村上春樹の『ネジマキ鳥のクロニコル』第一巻を読んでいたら、
マス・メディアの寵児となっている人物評価をしている次のような文章に出くわした。
「彼にはたしかに才気があり、才能があった。それは僕も認める。
彼は短い言葉で、短い時間の間に相手を有効に叩きのめすことができた。
風向きを瞬時にして見定める動物的な勘を持っていた。
しかし注意して彼の意見を聞き、書いたものを読むと、
そこには一貫性というものが欠けていることがよくわかった。
彼は深い信念に裏付けされた世界観というものを持たなかった。
それは一面的な思考システムを複合的に組み合わせて作られた世界だった。
彼はその組み合わせを必要に応じていかようにも瞬時に組み換えることができた。
それは巧妙な思想的順列組み合わせだった。
芸術的といってもよいくらいだった。
でも僕に言わせればそんなものはただのゲームだった。
もし彼の意見に一貫性というものがあるとすれば、
それは「自分には世界観の持ち合わせがない」という世界観だった。
しかしそれらの欠落は、逆に言えば彼の知的な資産でさえあった。
一貫性や確固とした世界観といったようなものは、
時間を細かく区切られたマス・メディアでの知的機動戦には、不必要なものであり、
そのような重荷を背負わずにすんだことは、彼にとっての大きなメリットになった。」
これはネジマキ鳥のクロニコルの主人公・岡田亨が義兄ワタヤ・ノボルについて述べた文章だ。
ワタヤ・ノボルの本職は経済学者だが、マスコミに引っ張りダコになっている。
僕はこの人物表現を読んだ時に、即座に一人の人物を、思い浮かべた。
橋下徹のことだ。
今この文章を読み返しても変わらない。
この文章を読んで橋下徹を思い、
橋下徹を思い浮かべてこの文章を読んで「その通り」と納得している。
橋下徹は短い言葉、短い時間で相手を叩きのめす。
しかし繰り出される相手を叩きのめす言葉に一貫性があるようには思えない。
一貫性があるとすれば、橋下徹の言葉は相手を叩きのめして自分が勝つ、
又は優位なポジションを得るために繰り出されていること。
それはゲームで一手を打っているようなものであり、
それは彼の本職が弁護士であることと少なからず関係していると思う。
橋下徹のゲームは裁判のようなものではないか。
勝つことが全てだから、
一つの裁判で繰り出す世界観や思想と別の裁判でのそれが全く違うものであっても気にもしない。
裁判では裁判官の良い心象を獲得することが勝利する重要要素だが、
マスコミを通じて橋下徹が発する発言は、マス・メディアを裁判官に見たてている。
マス・メディアは細かく区切られたテーマについてインパクトの強い言葉を好む。
彼はこのマス・メディアの嗜好を理解した上で発言する。
選挙においては選挙民の支持を得るために論理を捨てて情に訴えることもする。
そしてマス・メディアには自身の前後の発言の
一貫性の無さを指摘できるだけの知性は無いと踏んでいる。
仮に指摘されたとしても、橋下徹は詭弁(詭弁とは第三者から見たことであって
彼は自分の発言を自分で弁護する正当なものと考えている)を使って
相手の追求をかわす術を自分は 持っていると考えている。
ところで、裁判には傍聴人がいる。
傍聴人はゲームの勝利に何ら益をもたらさない人たちだから、
橋下徹は傍聴人に意趣を向けることはない。
実際の社会では傍聴人の立場のような人が
発言者が想定していない動きをした時に事態が変わることがよくある。
橋下徹の発言は日本国内ではさほど窮地に追い込まれることはなかった。
流石に「彼はどうも眉唾ものだ」と多くの国民が気付いてきて支持率が下がっているから、
マスコミも以前のように橋下礼讃はしなくなったが、
しかし面と向かって彼を追求するマス・メディアはなかった。
その橋下徹が慰安婦問題発言でマスコミと世間をにぎわせている。
慰安婦発言は僕の胸うちにドロリとした嫌な物質を生成させたが、
多くの日本人も似たような物質を胸うちに発生させたと思う。
でも想定外だったことはアメリカ政府が動いたことだろう。
アメリカ政府が橋下発言に噛みついた。
そして日本のマス・メディアはアメリカ政府の発言に反応する(対応する)装置性を有しているから、
今回マス・メディアは橋下徹を厳しく追求することが予想され
橋下徹は苦しい対応となるだろう。
なぜ橋下徹のような政治家を日本国民は一時的とはいえ支持したのか?
