美術館は時にびっくりするほどの驚きを僕にもたらす。
びっくりするほどの驚きだなんて、子供っぽい表現だね。
僕も56年の人生を歩んできたから、
身の回りに起こることでびっくりするほどの驚きに出くわすことは、まあない。
でも子供の頃は、おとなしい子供だったけれど、それでもいっぱいあった。
その中で特に強烈な印象をもたらしたモノがあって、
びっくりするほどの驚きの一つとして僕の記憶の宝石箱に保管される。
子供の驚きは音楽の強弱記号に似ていないだろうか。
フォルテ(f)は、ひゃー、
メゾフォルテ(mf)は、ほー、
メゾピアノ(mp)は、へー、
ピアノ(p)は、ふーん、
そして、びっくりするほどの驚きのフォルテシモ(ff)が、わーお!。
逆に、は~(語尾が下がっていく)は、フェルマータだろうか。
それらが織りなされると、
ほー、ふーん、ほー、へー、は~、ひゃー、ふーん、わーお!、みたいな。
子供の頃は驚きのリズムで満たされていた。
活動できる範囲内にお宝がいっぱいあったし、
空き地や川辺などの自然も身近だったから
始めて目にするものがいっぱいあった。
そういうものに出会って、僕の身体が反応した。
一つ一つの変化は単独では気づかないかすかなことだけど、
連続で起こるので経験的にわかるようになった。
対象に身体を寄せて、
心臓の鼓動がリズムをわずかに加速させていく。
体内温度はそっと上がって行くのに、
肌は発汗を抑えて鳥肌状になり皮膚温度は逆に下がっていく。
顔の皮膚は頭部に引き寄せられ髪が立ってくる。
目は開かれて瞳は一点から離れなくなる。
身体の中の血液が脳に向かって登っていく。
脳は未知なるものの到来に右往左往しながら
全力で未知なる遭遇物を把握しようと活動する。
勉強は嫌いな僕だけど、
こんなときは僕の意識など無視して脳が勝手に活動し始めた。

ボストン美術館展ではとても面白い数々の美術品に出会った。
僕は美術に対する見識は決して人並以上ではないし鑑識眼もない。
どこがどう美術的に素晴らしいのかわかっていないし説明もできない。
でも、面白い作品に出会った時に自分の中でどういう変化が起こるかはわかる。
この変化が起こるかどうか、それが僕の一つの判断基準。
6月の天王寺の大阪私立美術館では、わーお!が3つあった。
曾我蕭白の雲龍図、
快慶の弥勒菩薩立像、
そして吉備大臣入唐絵巻。
どれもとっても面白い、素晴らしい作品だ。
その3つの中で今回は吉備大臣入唐絵巻について書きたいと思う。
雲龍図も弥勒菩薩立像も素晴らしくてそれはそれで書きたい気持ちはあるのだけど、
吉備大臣入唐絵巻は作品そのものの面白さ以上に、
「認識変化」を僕に突きつけてきたところが格別だった。
吉備真備が唐に渡って、唐の皇帝に謁見し日本に戻ってくるまでの絵巻物だ。
最初は唐に向かう船の上。
真備は船の上で遠い唐をはるかに見ている。
《残念なことに、真備の顔部分が傷んでいてわからない。
でも座った真備の姿から、僕がきっとそうだろうと補った》
真備たちは唐の海岸に着く。
それを迎える唐人たちは牛車を準備しているものの真備たちを怪しんでいる。
説明書きによると、真備の頭の良さに唐人たちは警戒してのだ。
《唐に牛車はあるのかな?》
警戒した唐人たちは皇帝に謁見させないために、楼閣に真備を登って待つように指図する。
(実は真備を幽閉しようとしている)
その楼閣に赤鬼がやってきた。
