何かの文章を書こうとしたら、昔は必ず辞書が必要だった。
机の上には国語辞典や漢和辞典、英訳に和訳、古語辞典もあったし類語辞典などもあって、
机の上を陣地と言うなら、その陣地内で辞書はかなりの強国だった。
辞書は何も言わないけれど、
「我輩の助けがなければ君は何もできんだろう」とばかりに堂々と鎮座していた。
そんな辞書の無言の声に僕は反発するどころか、
むしろ分厚い辞書が自分のそばにいつか鎮座している状況を夢想した。
本屋さんの辞書コーナーに行ってなん万円もする辞書に手を触れて
「いつか僕のそばにおいで」と無言で囁いたことがある。
わかりもしないのに白川静さんの字通を手にいれて、
パラパラ適当に開いて楽しんだこともある。
その時の感情を今になって分析するなら、
辞書が僕の「格」を高めてくれるとでも考えていたのだろう。
今はネットが発達しウィキペディアを検索すれば大概のことはわかるし
(正しいかどうかは保証されてはいない、という前置きはあるけれど)
そもそもあの厚くて重い辞書の内容がインターネットで検索できるようになって、
僕は辞書をめくって意味を調べることがなくなり、
辞書は、僕に恨みの一言も陣地を失った敗戦の弁も語ることなく、
僕の周りからいつのまにか姿を消した。
そもそも「字を書く」ということすらなくなったから、
机もなくなった。
(商品分類上の机はあるけれど、
それは小物類入れと小物置き場になった)
このブログもソファーに座って、
片手でiPadを持ってもう片方の人差し指をタッチパネルに触れて入力している。
簡単に修正できるし、どこでも入力できるし、
解らない言葉があってもその場でネットで検索でき
とん挫することもなく文章は前に進むことができるので、
ちょっとした時間があれば入力して文章にすることができる。
機能性で考えたら、
それは文字数という定量的秤で考えたらということと同じことを指すが、
ネットで文章が綴れるようになって機能性が向上し文章文字数が増えた。
それは圧倒的差と言っていい。
400字詰め原稿用紙分の文章を書く時間を、
自筆で書く(字の美しさは問わないとして)時とiPadで書く時とでは
数倍の差がある。
僕のそばに辞書はもういないけど、
文字を埋めていくことは機能的であり苦痛を感じない、
そういう時代に僕はいる。
便利だが、一方で自分の文章が上辺で文字が羅列されているだけのような気分も
時々感じるようになった。
定量的尺度では文章は向上したが、
質という定性的尺度でいうならば、
僕の文章は向上しているとは決して言えないんじゃないか。
誰でも書けるようなことが並んでいるような文章が書きたくて
僕はブログを書いているわけじゃない。
僕の身体性をかけた文章でありたい。
身体性とは、人格や知識や経験、それに美意識をベースとしつつも、
好みや五感を伴う皮膚感覚、それに体を動かすことと連動するような感覚も包含する。
だから僕の身体性は他者のそれとは違っているはず。
身体性という言葉がわかりにくいなら独自性でも、まあ遠くはない。
僕は独自性を求めてなどいないけれど、
自分の身体は一つしかないから結果的に独自性が表に出ることはあると思う。
でも身体性をかけて、本当は汎用性を求めている。
勿論、そんな文章に遠く及んでいないことは自覚してますけど。
身体性は身体をどれだけそのために時間と身体を費やしたかに連動していると思う。
僕の文章に身体性がないのはもしかしたら、
辞書を開いて言葉を探し、その幾つかの意味を読んでどれが今一番相応しいのか
考えるプロセスを省いてしまったことが一つの理由ではないのか、
と考えるようになった。
そしてそれなら、自分だけの字引を作ることにした。
読んだ本の中で気になったところをキーワードと共にアーカイブしていって、
自分の字引を作ろうと思った。
辞書のような網羅性はないけれど、
その字引には僕が感応しキーワードを決めてワードで記録するまでの動作が内在しているので、
間違いなく自分の身体性がある。
その時感応した記録がある。
そこにある言葉の美しさにハッとさせられた跡がある。
それらの言葉が僕の身体の中で種撒かれそれが芽吹いて成長したなら、
僕の文章の何処かで小さな煌めきとなることも期待している。
今回はそんな字引から
小林秀雄と岡潔の『人間の建設』対談集から幾つか紹介します。
