デトロイト市が破綻した。
デトロイト市の財政状況は、厳しい状況にあることが、以前から言われてはいた。
そうは言ってもアメリカ最大の自動車メーカーのGM(ゼネラルモーターズ)社の本社があり、
アメリカ大リーグの中の名門球団であるデトロイト・タイガースのホームグラウンドで、
多くの日本人がその名前を知っている、
アメリカの中でも大都市に位置づけられるデトロイトだ。
破綻を回避するために色々な支援があるのだろうと、僕は思っていた。
アメリカ政府かGM社が何らかの支援活動を(それは根本的解決策にならないものでも、
又有権者や消費者を意識したパフォーマンスにとどまるものであっても)
行うだろうと思っていた。
僕は破綻をまともに考えていなかったが、
本当に、支援も無く、あっさりと、デトロイト市は破綻した。
この事実と僕の認識に、ズレがあったことを認める必要がある。
日本は、日米同盟に象徴されるように、アメリカとの関係性が強い。
日本を取り巻く極東の外交軍事動向、中国や韓国や北朝鮮との関係を考えた時に、
アメリカの外交と軍事戦略抜きにして日本は何もできない状況にある。
重大な経済政治課題であるTPP問題も、
もともとアメリカの戦略に乗っかろうとしているものだ。
小泉首相時代から始まった色々な公共事業を民営化していこうとしている流れも、
アメリカを真似てのことだ。
単純化して言ってしまえば、
国際社会での日本の活動は日米同盟によって、
実のところ、それは(同盟とは名ばかりで)アメリカ政府の意向によって、
決められてきた。
そして戦後日本の社会にもたらされた現象は、
心的には豊かなアメリカに憧れその豊かさに追いつきたいという情動によって、
(それはアメリカンドリームと呼ばれる)
形成されてきた。
戦後日本は日米同盟とアメリカンドリームによって、
社会が移り変わってきたと言えるだろう。
そして今回のデトロイト市破綻はアメリカンドリームの終焉を意味する。
アメリカは、栄華を極めたかつてのアメリカではない。
そして政治が経済原理によって翻弄されているアメリカは、
嘗ての明確な国家意識を持ったアメリカでもない。
アメリカとの関係性が強い日本並びに日本人は、
このことを受け入れる必要がある。
受け入れることによって、
TPPが日本をどういう国にして行くのか今よりも冷静に考えられるようになるし、
公共事業の民営化がもたらす終着が
どういうものなのかイメージできるようになる。
そういう理解の糸口を掴んでもらうために、皆さんに二つ質問を出そう。
どうしてアメリカ政府はGM社の破綻回避のために
巨額の政府予算を使って救済したのに、
デトロイト市の破綻には支援をしないのでしょうか?
どうしてGM社は、デトロイト市破綻回避のための活動をしないのでしょうか?
そのヒントや回答は堤未果さんの『(株)貧国大国アメリカ』(2013年6月出版)が答えてくれる。
その著書に書かれている記事を抜き出すことで、回答の代わりにする。
アメリカの見方が変わったその時から、
廃棄できない日米同盟と貧困大国アメリカをパートナー(実のところは主国)として、
極東の安定並びに日本の国益を守り、
日本が貧困国に流されていかないように、
日本は何をしなければならないのか真剣に考える時にあることを、
我々日本人は自覚しなければならない。

