、
偶然とは言え、とても良い組み合わせでした。
大阪桐蔭は僕が好ましく思っていない優良選手をかき集めた(知らんけど)高校、
一方岐阜商業は嘗ての古豪で野球伝統校です。
僕は自然に岐阜商業に肩入れしました。
それにしても大阪桐蔭のブラスバンドは圧倒的です。
サウンド、リズムともに抜群で、相手チームをアウェイ感に陥れるパワーがあります。
一方岐阜商業のブラスバンドは、中年から老年に架かっている僕にとっては
高校野球らしさそのもの、というサウンドです。
テンポは手拍子したくなるくらいで、決してアフタービートにはならない。
試合が始まって1回の表裏を終わったところでは、
一体桐蔭は何点とって勝ってしまうのだろうと思うくらい、
大阪桐蔭は圧倒的でした。
点数は1点だけでしたが、桐蔭の各バッターは岐阜のピッチャーが投げるボールを
クリーンに捉えていたし、それに打球がとても早いのです。
この段階ではセミプロと高校生野球の違いがあると思いました。
ところが、岐阜商業打線が奮起し桐蔭を逆転しました。
そうすると、岐阜商業応援団はパワーアップしより熱気を帯びましたが、
逆に桐蔭ブラスの音がどこか弱々しくなって聞こえます。
中盤から後半、桐蔭は岐阜の攻撃を何とかゼロに抑え、
攻撃で加点し1点差に詰めて終盤に向かいます。
途中で岐阜商業のピッチャーがデッドボールを右足に受けて
投球に影響していたでしょうが、
そういう影響を見せずに投げていました。
7回の応援では校歌が聞けますが、
岐阜商業は伝統的な日本の校歌の雰囲気を醸し出していました。
そして大阪桐蔭はマーチ風の明るいメロディでした。
どこまでも違いがハッキリしている両校です。
試合は結局岐阜商業が逃げ切りましたが、
僕たちは両校の選手と応援の方々から沢山のエネルギーをもらいました。
たった一試合が、高校野球に対する自分の思いを変えてしまいました。
恐るべし、高校野球。
ビバ、甲子園。
以前のブログでTPP反対の立場を書いたが、
自分がその立場を取った一番の理由はグローバル資本主義に対する懐疑である。
グローバル資本主義への懐疑はいろんな方々が本にして世に問うているが、
その中に中谷巌さんの見方がある。
中谷さんはアメリカで経済学を学びその先端経済理論を引っさげて日本に戻り、
自由主義経済、市場主義経済に則り日本の構造改革を推進した人である。
ところが小泉構造改革以降の日本の(悪い方への)変貌を目のあたりにして
自分が推進してきた経済理論を疑い、ついには懺悔の言葉を述べるに至った。
中谷さんは自らの著書の中で次のように書いている。
「今にして振り返れば、当時の私はグローバル資本主義や市場至上主義の価値を
あまりにもナイーブに信じていた。
そして、日本の既得権益の構造、政・官・業の癒着構造を徹底的に壊し、
日本経済を欧米流のグローバル・スタンダードに合わせることこそが、
日本経済を活性化する処方箋だと信じて疑わなかった」
「だが、その後におこなわれた構造改革と、
それに伴って急速に普及した新自由主義的な思想の跋扈、
さらにはアメリカ型の市場の原理の導入によって、
ここまで日本の社会がアメリカの社会を追いかけるように、
さまざまな副作用や問題を抱えることになるとは、予想ができなかった」
実は自分も当時の小泉構造改革を支持した一人である。
しかし、その後の日本のいろんな綻びを目にして
構造改革の基本思想を疑い、グローバル資本主義を疑うようになった。
今日は中谷さんの著書『資本主義以後の世界』の中から
中谷さんのグローバル資本主義の見方を紹介する。