(この赤鬼は人を喰らうことを知っていて、真備が喰われることを唐人たちは望んでいる)
《塔門の鬼が人を喰う話は『今昔物語』の羅生門の話にあったよな》
赤鬼は、何と阿倍仲麻呂だった。
赤鬼仲麻呂は日本を懐かしがって真備と語り合う。
そして真備を助ける。
翌日楼閣を見にきた唐人は、真備が生きていることに驚愕する。
一方赤鬼仲麻呂と真備は、真備の対応を協議している唐人達の処へひとっ飛び。
・・・・・・・・
という風に物語が進んでいく。
記憶に残っていることを全部書くととても長くなるので、巻くと、
この後唐人は真備が知らないこと、つまり無理難題を出して、
真備を降参させて謁見を諦めさせようとする。
しかし真備は仲麻呂の力を借りてその難題に対応して行く。
《この辺りはツゥーランドットのアリア「寝てはならぬ」前の場面に通じるものがあるぞ》
ついに真備は皇帝の謁見が許され、褒美を貰って無事日本に戻るという物語、
ヒーロー物語だ。
我らがヒーロー、マキビーは助っ人ナカマーの助けも借りて
帝国トーンの悪巧みをかわし無事任務を果たす物語だ。
吉備大臣入唐絵巻は12世紀に作られた。
かの後白河天皇の命によって作られたという。
そんな昔にヒーロー物語ですか、ひゃー、びっくり。
僕は日本の今の漫画文化の原点は、『鳥獣戯画』だと、ずーと思っていた。
あの、カエルとうさぎが驚き笑い転げている絵が、漫画の原点だと信じていた。
それ以外に漫画のオリジンと言える絵など無いと思っていた。
その一方で、鳥獣戯画を原点とするには、
現在の豊富なストーリーと多彩なテクニックを放つ漫画作品群に比べてみると、
鳥獣戯画は単に動物を擬人化しただけともとれて、
ひねりが少ないという微かな不満のような気分もあった。
今回出会ったマキビー物語にはいろんなひねりがある。
赤鬼ナカマーが出てくる。
赤鬼ナカマーとマキビーが空を飛ぶ。
マキビーは囲碁達人の唐人と囲碁対決するが、
何とイカサマで勝つ。
ヒーローマキビーは勧善懲悪型ヒーローじゃない。
イカサマありのヒーローだ。
《ルパン3世の脈流がすでにここにある》
この漫画には、見るものを絵で惹きつける力があり
何でもありの間口の広さがあり、
そして人気漫画ではなくてはならない
ヒーローが描かれている。
これこそ日本漫画の原点ではないか、
少なくとも僕は今後、日本漫画の原点は吉備大臣入唐絵巻です、ということにしたい。
これが僕を格別にしてくれた一つ。
次に僕のハートを鷲掴みしたのは、赤鬼ナカマーとマキビーの空の飛び方。
もし僕が誰かに「空を飛んでいる絵を書いてください」と言われたら、
間違いなく空に向かって上昇する姿を書く。
でもナカマーとマキビーは地上に落ちて行くように、
スピード感たっぷりに描かれている。
そして、貴人が胡座で座ったまま、落下するように書かれている。
僕にとって空を飛ぶヒーローは、
アトムであり鉄人28号であり、
ガッチャマンでありスーパーマンだ。
どのヒーローも空中を飛ぶ時は片腕を前に突き出して、
両足を伸ばして力強く、かっこよくとぶ。
空を飛ぶヒーローはこういう姿で飛ぶ、
というお約束というか定型が出来上がっていた。
胡座で飛ぶヒーローなんて見たことがない。
それがとても新鮮で面白かった。
《どうやって陸に降りるのかな?
地上近くになるとふっと浮かぶようになって、
ゆっくりと着陸するように舞降りるのかな?