「ようこそ、全米一危険な町へ!」
こんなチラシが2012年10月のデトロイトタイガース球場で配られた。
「注意!デトロイトには自己責任でお入り下さい」
・デトロイトは全米一暴力的な町です。
・デトロイトは全米一殺人が件数が多い町です。
・デトロイト市警は人手不足です。
・人手不足のため12時間シフトで働かされ・・・・警察は疲労困憊しています。
・デトロイト市警の賃金は全米最低ですが、市はさらに1割カットしようとしています。
配布していたのは現役のデトロイト市警官たちだ。
「デトロイトは2010年末から、市の職員を大量に解雇し始めていました。
その時のリストラ人数は1000人です。」
「もともと治安が悪い町でしたが、2000年半ばからひどくなり、
GM社の破綻がとどめをさしたんです。
公共サービスなんてないも同然になった。
毎日どこかで強盗が起きるので銃は常に持ち歩いていました。
警察はあてになりません。
強盗にあって緊急電話しても、
警察がくるのは一日二日たってからですから。」
「昔はアメリカでも有数の美しい町だったんですよ。」
ビッグスリー(GM、クライスラー、フォード)と呼ばれた自動車産業の中心地で、
1950年代はアメリカンドリームの象徴だった町。
全盛期に185万人だった人口も、今は71万人に減ってしまった。
そしてなぜか火災が急増している。
「住宅ローンも払えず、仕事もなく家族を抱えてどうしようもなくなった人が、
自宅に放火する事件が後をたたないんです。保険金目当てにね」
2012年5月にデトロイト市は8万8千灯ある街灯を半分に減らす、
通称「ゴーストタウン計画」を実施する。
もともと半数は壊れたまま市が修理代すら出せず放置されていたが、
点灯数を半減させることで住民の生活エリアを縮小させる目的だった。
その結果、犯罪率はさらに上昇、住民の流出が加速した。
失業拡大と産業の流出が市の財政を圧迫し続け、
デトロイト市は借金を重ねついには・・・
デトロイト市は今のアメリカでは氷山の一角だ。
リチャード・リオーダン元ロサンゼルス市長は
「このままでは全米の自治体の9割は5年以内に破綻する」と警告する。
自治体が破綻する要因を積極的にアメリカ政府が後押ししてきた。
例えばブッシュ政権が後押しした「落ちこぼれゼロ法」によって、
教育予算を巡ってテストの点数を競うようになった。
教育に市場原理を持ち込んだ「落ちこぼれゼロ法」では、
生徒たちの点数が上がらなければ国からの予算が出ないだけでなく、
その責任が学校側と教師たちにかかる。
貧困家庭の生徒を多く抱えるデトロイトの公立学校では平均点が上がらず、
教師たちは次々に解雇され、学校は廃校になった。
公立校が潰れると、すぐにチャータースクール(営利学校)が建てられる。
銀行家や企業が経営するチャータースクールは、7年で元がとれるから、
投資家にとって魅力的な商品なのだ。
ただし公的なインフラではなくあくまでも教育ビジネスなので、
生徒にとって入学のハードルは高い。
高い授業料を払えるだけの経済力と一定以上の学力が要求されるため、
デトロイトでは教育難民となった子供たちが路上にあふれ、
失業した教師たちは州を出るか、
食べていけずにSNAP(食費補助制度)を申請することになった。
教師たちは、財源を理由に政府が公教育を解体しようとしていることに、
大きな危機感を抱いている。
解体された教育はウォール街の投資家達に、
新しいビジネスチャンスとして差し出されているからです。
そして今度は自治体破産を理由に、
デトロイトが次の市場に変えられてゆくのを、
投資家たちは熱い期待と共に待っている。
「次々に町が破綻し廃墟が広がるようなミシガンですら、
上位1%の層だけは順調に収益をあげている。
今のアメリカは、貧困人口が過去最大であると同時に、
企業の収益率も過去最大なのです」
「政治家たちは、赤字を抱えた自治体を立て直すには
非効率な公共部門をカットして民間に任せ、
経済を活性化するしかないという。
だがこのやり方の問題は、一度始めてしまったら、
壮絶な価格レースに参加させられて後戻りができなくなることだ。
企業が進出してきても環境は破壊される。
そして使い物にならなくなれば、企業はさっさと別の土地へ移るだろう。
コストと生産性が最優先の物差しである企業には、地元の商店と違って、
この土地に対する愛着心も人間関係もない。
子供たちの育つ環境への思いや、
受け継いでゆく伝統を守りたいという気持ちも持っていない」