⒈グローバル資本主義の3つの根源的欠陥
中谷さんはグローバル資本主義の根源的欠陥として3つ上げている。
1)グローバル資本主義の国境を超えた移動が世界経済を不安定化する。
急激且つ巨額の資本流出入がバブル発生とその崩壊を生み出し絶えざる金融危機を生起させる。
→(自分のコメント)
一言で言ってしまえば「貨幣の商品化」が原因である。
貨幣の商品化は、その前段階としてあらゆるモノが
貨幣価値で測定する状況を作ることで起こる。
例えば、貨幣価値とは商品に代表されるように再生産可能なモノに
限定されて測られていたのだが、再生産不能なひとりひとりの人間についても
貨幣価値で測ってしまう状況を作り出した。
これによりモノ=貨幣と貨幣=モノ(商品)となる社会を作り上げた。
古典経済学の世界では貨幣とは交換価値であり、流通価値であったが、
グローバル資本主義では貨幣そのものが商品価値を持つようになり、
貨幣を多く持つことが強さの証明となり、
貨幣で測れないものはクズとされ貨幣を持たないもの者は弱者、敗者と認定される。
人々はこぞって貨幣と貨幣化するものを求めるから、畢竟バブルが発生する。
歴史的に最初のバブルとされるオランダのチューリップバブルは、
本来鑑賞価値でしかなかったチューリップが貨幣価値を有するようになり
鑑賞には全く関心がない人々の投資を呼び込んで膨張し破裂したものである。
1980年代後半に日本で起こったバブルは、不動産を使用しない投資家や
配当や会社に投資する意図がない人々を証券市場に呼び込んで起こった
不動産バブルであり、証券バブルであった。
グローバル資本主義のもと、
貨幣の商品化が世界レベルで嘗てないほどの流動性を生み出し、
バブルとその崩壊を生み出す。
そしてその後始末を国家に押し付け、その国の民がそのツケを払わされることになる。
グローバル資本主義の主導者であるグローバル企業は
バブルが弾けた途端(その前)にその市場や国から退避して別の市場にむかう。

2)資本主義の目的は「飽くなき資本主義の自己増殖」である。
それを実現する為には「自然の搾取」が不可欠であり、
そのことが地球環境の汚染・破壊を加速させる。
→(自分のコメント)
経済はフロンティアに向かって進む。
フロンティアという未開の地を開拓して行くことで経済は発展するが、
グローバル資本主義では、回収までに長い時間をかけることを嫌うので、
未開の地は開拓よりも搾取が行われる。
自然の搾取は土地の商品化という形をとって進む。
例えば森林が豊富な広大な土地があったとして、
それらは「いくら」という値段がつけられ森林が伐採される。
伐採された後は禿山になるけれども、
グローバル資本主義は材木で価値は取っているので、禿山を見捨てる。
ところがその禿山が元の森林に戻ることはなく、
そこに住む人々は環境破壊の被害を引き受けなければならない。
グローバル資本主義には自然との共生という思想が無い。
グローバル資本主義にとって自然は貨幣価値であって、共生することを考える対象では無い。

3)グローバル競争の結果、富の偏在、所得格差の拡大が起こる。
そのため多くの国において中流階層が消失し社会の二極化現象が起こる。
それが社会の荒廃をもたらす。
→(自分のコメント)
グローバル資本主義は労働を商品化する。
労働は新たな貨幣をどれだけ生むかどうかによって測られる。
農業や製造業に従事する人、労働集約的に行われるサービス業に従事する人の労働は
貨幣や富を生む力が弱いためにその労働力は安い。
富を生まない業種(階層と言っても良い)に属する人々は
富を得る手段を持つことがなく、貧しい生活を余儀無くされる。
逆にグローバル資本主義のコア業務に携わる人々、
例えば金融に携わったり、有能な弁護士などの労働力は高い。
グローバル資本主義では貨幣が新たな貨幣を呼び込む構造になっているので、
富は富を生み、持てる人は益々富んでいく。
その結果富の偏在が起こり、所得格差は拡大し、中産階級が消失する。

2.グローバル資本主義は周辺を弱体化させる
1)格差のある国々が同じ通貨を使っていると、
どうしても競争力のある中心国が更に強くなってしまう。
そして強くなった中央が周辺国から富を吸い上げる。(同じ国の中心と周辺、でも起こる)
→(自分のコメント)
グローバル資本主義の中の逆説思想は、「自由」と「フェア」だろう。
自由とフェアは同じスタートラインに立っているという幻想を生むが、
それが大きな誤りである。
自由やフェアが逆説効果を持っていて
尚且つこの思想が弱者を従わせる思想であることを知っているのは
グローバル資本主義を推進する立場のものであって
それを受け入れる側のものではない。
まず周辺国は「閉鎖的であり、アンフェアである」という理屈で中心国から叩かれる。
周辺国は叩かれて困る(言葉だけではなく、もろもろの圧力が中進国から周辺国になされる)。
その状況を見計らって中心国は
「では貴国の自由を守りフェアなルールを導入しようではないか」と周辺国に持ちかける。
周辺国は「自由でフェアならば拒否する必要がないではないか」と考え、受け入れる。
日本が金融市場にFree、Fair、Globalの3原則が導入された背景も、
簡単に言ってしまえば同じ方法論であった。
グローバル資本主義のもとでは、
経済的優位に立つものが経済的劣位にあるもののはるか先にいて、
自由でフェアで、国際的な市場においては、
グローバル資本主義の中心国が周辺国から富を吸い上げる。