小林秀雄氏は有名な文学評論家であり、岡潔氏は有名な数学者です。
対談の話題は多方面にわたり取り止めがなかったように思うが、
たくさんの煌めきがあった。
「文章を書くことなしには思索を進めることはできません。
ことばで言い表すことがなければ人は長く思索はできないと思います。」
は僕がブログを書くことを後押ししているし、
特に理性と愛情の関係はわかっているようで
現実の世界ではこういう評価になっていないことをズバッと書かれていたので、
ハッとした記憶がある。
(現実の世界で理性高い人と愛情深い人のどちらが偉いかと問えば、
多くの人が理性高い人と答えるだろう)
「好きになる」
人は極端に何かをやれば必ず好きになるという性質をもっています。
好きにならぬのがもむしろ不思議です。
好きになると易しいことはつまらんと感じます。
難しいことが面白いということが誰でもあります。
「無明」
人には無明という醜悪にして恐るべき一面がある。
人は自己中心に知情意し感覚し行為する。
その自己中心的な広い意味の行為をしようとする本能を無明という。
「個性」
本当の個性は無明とは違う。本当はもっと奥深くからくるものである。
アメリカという国は、個性を尊重するようでいて実は個性を大事にすることを知らない国です。
だから食べ物に個性がないのです。
「個性」
本当の詩の世界は個性の発揮以外に無いのです。
一人一人個性はみな違います。
それでいていいものは普遍的に共感する。
個性はみな違っているが他の個性と共感するという普遍的な働きを持っている。
それが個人の本質です。
不思議ですがそうです。
「おもしろい」
人は無明を抑えさえすればやっていることが面白くなってくるのです。
丹念に長い間取り扱ってきたものを見ているうちに、
自分の心のほしいままのものがとれることがある。
ほしいままのものがとれさえすれば、自然は何を見ても美しいのではないか。
「調和ある芸術」
絵の調和とか不調和というものに、生理、とくに胃の生理と結びついていると思う。
「制作」
モノを生かすということを忘れて、
自分が作り出そうという方だけをやったら良いものはできない。
「詩人」
発信する人。
本質は直観と情熱。
「勘は知力」
勘は知力です。それが働かないと一切が始まらない。
勘でつかんだものを表現するために苦労するのです。
勘で探り当てたものを主観の中で書いて行くうちに内容が流れ始める。
それが文章であるはずです。
「暗黒時代」
世界の知力が低下すると暗黒時代になる。
暗黒時代になるとモノの本当の良さが分からなくなる。
真善美を問題にしようとしてもできないからすぐに実社会と結びつけて考える。
それしかできないしそうしようとする。
それが功利主義です。
「思索と文章」
文章を書くことなしには思索を進めることはできません。
ことばで言い表すことがなければ人は長く思索はできないと思います。
「情緒」
情緒は人本来のものです。
情緒を形に表すという働きが大自然にはあるらしい。
文化はそのあらわれである。
数学などもつながっている。
形に現れるもとのものを情緒と呼んでいるわけです。
「情緒と形」
いったん形にするともうそこには情緒はなくなっている。形だけが残ります。
情緒がなかったら熱意も起こらないでしょう。
それを情熱と呼んでおります。
言い表しにくいことを言って聞いてもらいたいときは人は熱心になる、それは情熱なのです。
そしてある情緒が起こるについて、それはこういうものだということを直感というのです。
そして直観と情熱があればやるし
、同感すれば触れようとし読むし、
そういうものがなければ見向きもしない、そういう人を詩人という。
「不易流行」
これは歴史哲学ではありません。
不易というのはある動かない観念ではなくて、記憶の力に関してです。
誰でも歴史をを背負っている。
否定したとしても、記憶がよみがえるということがあるのです。
この記憶が何らかの感動を与えたりするということはその人の意思ではないのです。
記憶がそうさせるのです。
そこに立ちかえることを芭蕉は不易と呼んだのではないでしょうか。
本当の記憶は頭の記憶より広大である。
「理性」
愛情には理性が持てるが、理性には愛情は持てません。
理性というものは、対立的、機械的に動かすことしかできませんし、
知っているものから順々に知らぬものに及ぶという働き方しかできません。