それは、彼が戦う発言をし続けたから、だろう。
国民は既成システムのしがらみが日本を悪くしていると思っているから、
橋下徹なら既成システムの悪癖を壊し再生してくれると期待した。
ところが彼は敵を叩きつぶすだけに注力するので(それは彼の一貫性なのだが)、
国民も彼に再生は期待できないと考えて支持を撤回しているのだ。
橋下徹という政治家の登場について言えば、
彼が信頼に値する政治家たり得るかを検証できないマス・メディア、
マス・メディアの発する情報を比較的安易に受け入れてしまう国民を生み出したと言える。
橋下徹は政治家としてもうすぐ終わりだろう。
でも、橋下徹のような人物がこれからも登場する日本社会であることは何も変わっていない。
マス・メディアが細切れのそれぞれの場面で光ることを言ってくれる人を求めている以上、
求めに合った人が登場することはむしろ当然のことだろう。
そしてマス・メディア並びにいろんなメディアから多種多様な情報が流された結果、
日本は情報に対する処理方法が変わってきた。
現在は高度情報化社会である。
「情報」というのはすでにパッケージされ、その意味や有用性が周知されているもののこと。
「情報化」とは、「なまの現実」を切り出し、かたちを整えて、「情報」にパックする作業のことである。
情報を大福とするならば、
情報化とは豆や、あずきや、薄皮から大福を作るプロセスのことにあたる。
高度情報化社会とは、情報化された情報を受け入れ活動している社会のこと。
そしてここがとても大事なところだが、
「高度情報化社会」というのは「情報化」が進んだ社会のことではなく、
「情報化」のプロセスが人目に触れなくなる社会のことである。
誰がどこでどんな豆やあずきや薄皮を使っているか、誰も見ることができない社会のことだ。
人々は情報を並べたり、入れ替えたり、交換したり、値札をつけることに注意を払う、
情報だけを順列組み換えて考える社会、
それが高度情報化社会だ。
人が情報に接した時、
その情報を取捨するかどうか又は他の情報とどう組み合わせるかという知性の使い方と、
その情報がどういうプロセスから生成されたものであるか検証する知性の使い方がある。
しかしこの知性を同時に使うことは大変難しい。
私たちは処理しきれないほどの情報に囲まれた社会を作ったが、
その結果情報を処理することに知的エネルギーを消耗してしまって、
情報生成プロセスに思いが及ばないようになってしまった。
日本国民はいわば上辺の発言の良し悪しだけを吟味する社会を築いた。
その発言がどういう思想的裏付けを持っているかとか、どういうプロセスで生成されたのか、
興味を持つこともなく、それを訴求する思考を軽視している。
自分が期待している情報をマス・メディアという装置を通して提供されると、
あまり吟味することなく受け入れてしまいかねない土壌になっている。
日本社会が高度情報化社会である以上、
その特性を最大限に活用してマス・メディアと国民の支持を得て有名になり
政治家を目指す人を排除できないのだ。
高度情報化社会である限り、我々日本は言葉巧みな政治家を受け入れてしまうリスクを負っている。
言葉巧みな政治家は、一歩間違えれば煽動政治家である。
煽動政治家を国のトップに迎えてしまったなら、日本は間違った方向に進むだろう。
高度情報化社会はそういうリスクを内在している。
私たちは今の社会システムに安住するのではなく、
情報が生成されるプロセスにもっと意識を向け吟味して行く知性が必要だと思う。
マス・メディアの寵児となっている人物評価をしている次のような文章に出くわした。
「彼にはたしかに才気があり、才能があった。それは僕も認める。
彼は短い言葉で、短い時間の間に相手を有効に叩きのめすことができた。
風向きを瞬時にして見定める動物的な勘を持っていた。
しかし注意して彼の意見を聞き、書いたものを読むと、