僕は空を飛ぶといえば、何らかの科学的力で飛ぶものだと
自動的に考えてしまっている。
平安時代で空を飛ぶといったら、
仙人力とかの摩訶不思議力で飛ぶんだ、多分》
格別がいくつもあって、
僕はウキウキになって美術館を後にした。
ある方との会話の話題が百田尚樹さんの小説のことになった。
『海賊と呼ばれた男』を読んでおられるという。
面白い小説のようだ。
僕は百田さんの『永遠の0』を読んだことがある。でも
「あんまり小説の世界に入れなかったです。
その題材の主題の、ゼロ戦パイロットがどうもね。
ゼロ戦操縦の腕前はピカイチだけど、
生きて祖国に帰ることを強く誓っているから
戦場で自分が不利な状況であったら空戦を挑んだりしない。
だから、血気にはやる同僚から、帝国軍人にあるまじき卑怯者だと罵られシカトされる。
でも彼は動じないで、自分の使命を全うし続ける。
そんな人が日米戦争の最後の最後で、米軍戦艦に特攻し帰らぬ人になるんです。
あり得ない、と思っちゃったんです」
と何ともトーンの下がることを言った。
でも、僕はどちらかというと小説にのめり込みやすい、と思っている。
電車の中で小説を読んでいる時、人中でも涙を流すことがある。
オイオイ(電車の中なので音は出さない。
うっうっうっと上半身がきざまれる感じ)泣くことがある。
(隣に座っている人が僕の様子に気づき警戒し始める)
鼻水も出てくる。(僕から離れたいと思っている)
ティッシュを探して鞄の中をゴソゴソして、そして鼻をかむ。
これって小説にリアリティーを感じているからだと思うんだけど、
違うんですかね。

会話の中のちょっとしたことだったが、
不思議と引っかかった。
僕はどんな作品であればドキドキして、どんな作品がダメなんだろか?
僕にとって小説に感じるリアリティーってなんだろう?
そして一般の人が感じる文学的リアリティーとは何か?
今日はこの答えを探しに行く。
ネット社会は便利だ。探索といってもその場でちょちょいとできる。
とりあえず「文学的リアリティー」をネット検索をしてみた。
こんな文章が出てきた。
「果たして文学にとってのリアリティとは何なのか。
文学は文学以外の表現や表象,あるいは一 般的な言語と同じように対象を指向するのか。
それとも何か独自の,特別な対象指向を持ち
,畢 竟,そこに現れる現実とは,文学以外の表象が指し示す現実と異なるのだろうか。
・・・・」
んー、そんな風に書かれても近寄り難い。
他も検索してみた。
今度は、ある作品に文学的リアリティーが感じられない、という内容だ。
(おお、僕が感じたことが説明されているかも)
「・・ここでは「客観的」な事実としての現実は、至極かんたんに無視されてしまっている。
たとえ素朴でも、現実をありのままにみる態度が貫かれていれば、
そこにはもっときびしい対立や矛盾が生じていたにちがいない。
・・・・
この作品では作品の世界と現実があまりにも安易にたちきられてしまっている。
現実の抵抗なしに、任意のかたちで作品の世界がもてあそばれている感じが強いのである。
この作品を読んで、文学的リアリティーを覚えないもっとも大きな理由がここにある。
そしてこの作品の根本的な欠陥は、
客観的な現実をとらえることよりも、作者の主観的な意識を先行させたところにある。」
とある。
この論だては、僕が『永遠の0』にリアリティーが感じられないと言ったことに近い。
でもなにか納得いかない。
近いが、どこか遠い。
いやむしろとっても遠い。
本質に迫ろうとして、逆に遠ざかってしまったような感じがする。
この二つの文章には躍動がない。
温度がない。
この二つの文章に共通することは
死体を解剖しているような感じだ。
死体にメスを入れて臓器を取り出し、
その中の一つを金属トレーに乗せて
「みなさん、これが心臓です。」と言っているかのようだ。
それは確かに心臓に違いない。
血にまみれているかも知れない。
でも「元」だ。動いてはいない。
心臓はドクッドクッと動いているからこそ心臓だ。生きてなきゃいけない。
解剖で取り出した動いていない心臓を見せてこれが心臓だと説明して、
一体何を説明したことになるのか。
文学的リアリティーも心臓のようなものじゃないのか。
小説という体の中の心臓。
躍動し体内に血液を巡らせ小説を生き生きとさせるもの。
それを小説から取り出そうとした時に、その説明はすでに失敗しているのではないか。
本当の心臓は動いている。
その様子をイメージできるような説明でなきゃ説明したことにならない。
それはとっても難しい作業だと思う。
相手に「これだよ」と見せられないものを、
さも目の前にそれがあるように説明できる能力が必要だ。
小説の体内で心臓のように動いている文学的リアリティーを
文学的リアリティーとして説明できる能力。
それって、小説の中に生命力を吹き込む能力と同等以上の能力がいることにならないか。
それができる人はほとんどいないということにならないか。

袋小路に入ってしまった。僕はいきなり本質に迫ろうとして討死した。
視点を変えたい。
そしたら、何かのお助けなのかたまたまなのか、
今(のんびり)読んでいる村上春樹さんの中にこんな文章が目に入ってきた。
「小説の筋はほとんど覚えていなかった。
ずいぶん長く真剣に考えたあとでやっと、
それがヘミングウェイの『武器よさらば』だとわかった。
僕が記憶しているのは、主人公が異国の地で妻の出産を待ちながら、
次から次へと食事を続ける、その結末に近い場面だけだ。
僕がその場面を良く覚えているのは、
そこに強烈なリアリティーが含まれると感じたからだ。
不安で食事が喉を通らなくなるよりは、
逆に異常なくらい食欲が湧いてきた方が文学的にリアルであるような気がしたからだ。」
あれ?、妻の出産を待つ男はそわそわしていて、普通なら食欲が減るよね?