机の上には国語辞典や漢和辞典、英訳に和訳、古語辞典もあったし類語辞典などもあって、
机の上を陣地と言うなら、その陣地内で辞書はかなりの強国だった。
辞書は何も言わないけれど、
「我輩の助けがなければ君は何もできんだろう」とばかりに堂々と鎮座していた。
そんな辞書の無言の声に僕は反発するどころか、
むしろ分厚い辞書が自分のそばにいつか鎮座している状況を夢想した。
本屋さんの辞書コーナーに行ってなん万円もする辞書に手を触れて
「いつか僕のそばにおいで」と無言で囁いたことがある。
わかりもしないのに白川静さんの字通を手にいれて、
パラパラ適当に開いて楽しんだこともある。
その時の感情を今になって分析するなら、
辞書が僕の「格」を高めてくれるとでも考えていたのだろう。
今はネットが発達しウィキペディアを検索すれば大概のことはわかるし
(正しいかどうかは保証されてはいない、という前置きはあるけれど)
そもそもあの厚くて重い辞書の内容がインターネットで検索できるようになって、
僕は辞書をめくって意味を調べることがなくなり、
辞書は、僕に恨みの一言も陣地を失った敗戦の弁も語ることなく、
僕の周りからいつのまにか姿を消した。
そもそも「字を書く」ということすらなくなったから、
机もなくなった。
(商品分類上の机はあるけれど、
それは小物類入れと小物置き場になった)
このブログもソファーに座って、
片手でiPadを持ってもう片方の人差し指をタッチパネルに触れて入力している。
簡単に修正できるし、どこでも入力できるし、
解らない言葉があってもその場でネットで検索でき
とん挫することもなく文章は前に進むことができるので、
ちょっとした時間があれば入力して文章にすることができる。
機能性で考えたら、
それは文字数という定量的秤で考えたらということと同じことを指すが、
ネットで文章が綴れるようになって機能性が向上し文章文字数が増えた。
それは圧倒的差と言っていい。
400字詰め原稿用紙分の文章を書く時間を、
自筆で書く(字の美しさは問わないとして)時とiPadで書く時とでは
数倍の差がある。
僕のそばに辞書はもういないけど、
文字を埋めていくことは機能的であり苦痛を感じない、
そういう時代に僕はいる。
便利だが、一方で自分の文章が上辺で文字が羅列されているだけのような気分も
時々感じるようになった。
定量的尺度では文章は向上したが、
質という定性的尺度でいうならば、
僕の文章は向上しているとは決して言えないんじゃないか。
誰でも書けるようなことが並んでいるような文章が書きたくて
僕はブログを書いているわけじゃない。
僕の身体性をかけた文章でありたい。
身体性とは、人格や知識や経験、それに美意識をベースとしつつも、
好みや五感を伴う皮膚感覚、それに体を動かすことと連動するような感覚も包含する。
だから僕の身体性は他者のそれとは違っているはず。
身体性という言葉がわかりにくいなら独自性でも、まあ遠くはない。
僕は独自性を求めてなどいないけれど、
自分の身体は一つしかないから結果的に独自性が表に出ることはあると思う。
でも身体性をかけて、本当は汎用性を求めている。
勿論、そんな文章に遠く及んでいないことは自覚してますけど。
身体性は身体をどれだけそのために時間と身体を費やしたかに連動していると思う。
僕の文章に身体性がないのはもしかしたら、
辞書を開いて言葉を探し、その幾つかの意味を読んでどれが今一番相応しいのか
考えるプロセスを省いてしまったことが一つの理由ではないのか、
と考えるようになった。
そしてそれなら、自分だけの字引を作ることにした。
読んだ本の中で気になったところをキーワードと共にアーカイブしていって、
自分の字引を作ろうと思った。
辞書のような網羅性はないけれど、
その字引には僕が感応しキーワードを決めてワードで記録するまでの動作が内在しているので、
間違いなく自分の身体性がある。
その時感応した記録がある。
そこにある言葉の美しさにハッとさせられた跡がある。
それらの言葉が僕の身体の中で種撒かれそれが芽吹いて成長したなら、
僕の文章の何処かで小さな煌めきとなることも期待している。
今回はそんな字引から
小林秀雄と岡潔の『人間の建設』対談集から幾つか紹介します。
小林秀雄氏は有名な文学評論家であり、岡潔氏は有名な数学者です。