わずか1%の富める者とそれ以外の貧者。
なぜ二極化が加速しているのだろう。
株価や雇用は回復したはずなのに貧困は拡大を続け、
医療、教育、年金、食の安全、社会保証など、
かつて国家が提供していた最低限の基本サービスが、
手の届かない贅沢品になってしまった。
かつて善きアメリカを支えていた、
中間層や、
努力すれば報われるというアメリカンドリームは、
消えてしまった。
政府が企業の意図のままに動いている。
今や通商交渉分野のトップ上院議員ですら、
政府のTPP交渉文書を閲覧できない状況にある。
「今のアメリカをかつてのような国家としてのアメリカだと思わない方がいい。
今政府の後ろにいるのは、もっとずっと大きな力を持った、
顔の見えない集団なのです。」
巨大化して法の縛りが邪魔になった多国籍企業は、
やがて効率化と拝金主義を公共に持ち込み、
国民の税金である公的予算を民間企業に移譲する新しい形態へと進化した。
ロビイスト集団が、クライアントである食産複合体、医療複合体、
軍産複合体、形産複合体、教産複合体、石油、メディア、金融などの業界代理として
政府関係者に働きかけ、献金や天下りと引き換えに、
企業よりの法改正で彼らの障害を取り除いて行く。
貧困は結果だ。
根幹にある原因を探っていくと、今のアメリカの実体経済が
世界各地で起きている事象の縮図であることがわかる。
経済界に後押しされたアメリカ政府が自国民にしていることは、
TPPなどの国際条約を通じて、次は日本や世界各国にやってくるだろう。
僕の今週は、堺雅人さん主演のTBSドラマ『半沢直樹』がちょっとブームだった。
月曜日には「西川さん、『半沢直樹』を見ましたか。
池井戸潤の書いた小説は面白いね。」
「西川さんも、ドラマのような振る舞いをしていたんですか?」と声をかけられた。
「ドラマのような激しいことはしていませんよ。
でもどちらかというと一言多いタイプだったので、
そうはおっしゃいますが、支店長。と言ったことはあります」と僕は答えた。
水曜日に、前の会社の先輩とお酒を飲むために待ち合わせ場所に行ったら、
先輩は池井戸潤さんの『ロスジェネの逆襲』を読んでいた。
僕が「ロスジェネ、ですか?」というと
「そう、彼(池井戸潤さんのこと)は銀行の次に証券会社に行っただろ。その時の話さ。」
この先輩も「そうはおっしゃいますが・・」タイプの方なのだが、
先輩もこのドラマの影響を受けていた。
金曜日にはコンサルタントの方が、
「このドラマは銀行を知る良い教材ですね」
と、とても楽しそうにおっしゃる。
このドラマが凄く注目されているのだろうが、
僕の周りでこれほど話題になったのは、それは僕が元銀行員だったからだろう。
堺雅人さんは、銀行員らしくない銀行員である半沢直樹を熱演されている。
銀行員らしくない理由は、何と言っても、ドラマチックな言動にある。
だが銀行員の言動は、ドラマチックな言動の対局にあると言っても過言ではない。
作者の池井戸潤さんが言っているように、
主人公・半沢直樹は実在の人物というよりも、
会社の中で言いたいことも言えずに悶々としている人たちが
半沢直樹の行動と発言に、胸の内にしまい込んだ言いたいことを言ってくれてスッキリ、
と爽快感を感じてくれてるように人物設計されている。
その役をドラマで演じるのだから、畢竟ドラマチックになるだろう。
「西川さんは銀行員だったように見えませんね」とも言われた。
過去にもいろんな方から何度も言われたことだが、
これはドラマの半沢直樹のドラマチック性とはもちろん別のものだ。
ドラマチック性とは違う次元で、
僕の普通の言語活動において、銀行員らしくない、と感じる人がいる。