でも小説の中の主人公は次から次へと食べ続ける。
そしてそこに強烈なリアリティーを感じた、と。
そしてなんと、強烈なリアリティーは小説の筋が忘れても記憶される!
そうだ、リアリティーは記憶に残る。
ストーリーを忘れてもリアリティーは残る。
これは僕もわかる。
僕も過去に読んだ小説のストーリーをほとんど覚えていない。
ストーリーは覚えていないけれど、
なぜだか知らないが特定のある部分は覚えていることがある。
それがリアリティーというものかも知れない。
小説のストーリーはどこまでも非現実のことだから、
それを覚えておく必要はないと脳の記憶中枢が独自に判断しているのだろう。
ストーリーはあっさりと忘れ去られる。
でも強いインパクトはしっかり記憶に残り、
その記憶は現実世界で経験した記憶と何ら遜色がない。
だから、実際に経験したことがない現実の場面で
「これは確か経験したことがあるぞ」と思うんだ。
小説のリアリティーの本質はわからないが、
読者が小説から受けた情動が記憶されたならば
その小説にリアリティーがあったということだ。
そして人々に残るその記憶は現実の記憶とあまり遜色がない。

ここまで書いてきて、『永遠の0』を読み始めた頃に感じたことを思い出した。
文章が馴染まなかった。
文章の語感が、僕のフィーリングにそぐわなかった。
それに作家の文章から「僕はこの小説をこういう方向に進めたいのだ」という意図が感じられて、
僕はウザさも感じた。
つまり、僕は『永遠の0』の文章につまづいてしまって、
結局その小説の世界にスッと入れなかったのだ。
この作品に感じたことは他の人も感じるはずとは言わない。
あくまでも僕のフィーリングと違っていただけ。
それは音楽と似ている。
美しい音や魅力的な歌声だったら音楽の世界に入っていける。
でも音が悪かったり音がずれていれば、音楽の世界に入れない。
音楽は音の向こう側にある。
小説も文章の向こう側にある。
つまり、小説以前に文章がある。
文章が読者を小説の世界に引き込んで行く。
良い小説かどうかはその小説の世界観に強く関わっている。
でも文章が悪ければ(その読者にとって、ということだが)読者はその世界に入ってはくれない。
文章力とは言葉の力。
強い言葉、癒しの言葉、響きの良い言葉に身に沁みる言葉。
そういう言葉があって、その向こうに一つの世界が作られて行く。
読者はもっともっとそんな言葉を受け取りたいと思って、
先へ先へと読み進んで行き、小説の世界に足を踏み入れていく。
そういう変遷の先に文学的リアリティーがあるのだろう。
コンテンツやストーリーを磨く前に、文章力を磨く必要がある。
それがリアリティーを生み出す最初の登竜門なんだ。
その文章に作者のあざとさがあってはいけない。
文章に作者の影が見え隠れしていると、
どこまで行っても小説を読んでいる現実の自分という立ち位置を忘れることがない。
それは小説の世界に入れないことを意味する。
人中で鼻水を流すこともないし涙も出ない。
僕は言葉の力を信じて言葉だけで小説を書ける作家が好きなのだろう。
語られた言葉がまた次の言葉を生み出していく、
そういう文章が書けること、
書いている本人も次の言葉がわかっていないような文章。
そういう文章で書かれた小説が好みなんだと思う。
今回のブログは大相撲5月場所での稀勢の里初優勝ぼ歓喜を書くつもりでした。
(大相撲を知らない人はわからないでしょうが)
千秋楽の今日、稀勢の里が琴奨菊に勝って14勝にして、
白鵬が日馬富士に負けて14勝のままとなれば稀勢の里と白鵬の優勝決定戦になって、