そこには一貫性というものが欠けていることがよくわかった。
彼は深い信念に裏付けされた世界観というものを持たなかった。
それは一面的な思考システムを複合的に組み合わせて作られた世界だった。
彼はその組み合わせを必要に応じていかようにも瞬時に組み換えることができた。
それは巧妙な思想的順列組み合わせだった。
芸術的といってもよいくらいだった。
でも僕に言わせればそんなものはただのゲームだった。
もし彼の意見に一貫性というものがあるとすれば、
それは「自分には世界観の持ち合わせがない」という世界観だった。
しかしそれらの欠落は、逆に言えば彼の知的な資産でさえあった。
一貫性や確固とした世界観といったようなものは、
時間を細かく区切られたマス・メディアでの知的機動戦には、不必要なものであり、
そのような重荷を背負わずにすんだことは、彼にとっての大きなメリットになった。」
これはネジマキ鳥のクロニコルの主人公・岡田亨が義兄ワタヤ・ノボルについて述べた文章だ。
ワタヤ・ノボルの本職は経済学者だが、マスコミに引っ張りダコになっている。
僕はこの人物表現を読んだ時に、即座に一人の人物を、思い浮かべた。
橋下徹のことだ。
今この文章を読み返しても変わらない。
この文章を読んで橋下徹を思い、
橋下徹を思い浮かべてこの文章を読んで「その通り」と納得している。
橋下徹は短い言葉、短い時間で相手を叩きのめす。
しかし繰り出される相手を叩きのめす言葉に一貫性があるようには思えない。
一貫性があるとすれば、橋下徹の言葉は相手を叩きのめして自分が勝つ、
又は優位なポジションを得るために繰り出されていること。
それはゲームで一手を打っているようなものであり、
それは彼の本職が弁護士であることと少なからず関係していると思う。
橋下徹のゲームは裁判のようなものではないか。
勝つことが全てだから、
一つの裁判で繰り出す世界観や思想と別の裁判でのそれが全く違うものであっても気にもしない。
裁判では裁判官の良い心象を獲得することが勝利する重要要素だが、
マスコミを通じて橋下徹が発する発言は、マス・メディアを裁判官に見たてている。
マス・メディアは細かく区切られたテーマについてインパクトの強い言葉を好む。
彼はこのマス・メディアの嗜好を理解した上で発言する。
選挙においては選挙民の支持を得るために論理を捨てて情に訴えることもする。
そしてマス・メディアには自身の前後の発言の
一貫性の無さを指摘できるだけの知性は無いと踏んでいる。
仮に指摘されたとしても、橋下徹は詭弁(詭弁とは第三者から見たことであって
彼は自分の発言を自分で弁護する正当なものと考えている)を使って
相手の追求をかわす術を自分は 持っていると考えている。
ところで、裁判には傍聴人がいる。
傍聴人はゲームの勝利に何ら益をもたらさない人たちだから、
橋下徹は傍聴人に意趣を向けることはない。
実際の社会では傍聴人の立場のような人が
発言者が想定していない動きをした時に事態が変わることがよくある。
橋下徹の発言は日本国内ではさほど窮地に追い込まれることはなかった。
流石に「彼はどうも眉唾ものだ」と多くの国民が気付いてきて支持率が下がっているから、
マスコミも以前のように橋下礼讃はしなくなったが、
しかし面と向かって彼を追求するマス・メディアはなかった。
その橋下徹が慰安婦問題発言でマスコミと世間をにぎわせている。
慰安婦発言は僕の胸うちにドロリとした嫌な物質を生成させたが、
多くの日本人も似たような物質を胸うちに発生させたと思う。
でも想定外だったことはアメリカ政府が動いたことだろう。
アメリカ政府が橋下発言に噛みついた。
そして日本のマス・メディアはアメリカ政府の発言に反応する(対応する)装置性を有しているから、
今回マス・メディアは橋下徹を厳しく追求することが予想され
橋下徹は苦しい対応となるだろう。
なぜ橋下徹のような政治家を日本国民は一時的とはいえ支持したのか?