言語活動は三層によって構成されている、そうだ。
第一の層がラング(langue)、これは国語あるいは母語のこと。
僕は日本に生まれたので、日本語話者として言語活動を開始する。
他の日本人も日本語話者だから、ラングでは僕と「銀行員」に、違いはない。
第二の層が「スティル」(style)、これは言語運用における「パーソナルな偏り」のこと。
言葉や文の長さ、リズム、音韻、文字の画像的印象、改行、頁の余白、漢字の使い方など、
そこには生理的・心理的な個人的偏差が生じる。
スティルは一人一人違うから、これも僕と「銀行員」を分けるものではない。
第三の層として「エクリチュール」(e'criture)というものが存在し、
これは「社会的に規定された言葉の使い方」。
ある社会的立場にある人間は、それに相応しい言葉の使い方をしなければならない。
さらに言語運用に準じて、
表情、感情表現、服装、髪型、身のこなし、生活習慣、さらには政治イデオロギー・・まで影響される。
このエクリチュールが多分、僕と「銀行員」を分けるものだろうと思う。
表情や感情表現や髪型、身のこなしは、
僕自身も僕の周りの銀行員とはちょっと違うという自覚はあった。
それにはワケがある。
ある時に、僕自身が銀行員のエクリチュールを身につけてしまった、
ということを自覚させられることがあった。
そしてそのことは、その時の僕の勝手な判断だけれど、
僕自身の良心を自分で捻じ曲げてしまった、と思った。
それが正しいとか間違ったというよりも、
このまま行くと自分が自分でなくなる、と思った。
それ以降、銀行員として仕事をこなしつつ、
仕事での自分の振る舞いや言動が仕事の遂行上やむを得ないものであったとしても、
それは自分の良心に背いていないかどうか、心の中で時々チェックした。
そういうことを繰り返していたのだから、
僕のエクリチュールは所謂「銀行員」のエクリチュールとは違ったものであったと思う。
だから、銀行員らしくない、と言われるのだろう。
エクリチュールの、社会的に規定された言葉の使い方とは、
元々は階層社会の中で何処かの階層に属する人々の言葉の使い方をいう。
でも日本にはヨーロッパ社会のような階層社会はない。
しかし階層とは別の、業界という結構閉ざされた社会がある。
銀行は他の業界以上に閉ざされた社会だから、エクリチュールが発生する。
僕は、無自覚だったけれど、銀行のエクリチュールを身につけないようにしていたわけだ。
では銀行業界のエクリチュールとは一体なんだろうか?
今まで一度も考えたことがなかったことだが、
いい機会だから書いてみよう。
断っておくが僕は嘗て勤めた銀行に対して、
勤めた30数年に対して、とても感謝している。
わけもわからない若者だった自分を放り出すこともなく、
雇い続け鍛えてくれたことに感謝している。
その感謝の念とは別に、エクリチュールとして客観的に分析してみようと思う。

エクリチュールの最初に思い浮かぶことは、保守性だ。
銀行は融資を重要業務にしているが、
融資資金の源泉が預金にあることが保守性を高めている。
銀行の大きな収益源は融資から受け取る利息だ。
融資金総額を大きくすれば利息は増えるので、
銀行は融資金を増やしたいという行動ベクトルを持つ。
しかし融資を受けたい先とは、お金に困っている先だ。
逆にお金に困っていない先は、融資を受ける必要がない。
つまり融資を増やせば増やすほど、
お金に困っている取引先が増えることになる。
お金に困っている先は、当然お金に困っていない先よりも破綻するリスクが高い。
そういう先が不況期に一斉に破綻したら、その融資は焦げ付き、無価値になる。
銀行は預金を預かり、それを元手に融資を行い、
受け取った融資利息から自分たちの儲けを差し引いた後に、
預金者に利息を払うことで業務が成り立っている。
融資の無価値化はこの業務サイクルが破綻したことを意味するのだが、
ある銀行がそういう状態になると大概は噂が流れ、
預金者は自分のお金を守るためにその銀行から預金を引き出す。
そういう預金者が銀行窓口に殺到する。
大量の預金が流出し、銀行は手持ちの現金が尽きて取り付け騒ぎになる。
銀行は歴史的にこの取り付け騒ぎを繰り返し経験し、
融資業務を保守的に運営することを学び、そして国から義務付けられるようになった。
そして預金者が安心して預金を預けてくれる「信用」が、大事であることを学んだ。
そしてこの信用は、革新性ではなくて保守性によって形成される、
という確信によって運営されるようになった。