その決定戦に稀勢の里が白鵬に勝てば稀勢の里が優勝し
稀勢の里がはじめて賜杯を受け取ることになります。
白鵬は本当に強いので可能性は高いとは言えないんだけど、
だけど可能性がないわけではないので期待していました。
でも稀勢の里が琴奨菊に敗れて万事休す。
期待が膨らんでそれが一瞬で縮んでしまう、それも相撲です。
昨日の稀勢の里、白鵬戦は久しぶりに
「稀勢の里ー、勝ってくれ~」と念を送りました。
でも。白鵬はやっぱり強かった。さすがです。
稀勢の里も白鵬という牙城に迫ったけれども、
相撲の技量と経験の差が勝敗を決したと思います。
今回は白鵬も全力を尽くしてやっと勝ったという取組でした。
そういう取組だったので、もし千秋楽に優勝決定戦になったら
今度は稀勢の里が勝つかもしれないと期待しているのです。
でも、稀勢の里が勝つことだけを願っているわけではありません。
昨日の白鵬戦では念を送ろうと思ったほどに稀勢の里に勝って欲しいと思っていましたが、
でも白鵬も素晴らしい相撲をしたのです。あっぱれでした。
素晴らしい相撲が見れた喜びと、
白鵬はやっぱり強いという畏敬の念と、
負けた残念感とでも稀勢の里よ、めげるなという応援心が
渾然一体となった気分でした。

稀勢の里の一番素晴らしいところは
相手がどんな力士であっても真っ向勝負をするところです。
立会いでかわって相手をかわすということをしません。
対戦相手からすれば、立会いで変わらない稀勢の里はやりやすいのです。
立会いでどんな変化をするかわからない相手だと、どうしても慎重な立会いになります。
相撲は一瞬で勝負が決まります。中でも立会いの出来不出来が勝負に大きく影響します。
だから立会いを思い切ってできる相手はやりやすい。
稀勢の里を相手にした時、そういう相撲は良く見かけますが、
稀勢の里はそれでも自分のスタイルを変えません。
そういう稀勢の里の相撲が好きな人は多いと思います。
もし稀勢の里が白鵬戦の立会いで変わったら、
勝ちを得ることができるかもしれません。
でもそれでお客さんが喜ぶかとなると、どうでしょう。
稀勢の里には真っ向勝負で勝って欲しい、
一つの勝ちを取るために自分のスタイルを見失うようなことはしないで欲しい、
というところが稀勢の里ファンの気持ちではないでしょうか。
ファンが稀勢の里にがっかりするところは、
そういう真っ向勝負相撲でありながら
その相撲に見合うような心の充実ができていないところです。
本日千秋楽の琴奨菊戦は、琴奨菊がとても良い相撲であったことは間違いありませんが、
稀勢の里が昨日の敗戦を引きずってしまったからでしょう。
期待が大きいだけにファンをがっかりもさせる稀勢の里ですが、
だからこそ稀勢の里が成長し強くなってくれることを願っているという面もあります。

僕が稀勢の里を応援しているもう一つの理由は、
稀勢の里が強くなり横綱になれば相撲人気が盛り上がるだろう、と思うからです。
待ち焦がれた日本人横綱という捉え方はもちろんありますが、
稀勢の里には力士としての華があるからです。
やっぱり華のある人が表に出てくることで人気は高まるものです。
相撲はとても不思議な催しです。
競技であり、芸能であり、伝統文化であり、神事であります。
相撲は、渾然一体としてよくわからないものです。
でもこのよくわからないものと共生しているところが日本人の日本人たる一面である、
と僕は思っています。
もし、日本人がよくわからないものを全て排除してしまったら、
それはもはや日本人の心を持っていない人ではないでしょうか。
大相撲に対する関心を多くの日本人が持つことで、