対談の話題は多方面にわたり取り止めがなかったように思うが、
たくさんの煌めきがあった。
「文章を書くことなしには思索を進めることはできません。
ことばで言い表すことがなければ人は長く思索はできないと思います。」
は僕がブログを書くことを後押ししているし、
特に理性と愛情の関係はわかっているようで
現実の世界ではこういう評価になっていないことをズバッと書かれていたので、
ハッとした記憶がある。
(現実の世界で理性高い人と愛情深い人のどちらが偉いかと問えば、
多くの人が理性高い人と答えるだろう)
「好きになる」
人は極端に何かをやれば必ず好きになるという性質をもっています。
好きにならぬのがもむしろ不思議です。
好きになると易しいことはつまらんと感じます。
難しいことが面白いということが誰でもあります。
「無明」
人には無明という醜悪にして恐るべき一面がある。
人は自己中心に知情意し感覚し行為する。
その自己中心的な広い意味の行為をしようとする本能を無明という。
「個性」
本当の個性は無明とは違う。本当はもっと奥深くからくるものである。
アメリカという国は、個性を尊重するようでいて実は個性を大事にすることを知らない国です。
だから食べ物に個性がないのです。
「個性」
本当の詩の世界は個性の発揮以外に無いのです。
一人一人個性はみな違います。
それでいていいものは普遍的に共感する。
個性はみな違っているが他の個性と共感するという普遍的な働きを持っている。
それが個人の本質です。
不思議ですがそうです。
「おもしろい」
人は無明を抑えさえすればやっていることが面白くなってくるのです。
丹念に長い間取り扱ってきたものを見ているうちに、
自分の心のほしいままのものがとれることがある。
ほしいままのものがとれさえすれば、自然は何を見ても美しいのではないか。
「調和ある芸術」
絵の調和とか不調和というものに、生理、とくに胃の生理と結びついていると思う。
「制作」
モノを生かすということを忘れて、
自分が作り出そうという方だけをやったら良いものはできない。
「詩人」
発信する人。
本質は直観と情熱。
「勘は知力」
勘は知力です。それが働かないと一切が始まらない。
勘でつかんだものを表現するために苦労するのです。
勘で探り当てたものを主観の中で書いて行くうちに内容が流れ始める。
それが文章であるはずです。
「暗黒時代」
世界の知力が低下すると暗黒時代になる。
暗黒時代になるとモノの本当の良さが分からなくなる。
真善美を問題にしようとしてもできないからすぐに実社会と結びつけて考える。
それしかできないしそうしようとする。
それが功利主義です。
「思索と文章」
文章を書くことなしには思索を進めることはできません。
ことばで言い表すことがなければ人は長く思索はできないと思います。
「情緒」
情緒は人本来のものです。
情緒を形に表すという働きが大自然にはあるらしい。
文化はそのあらわれである。
数学などもつながっている。
形に現れるもとのものを情緒と呼んでいるわけです。
「情緒と形」
いったん形にするともうそこには情緒はなくなっている。形だけが残ります。
情緒がなかったら熱意も起こらないでしょう。
それを情熱と呼んでおります。
言い表しにくいことを言って聞いてもらいたいときは人は熱心になる、それは情熱なのです。
そしてある情緒が起こるについて、それはこういうものだということを直感というのです。
そして直観と情熱があればやるし
、同感すれば触れようとし読むし、
そういうものがなければ見向きもしない、そういう人を詩人という。
「不易流行」
これは歴史哲学ではありません。
不易というのはある動かない観念ではなくて、記憶の力に関してです。
誰でも歴史をを背負っている。
否定したとしても、記憶がよみがえるということがあるのです。
この記憶が何らかの感動を与えたりするということはその人の意思ではないのです。
記憶がそうさせるのです。
そこに立ちかえることを芭蕉は不易と呼んだのではないでしょうか。
本当の記憶は頭の記憶より広大である。
「理性」
愛情には理性が持てるが、理性には愛情は持てません。
理性というものは、対立的、機械的に動かすことしかできませんし、
知っているものから順々に知らぬものに及ぶという働き方しかできません。