次に特徴的な言動は、権威的な言動だろう。
これも銀行が融資を行うことで業務が成り立っていることに起因する。
お客様という丁寧語を使っていても、融資先は債務者であり自分は債権者だ。
債権者は債務者に対して強い立場に立つ。
強い立場は権威性を帯びて行く。
それから銀行は銀行法という法律で規定された業務であり、
誰かが銀行業を行いたいと思ったとしても、まずなれない。
つまり銀行は法律によって他の業界と完全に分離されていることが、
権威性を強化している。
そしてこの強化は国家政府に近ければ近いほど、
金融庁に近ければ近いほど、
地方銀行よりも都市銀行の方が強い。

銀行には沢山の支店があり、本社には沢山の本部がある。
銀行内の各部署や行員がバラバラに判断し行動していたのでは、銀行は統制が取れない。
そこで誰かが決めたことはその部下は全員従うという、
「上意下達」「上意の意思は絶対」の、軍隊に似た指示命令系統がある。
支店という組織の中だけでなく、
本部と支店の関係でも支店は本部の指示に従わなければならない。
銀行員は基本的に上司のいうことに従うし、
それが度が過ぎれば自分で考えることを放り出すことにもなる。
「上意下達」「上意の意思は絶対」は制度なので、
運用によって良くも悪くもなる。
上司が上手く運用すれば、同じ釜の飯を食う意識が醸成されもし強い組織を生むが、
下手な上司の場合は、部下はただただ上司の望むような行動だけを強いられる。
下手な上司の元では、往々にして出来る部下と出来の悪い部下に分けられ、
組織は停滞する。
そういう状況になると、「お言葉ですが、支店長」という声を発する者も時に登場するが、
その声が通ったりすることは(あまり)ない。
僕の経験では、以前よりこの統制が強くなっていると思う。

銀行は、毎日毎日大量の取引を「正確に」こなしていかなければならない。
正確さは、銀行が大事にしている信用を裏付ける一つだ。
正確に業務を行うことが銀行に義務付けされているが、
この義務付けを銀行は手続き=マニュアル化で対処している。
マニュアルを定め、マニュアル遵守を強く求め、
マニュアルに違反した行為を原点主義で処分して行く。
どこの業界でもマニュアルはあるはずだが、
銀行のマニュアルは強い特徴を有する。
それは保守的で権威的だ。
保守的については、銀行のマニュアルは二つの特徴的表現で守られている。
一つは「しなければならない」という規定でできている。
そして自由性は「◯◯金額迄認める」という規定で制限される。
権威は、処罰規定や原点主義で補完される。
処罰や原点主義がマニュアルの規定の中に表立って記載されていない場合もあるが、
「しなければならない」規定が行員を拘束する。
更に銀行は合併するたびにマニュアルを強化した。
違う文化で長年運営されていたそれぞれの銀行が、
一つの銀行として運営するためには、
マニュアルで拘束するしかなかった(金融庁からの強い指導もあったと思う)。

ここまでの、保守性と権威、統制と規定性が、銀行員エクリチュールの4要素ではないか。
多くの銀行員がこれらの影響を受けていると思う。
1980年代以降はこの4要素にさらに、
それまでさほどではなかった要素が加わった。
それは業績至上主義に基づく業務運営だ。
業務推進については細かいマニュアルはなくて、
推進部隊のリーダーの裁量に任されている。
支店でいえば支店長の考え方一つで、がむしゃらに営業推進することもあれば、
その時の景気やマーケットを見て運営方針を決める時もあった。
銀行業務というのは、こう言ってはなんだが、
知恵と叡智で他の銀行を凌駕できるようには、できていない。
仮にそういうことがあったとしても、特許のような既得権がないので、
すぐに他行に真似され、結局どの銀行も似た営業行為をすることになる。
似た営業行為で他以上に優れた成果を得るには、
どうしてもがむしゃらな営業行動をするしかなくなる。
ドラマ『半沢直樹』でもこういう行員が描かれている。
ただこの要素に対する、それぞれの行員のビヘイビアはそれぞれ。
猛烈に働き押しの強い人もいれば、それなりに頑張る人、
少し諦めている人の他に、残念なことに心の病気を患う人もいる。
それらはまさにその人のスティルによるものであり、
エクリチュールはほとんどの銀行員にもたらされている。