2)「対等」の危うさ
大きな国も小さな国も対等という考え方は、
一方が負けても「対等だからしかたがない」という言い訳に使われていまう。
→(自分のコメント)
グローバル資本主義では対等はフェアと同じ逆説である。
対等やフェアというのは、
それぞれのスタートラインを一斉にスタートさせるホイッスルの音を指す。
ところが上記に書いたように、
競争力のある中心国はそもそもスタートラインが先行している。
先行している中心国に対し周辺国が同じホイッスルでスタートしても
勝てるどころか並ぶことも不可能で、むしろその差は開くばかりとなる。
周辺国はそこで「おかしい」と言っても、
中心国から「対等だからしかたないだろう。君たちの努力も想像力も足りないんだよ」
と言われてしまって、それ以上言い返すことができない。
最近のユーロ圏の周辺国--ギリシア、スペイン、イタリア、キプロス--
が経済危機にある理由は、それぞれの経済の構造に問題があるのだろうが、
今まで記載した自由、フェア、ユーロ化という原理が周辺国を危機に陥れている、
とも考えられるのである(ユーロ事情は知らないのでこれ以上は言及できない)。

3.日本らしさの喪失
1)日本の中間層を守れ
層の厚い庶民層、中間層が織りなす日本の強み。
これは日本が守らなければならない砦なのであるが、
その日本がグローバル資本主義の大波を受けて、
欧米並みの階層社会に変質してしまうのが強く懸念される。
貧困層の拡大がこれ以上進むと責任感の強かった庶民層の
「自分たちが社会を支えている」という健全な当事者意識がなくなっていく。
→(自分のコメント)
日本の中間層を良い面からとらえて悪い面を見ていないのではないか
と思わないではないが、その悪い面を含めて考えてみよう。
日本の中間層の悪い面は、
日本人と日本文化に内在し血肉化している、根源的な惰弱、緩み、自己規律のなさにある。
小金がありながら、趣味低俗である。
本当の贅沢を知らないという点では、その日暮らしの貧乏人に劣るのである。
犠牲を払わずに贅沢をしようとするから、贅沢の処理が何とも中流でミミッチクなってしまう。
このように日本の中間層に悪い面があるのに社会が機能してきたのは、
終身雇用に守られて平凡でも平和な生活が約束されていた中間層が、
擬制集団的なパワーを発揮し日本の発展を支えた。
しかし、今日本から中間層が消えていく。
それは、日本の発展に貢献したパワーを失う上に、
惰弱、緩み、自己規律のなさだけが残ることになる。
富を集めた格差上位の人もやはり惰弱、緩み、自己規律の無い人たちで構成される。
出自がそうであり、グローバル資本主義社会の勝者に
それ以上のオブリッジを自ら課し高い理想を持つことなど考えられないからである。
このままグローバル化を進めれば、
10年後の日本は、格差社会かつ惰弱、ゆるみ、自己規律の無い
もはや取り返しがつかない国になっているだろう。
日本を守ることは日本の中間層を守ることである。
日本の中間層を守る(今のまま守るということではない)には、
グローバル資本主義と一線を画することがどうしても必要となる。