日本人たるところが(漠然とでも良いので)広まることを期待しています。

相撲は勝負ですが、勝負が全てではありません。
一場所での優勝者を決めますが、
それは大相撲がお客様の関心を高める興行性を持っているからであって、
勝負を決することを一番の目標にしているわけではありません。
だから一人の力士だけを応援する応援団が国技館を占領するのは、
国技館にふさわしいとは思っていません。
国技館を他のスポーツのように応援団でワイワイやるのは、
大相撲が持っているものを曲げてしまう気がします。
(人気が落ちた大相撲が復活する途中で多くの人が応援に駆けつけることは嬉しいのですが)
相撲は神事の一面も持っています。
そして色々な神事の中でもエネルギーの高揚と放電に意味があると思います。
相撲のシコ(足裏で土を強く叩く好意)は土の中に住む様々な邪霊を追い払う浄めの作法です。
土俵に塩をまく行為も浄めの作法です。
力士が両掌を強く打つ柏手も神様を呼び起こし、周りの空気を浄める作法です。
そして相撲の取組そのものが神事です。
力士は土俵に上がって実際に相撲をするまでの間に
二人の力士は同じ作法をやらなければなりません。
この同じ動作を強いられえう約束毎とは何を意味するのでしょうか?
よくはわかりませんが、挨拶を意味している、と考えて良いでしょう。
現代においても二人の人間が出会ったら、最初に挨拶し名刺を交換し同じ動作をします。
相撲が最も他の競技と違うところは、何回も繰り返される仕切りです。
あれは何なんでしょうね。不思議です。
でも仕切りを繰り返して行くうちに、力士の皮膚は赤みを帯び始め闘争心が表に出てきます。
人間は相手と同じ動作を繰り返しを続けると暴力性がメラメラとしてきます。
僕たちも親しくない人が自分の目の前で自分の手足の動きをされたら
気色悪いし「なんだ?舐めとるんか?」となりますよね。
大相撲でも仕切りの途中で力士どおしが睨みあってメンチを斬り合っていることがあるでしょう。
これは正に暴力性や闘争心を起動された状態です。
繰り返される仕切りは、暴力性や闘争心を呼び起こす行為を形式化したものと考えられます。
そして取組ですが、これも意図が組み込まれていると思います。
大きな力士に対して小さな土俵です。この一見不適合な勝負のフィールドは何なのか?
相撲はとても短い時間で勝負が終わるようにできている、が答えではないでしょうか。
短い時間の勝負が求めることは、
相手を完膚なきまで叩きのめすことができない、ということ。
完膚なきまで叩きのめされることがないから
他の格闘技と違って相撲で再起不能になるほどのダメージは受けにくい。
(全くないということではありません)
短い時間の勝負であれば、意外なことが起こる確率が高まります。
ちょっとしたことが勝負を左右するし、強さと勝負が必ずしも一致しません。
なぜ短い時間で勝負が決するように制度設計されているのか?
長い時間をかけて仕切りを繰り返させたあげく、どうして直ぐに勝負を決めてしまうのか?
その答えは、取組は放電である、と思います。
仕切りで高まった暴力性や闘争心を短い取組で一気に放電させる。
礼から始まり力士に時間をかけて暴力性を高め、そして一瞬にして勝負を終わらせる、
溜まったエネルギーを放電させて後に残るのは健闘を称え合うことであり、
やすらぎであり共生であろうと思います。
それは相撲を見ている人たちも巻き込みます。
所謂、同調が土俵の力士の動作と力士から発するエネルギーと観客が同調します。
観客も気分が盛り上がってそして放電しやすらぎと共生感に浸るのではないでしょうか。