銀行員はとても忙しい。
マニュアルで決まられた煩雑な事務のボリュームが、半端なく多い。
効率的に仕事をこなしていかないと、直ぐに仕事が停滞する。
能率的に仕事をこなすこと、これが銀行員に強く求められている。
それが「考える」ことにどう影響するかというと、
あれこれ、つべこべ考えることを避け、aならx、bならY、cならZと、
パズルに当てはめるように、
大学入試のセンター試験のマークシートに回答するように、答えを出していこうとする。
そういう思考を「記号的に考える」ということにする。
能率的にこなすために考えることが、いつの間にか、
「記号的に考える」ことに置き換わる。
試験では記号的に考えることは試験対策としてやむを得ないが、
本来的に「お客さんのことをよく知る」ことが求められている銀行員が、
記号的に考えることは、本当のところ具合が悪い。
しかしお客さんのことを考えるというよりも、
お客さんの決算数字という記号を重要視するし、
お客さんのためになるような提案と考えるよりも、
どうしたら銀行の収益につながるのかそのネタは何か、
という風に実態よりも数字やネタという記号が思考の対象になる。
この記号的に考えることが行きすぎると、
記号だけに注目して実態を見なくなり、
記号をどう動かすかということしか考えないようになる。
それは本当の意味で考えることになっていない。
考えるとは、対象の本質を捉えることであり、
本質を捉えるためにはいろんな想像力を駆使しなければならないのだが、
そういう思考ができない人になってしまいかねない。
僕がある時「このままではまずい」と思ったのは、
記号的にしか考えない自分を発見したからだった。

これらが銀行員のエクリチュールだ。
古典的エクリチュールは、保守性、権威、統制と規定性の4つ。
そして現代は、業績至上主義、効率的思考性と記号的思考性が加わった。
銀行OBとして思うのだが、
このエクリチュールは以前より強化されていると、危惧している。
もし現役の銀行員の方がこのブログを読んでくれたなら、
少しでも自分の言語活動にエクリチュールが反映していないか、
チェックしていただけると嬉しく思う。
週末に一人で外食することになり久しぶりに三ノ宮の天麩羅屋に入った。
東京本店の店なので、ごま油が入った熱めの油でカラッと揚げた天麩羅が食べられる。
天麩羅の食材は何と言っても海老だ。
揚げることによって水分が適度に抜けて旨味が凝縮された温かい海老と、
それと出汁ツユを吸ってカリッからわずかにしんなりした天麩羅の衣とを
一度に口の中にほうばる。
すると舌から伝わる旨味と鼻に抜けるごま油と出汁ツユと海老の香ばしさと、
喉を抜ける弾力のある海老と軟らかいが形がまだ感じられる衣の食感が一体となって、
たまらなく美味しい。
海老の天麩羅にはビールがあう。
天麩羅は食材から水分を抜いて舌と鼻と喉を楽しませてくれる料理なので、
たっぷりの水分と舌と鼻と喉越しを楽しませてくれるビールこそ最適なのだ。
ビールの温度も口に当たるグラスの薄さも大事だが、
グラスの形や綺麗に磨かれていることも、
天麩羅が美味しくてビールが美味しいならば欠けてはならない要素だ。
その点、この店は抜かりがなかった。
そういう細やかな気配りもあって、一人だったけれど楽しい食事だった。
そういえば、天麩羅は海外でtempuraというんだよな。