2)日本の心の豊かさを守れ
日本人の良さは庶民層の「自分たちが社会を支えている」という健全な当事者意識であり、
責任感である。この当事者意識は自然や隣人との共生によって形成されている。
現代日本人の意識の一番深くにあるのは縄文時代の山岳・森林的自然観であり、
その上に弥生時代の稲作的価値観があり、
更に一番表層部分に西欧流の近代合理主義意識がある(山折哲雄『日本文明とは何か』)。
日本の自然を守れなければ、日本人の心の豊かさは失われていく。
→(自分のコメント)
この視点には同意するところが多い。
日本の自然は手に負えぬモノである一方で人々に恵みをもたらす。
日本人はこの手に負えぬもの、恵みをもたらすものと共に生きていかなければならない。
これは日本人が根底で受け入れている本質的考えである。
手に負えぬものを正面から受け入れると諦観や無常観になり、
そんな中で一瞬の煌めきを求めれば一所懸命精神やカブく魂や武士道のような美意識になる。
恵みをもたらしてくれる自然に寄り添えば生活は守られるので、
日常重視の和を貴ぶ文明になり、
絶対的リーダーの設定を求める砂漠の文明と一線を引くようになった。
色々な思いが混在しそれらを一つに束ねることを嫌うために、
日本の中に多様な文化を生み出し共存させ、
強いリーダーを擁立させるよりは複数リーダー性(例えば天皇と幕府の両立)の採用や
中間層形成を文化、文明精神的に促した。
そしてこの日本人の体質は外から来た文明や思想も共存させてきた歴史を持つ。
古くは仏教、帰化人の文明、随唐文明や儒教しかり、
中世になって西洋文明(鉄砲)、キリスト教(これは徳川幕府によって禁止されたが)、
明治の帝国主義中心の西洋文明しかりである。
日本は歴史的に外から来るものに対して、
呼吸をするかのように間口を広げたり狭めたりして、
惰弱、緩みの社会で自己規律がないながらも
曖昧だが社会のマジョリティである中間層を維持させて、
日本文明(西洋的文明とは一線を画すが、
ハンティントンが『文明の衝突』で日本文明と記載している)
を発展させてきたのである。
ところが太平洋戦争でアメリカに叩きのめされた日本は
外から来るアメリカ思想に対して全く盲目になってしまった。
盲目になってしまったのは、明治維新で破壊の危機に瀕しながらも
かろうじて守ってきた日本精神というものを
アメリカの誘導によって日本人自身が全否定したからである。
このまま盲目のままアメリカ思想を受け入れて、
経済パワーの源泉である中間層を喪失し経済的にも下降させるだけでなく、
日本文明と諸々の文化を失った二流以下の国に成り下がるのか?
経済一流の地位は失うかもしれないが
日本文明と文化、そして日本人の心の豊かさを守るのか?
日本は今大きな岐路に立っている。

本屋さんの中をぶらぶらして触れた本の中から
選んだ本が面白いととても得した気分になる。
『脳男』はそんな本だった。
作者の首籐さんはこれが初作品だそうで、なかなか大したもんです。
主人公は、脳男と言われる若い美男子で、名前は鈴木一郎。
謎の連続爆破事件を追う茶屋警部が犯人の爆発物製造現場に踏み込んだ時に鈴木がいた。
茶屋は鈴木を共犯者であると見定めて逮捕する。
しかし逮捕した鈴木の態度がどうもおかしい。
本当に共犯者なのかと悩んだ茶屋は、
アメリカ留学帰りの独身で頭が切れて美人医の鷲谷真梨子に精神鑑定を依頼する。
茶屋は鈴木を捕らえた現場で、
爆破犯人が茶屋を殺そうとするところを鈴木によって助けられていたのだ。
物語は鈴木一郎とはどういう人間なのか、
連続爆破事件はどのように解決して行くのか、
という二つの大きなストーリーの綱が交差しながら進んで行く。
構成はミステリー仕立、サスペンス仕立だ。
そして感情表現が普通でない鈴木と、
それを解明しようと与えられた職務以上の情熱を燃やす鷲谷と
国家権力を身にまといながらも真実追求一直線の茶屋の、
三人が織りなすいろんな場面の空気感が読者を先へ先へと誘って行く。
鷲谷の努力により鈴木の過去が明らかになって行く。
鈴木は生まれた時から感情というものがない。
感情がない人間は欲望がないのと同じ。
食欲すら無い鈴木は自分で食事も取れないから、放っておけば死んでしまう。
だから第三者が鈴木に、食べることや日常のことを教え込む必要があった。
それはアプリケーションが入っていないコンピュータに
コマンドを打ち込んで行くようなもので、生きたロボットのようなものである。
ところが鈴木は一度目にした物は全て記憶してしまう天才脳の持ち主だった。
又鈴木の養育を担ったお爺さんが狂信的なほど悪を憎む人だった。
日頃刷り込まれた鈴木は悪を憎む存在になっていた。
茶屋が追い続ける事件の中に幾つかの犯人不明の殺人事件があった。
それらの事件に共通していることは被害者が悪党だという点だ。
そしてこの不明の犯人こそ、鈴木一郎であることがわかってくる。
警察の懸命の捜査により連続爆破事件の犯人は
緑川という名の男性サラリーマンであることまで突き止められた。
そして連続爆破は愉快犯罪と認識された。
愉快犯罪だがヨハネ黙示録のストーリーを見たてた犯罪手順によって、
緑川という正体不明の犯人が、
相応の知性と狂信性を持っていることを読者にほうふつさせる。
ストーリーは鷲谷と鈴木がいる病院が爆破されてピークを迎える。
慈悲のかけらもなく、次々と爆破を仕掛ける緑川。
病院関係者や患者の区別もなく爆破して、病院はパニックに巻き込まれて行く。
緑川の思考を読み取り、緑川の意図を解く鈴木。
いろんな展開があって緑川は死に、鈴木は行方をくらました。
ストーリーの最後、逃げた鈴木が鷲谷の前に現れる。
鈴木は以前の鈴木と違う様子である。
もしかしたら鈴木に「感情」が芽生えたのではないか、そう読者に思わせて小説は終わる。