それは、彼が戦う発言をし続けたから、だろう。
国民は既成システムのしがらみが日本を悪くしていると思っているから、
橋下徹なら既成システムの悪癖を壊し再生してくれると期待した。
ところが彼は敵を叩きつぶすだけに注力するので(それは彼の一貫性なのだが)、
国民も彼に再生は期待できないと考えて支持を撤回しているのだ。
橋下徹という政治家の登場について言えば、
彼が信頼に値する政治家たり得るかを検証できないマス・メディア、
マス・メディアの発する情報を比較的安易に受け入れてしまう国民を生み出したと言える。
橋下徹は政治家としてもうすぐ終わりだろう。
でも、橋下徹のような人物がこれからも登場する日本社会であることは何も変わっていない。
マス・メディアが細切れのそれぞれの場面で光ることを言ってくれる人を求めている以上、
求めに合った人が登場することはむしろ当然のことだろう。
そしてマス・メディア並びにいろんなメディアから多種多様な情報が流された結果、
日本は情報に対する処理方法が変わってきた。
現在は高度情報化社会である。
「情報」というのはすでにパッケージされ、その意味や有用性が周知されているもののこと。
「情報化」とは、「なまの現実」を切り出し、かたちを整えて、「情報」にパックする作業のことである。
情報を大福とするならば、
情報化とは豆や、あずきや、薄皮から大福を作るプロセスのことにあたる。
高度情報化社会とは、情報化された情報を受け入れ活動している社会のこと。
そしてここがとても大事なところだが、
「高度情報化社会」というのは「情報化」が進んだ社会のことではなく、
「情報化」のプロセスが人目に触れなくなる社会のことである。
誰がどこでどんな豆やあずきや薄皮を使っているか、誰も見ることができない社会のことだ。
人々は情報を並べたり、入れ替えたり、交換したり、値札をつけることに注意を払う、
情報だけを順列組み換えて考える社会、
それが高度情報化社会だ。
人が情報に接した時、
その情報を取捨するかどうか又は他の情報とどう組み合わせるかという知性の使い方と、
その情報がどういうプロセスから生成されたものであるか検証する知性の使い方がある。
しかしこの知性を同時に使うことは大変難しい。
私たちは処理しきれないほどの情報に囲まれた社会を作ったが、
その結果情報を処理することに知的エネルギーを消耗してしまって、
情報生成プロセスに思いが及ばないようになってしまった。
日本国民はいわば上辺の発言の良し悪しだけを吟味する社会を築いた。
その発言がどういう思想的裏付けを持っているかとか、どういうプロセスで生成されたのか、
興味を持つこともなく、それを訴求する思考を軽視している。
自分が期待している情報をマス・メディアという装置を通して提供されると、
あまり吟味することなく受け入れてしまいかねない土壌になっている。
日本社会が高度情報化社会である以上、
その特性を最大限に活用してマス・メディアと国民の支持を得て有名になり
政治家を目指す人を排除できないのだ。
高度情報化社会である限り、我々日本は言葉巧みな政治家を受け入れてしまうリスクを負っている。
言葉巧みな政治家は、一歩間違えれば煽動政治家である。
煽動政治家を国のトップに迎えてしまったなら、日本は間違った方向に進むだろう。
高度情報化社会はそういうリスクを内在している。
私たちは今の社会システムに安住するのではなく、
情報が生成されるプロセスにもっと意識を向け吟味して行く知性が必要だと思う。