食事を終えてお茶を飲んで少し気を抜いた時に、
先週見た小学校の校長退職のニュースのことが蘇ってきた。
橋下市政によって民間人を小学校校長に登用する制度に
公募し校長になったが3ケ月で退職。
その記者会見をテレビで見た。
彼(千葉貴樹さん)が発する印象的な言葉は、
3ケ月という異例の早さで退職になったことに対して
「不祥事で辞めるわけではないので(児童や保護者に)謝罪するつもりはない」、
それと生徒に対してどう思うかと聞かれ
「申し訳ないという気持ちではなく、残念な気持ち」だった。
でも僕はその言葉と同じくらいに彼の会見をしている時の表情が印象的だった。
悪びれてないことと、
何処にも属していない風でそれでいて個性的でもない表情。
このニュースにはいろんなチグハグがあった。
登用した大阪教育委員会と本人との期待のチグハグ。
「私が力を発揮できる場所とは違う」という会見発言がそれを証明している。
責任を感じるかとマスコミの問いに対し、本人は責任は無いとキッパリ。
「謝罪するつもりはない」という会見発言が証明している。
責任というものの考え方が、マスコミと本人は全く違う。
小学校の校長という仕事の客体は生徒であると考えるマスコミと、
自分が校長になった仕事の客体は、英語力を高めること=仕事の目的、であると。
ここは「残念な気持ち」はそれを表している、と僕は思う。

本人が校長になる前に働いていた証券業界は、成果主体の評価体系だ。
成果は自分が目論んだ株や債権が上がったかどうかにあり、
株や債券に特別な思い入れはない。
株や債権が上がれば「優良」であり、
期待通りでない株や債権は「残念」な株や債券となる。
成果主義が求めている成果とは利益であり、
個々の株や債券は利益をもたらす「材料」という。
この違いををきっちり刷り込んでいる本人は、
英語力向上ができるかいなかが自分の成果判定であり、
その視座に立った時自分が預かった(預かったという気は毛頭無いと思うが)生徒は、
材料として「残念だ」と発言した、と推察する。
言葉の使い方に着目すると、一般に残念という言葉は幅広い意味で使われるが、
本人は「申し訳ないという気持ちはない」と明言していることから、
ここではかなり本来的意味で「残念」という言葉を使った、と推察する。
その子供たちの親にとってみれば飛んでもない発言だと思う。
しかし本人は全く悪びれていない。
会見での本人の表情も悪気を微塵も表してはいない。
そんな会見を嘗て見た、記憶がない。
プロ野球使用ボール未公表によるボール変更会見でのコミッショナーは、
責任はないと言っているがそれでもわずかに引っかかる(少なくとも
この場から早く逃げたいという)表情をしていた。
昔オーム真理教のスポークスマンを務めていた「ああ言えば上祐」と言われた上祐でも
厚顔で人を食った顔はしていたが、
それでもどこか引っかかる(嘘をついている)顔をしていた。
千葉という前校長は全く悪びれていない。
それは今回の彼の決断は、彼にとって理に適ったものだと心底思っているからだろう。
さらに言えば、会見に集まったマスコミの人たちの思いと自分の思いに相違があっても、
気にも止めない性格なり信条なりを持っているからだろう。
そんな本人が退職して一番喜ぶべきはそこの生徒であり親や家族だろう。
この校長に長く無共感状態で学校運営されるより、はるかにマシだ。
そして一番責められるべきは、不用意にこの制度を導入推進した橋下市長である。
そしてこれを機に、考えるべきはこの会見を見た我々市民だと思う。

退職した本人を責めるとするならば、そんな気持ちで校長になったことだろうが、
でもそれは違うのではないか。
会見が「彼の論理」で首尾一貫していたところからみて、
校長採用時にも首尾一貫していたと考えたほうが合理的だ。
つまり本人は最初から「校長になって生徒の英語力を高めたい」と言っていたはずだ。
そしてその目的が成果として現れうるような環境と処遇を期待していた。
ところが大阪市教育委員会は小学校教育において本来何が大切か、
(僕は教育の客体は生徒でありその生徒の心身の育成に責任を感じる(持つと
書きたいところだが、本当に持っている先生がどれだけいるか心許ないので
せめて感じて欲しい)ことだと思う)を問わなかったことから起こったことだ。
本人は校長になってこれは自分の仕事をする場所では無いと理解した。
理解したら態度保留することなく撤退を決断した。
これらの決断と行動はグローバリズムの手本というべきもの。
成果が上がらないところにいてはならない、
決断に躊躇してはいけない、
働くエリアで決断を躊躇させるような関係性を持ってはいけない、
これらを実現できるように前もって契約で詳細を決めておく、
これがグローバリズムだ。
彼はそれを身を持って実行したにすぎない。
そういう意味で、彼は優秀なグローバル人材なのだ。
この会見から僕たちはもっと違うことを考えなければいけないと思う。
グローバリズムとはそういうものだ、ということを理解してもらいたい。
英語力が向上すればグローバル人材になれると考えてはいけない。
英語力はコミュニケーションツールの1手段でしかなくて、
グローバリズムは思考と行動の変革を求めるものだ。
成果という利を中心に考え行動しそして場所を変えることに躊躇しない人材が、
グローバル人材である。
日本のグローバル企業がそういう人材を求めているのは、
それは企業にとってそういう人材が都合がいいからだ。
そういう人材が多ければ人の移動も容易だし給与も成果反映で考えれば済む。
個性的な人材が集まって勝手に経営方針と違うことをワイワイ言われないで済む。
そして経済界から影響を受けた日本の文部省は、
そういう人材の育成を教育の中心に置くという間違った教育指針を立てている。
個性の育成とグローバル人材育成は、本質的にアンマッチである。