この本の底流を流れているのは、新しい自我の形成ものがたり、だろう。
人は色々な感情を持つことで自我が形成され保たれる。
感情を持たない鈴木は、学習を通して知識のアーカイブが脳に溜め込まれて行く。
そしてある時何かをきっかけとして「意識」が目覚める。
悪者を殺す鈴木、茶屋を救った鈴木、
これらは鈴木の意識がなしたことだ。
そして意識を持った鈴木は、やがて感情を持つのだろうか?
感情を持つならば鈴木はいずれ自我を有すると推測される。
これがこの本の「ものがたり」、だと思う。

さて映画『脳男』。
本に書かれたことを映像に編集し楽しませてくれるのか、
これが本を読んで映画を見る者の楽しみだ。
だから主役級を誰に演じさせるかは、大きな検討事項となる。
僕の感想を述べよう。
主人公鈴木一郎は◯。
ずっと無表情で通すので、美しい顔立ちでなければならない。
そうじゃ無いと観客をスクリーンに釘付けにすることは不可能だ。
生田斗真君は正解だと思うし、スリムでマッチョな体もファンを喜ばせたに違いない。
鷲谷真梨子の松雪泰子も◯。
本を読んだ僕のイメージは竹内結子だったけど、
松雪泰子もOKさ。
茶屋警部の江口洋介は×。
線が細いし、ウザイ。
本を読んで僕は宇梶剛士をイメージした。
茶屋のキャラは頭脳は繊細だが見た感じでは
もっと押し出しが強い感じ、シンプルさが欲しかった。
でも二勝一敗だからセーフだ。
ストーリーは大きく違いはないのだけれど、
ミステリー性とサスペンス性はずっと後方に追いやられた。
鈴木、鷲谷、茶屋のキャラを早く観客に分からせる必要がある、
と制作側は考えたと思う。
そのためかどうかはわからないが、本では伏せられていた緑川のキャラを観客に提示した。
緑川は何と若い女性だった。
抜群の知力と親をも殺す凶悪性、それにレズ。
見るものに「気味悪さ」を感じさせた。
少年マンガに出てきそうなキャラと言っていいのだろうか、
悪さはわかるけど嘘っぽさも感じられる。
このあたりは人によって意見は別れるだろうが、僕は嘘っぽさを感じた。
逆に小説には無い人間を登場させている。
その人間は鷲谷の弟を殺して鷲谷家族を苦しみに追い込み、
何故か鷲谷がその人間のカウンセリングを担当し、
鷲谷は憎しみを乗り越えて医者としての使命と誇りを形成し、
彼女が行ったカウンセリングによってその人間は更生したと自信を深めた。
ところが病院爆破事件以後逃走した鈴木が、その人間を殺す、と鷲谷にメールで通報する。
病院爆破事件前に
「貴方の心の内には感情が芽生えているはず。
貴方は殺人ロボットじゃないでしょ!」と鷲谷が鈴木に涙を流して迫る場面があった。
あのことは無駄だったのか、鈴木はどこまでも無慈悲な殺人ロボットなのか?
鷲谷は焦燥しその人間が住むアパートに急いで駆けつけると、
もう鈴木に殺されていた。
でもその同じアパートで、自分の弟と同様に虐待されている男の子を発見し愕然とする。
鷲谷は大きな喪失感を味わされる。
鷲谷の仕事の誇りは崩壊した。
鈴木が殺人した理由は、鷲谷にカウンセリングの失敗を教えるためだった。
そして、鈴木にとってこの行為は鷲谷への「好意」に基づくものだった。
鷲谷が流した涙は鈴木に届いていたのだ。
小説には無い人間を登場させることで、
映画に深みをもたらしたことは間違い無い。
他にも茶屋が相棒を生かすか鈴木を生かすか、葛藤する場面がある。
この映画の深みは、殺人という凶悪な手段によって、
悪党退治という善なる行為がなされる、ところの矛盾や葛藤にある。
そして脳男のキャラがとても効いている。
小説が持っていた「ものがたり」性は消失したが、
矛盾や葛藤を目にして観客の頭脳は揺さぶられた。
見ている二時間は楽しかった、ことは保証する。