どうして天麩羅を食べてこんなことを思ったかというと、
食べ物と個性、個性と非グローバリズムとは関係があるから、だろう。
本当の個性は奥深いところから出てくる。
個性はいろんな社会や共同体の文化や家族や周りの人たちのつながり、
育ったところの環境や風土と本人の性格的傾向性によって形成されていく。
ところがグローバル人材育成は、実は無個性人材の育成だ。
自我と我欲は強いが、本当の個性がなんであるかを教えない。
ところでそこに個性があるかどうかは、食べ物をみればわかる(先週紹介しました)。
天麩羅は個性的な食べ物だ。
フリッターに近いが、違う。
天麩羅は水分の抜け具合が最高状態である時に、
油から引き上げる技がなければならない。
それは短時間の勝負だが、衣の出来や油の温度に左右され
その関係性を熟知したものだけが、熟練という努力によって手にいれられるもの。
そして醤油やビールのような、
できるまでに時間がかかるスローフードと一体となることによって、
短時間でできた天麩羅はさらに美味しさを増す。
この個性的な食べ物が、世界の人々の味覚を刺激し多くの国に天麩羅は広がっている。
でも天麩羅はグローバリズムなんかではない。
個性的で美味しいから世界中に「展開」しているのだ。
いいものは普遍的に共感するわけだ。
無個性は共感を呼ばない。
無個性を勧めるグローバリズムは共感を呼ばない。
個性的な食を愛する社会を取り戻す方が、
グローバリズム批判を展開するよりも早道かもしれない、
そう僕は天麩羅屋で思ったのだ。

グローバリズムは、企業が生成消滅を繰り返す世界で思想的に大きくなった。
グローバリズムとは目先の利益が全てである一方で、
企業が長く存続したり同じ仕事を長くやることは、考慮の外にある。
自分が利をあげるためには他者を犠牲にするし、
周りの社会資本を積極的に消耗することで、自分の利を増やそうとする。
ところが国家は生成消滅を前提にしないし、
(実現するかはわからないが)永遠に存続することがのぞまれている。
国家存続(そこに住む国民も世代が変わってもずっといる)と
グローバリズムは本来あわない。
前校長を思い出して、グローバリズムやグローバル人材とは
食わせ物あるいは眉唾ものだ、と多くの市民に考えていただきたい。
グローバリズムは一部の勝者や成功者のための思想であって、
一般市民や国民のための思想ではない。
誰もが成功を望んでいる、という机上の仮説を設定したとしても、
万人が揃って成功者になることはない。これは必然だ。
増して、成功を多くのお金を得ることと決めつけたら、
成功者は絶対一握りの人々に限られる。
万人がなれないものを「願えば叶えられる」というような
耳触りの良いキャッチフレーズで、
グローバリズムの実態を知らない人たちを洗脳するのはやめてもらいたい。
一万歩譲っていうと、
グローバリズムで出来上がった教育施設があって、その施設に自己責任
(子を育てる立場の親にそんな自分には直接波及しない自己責任があるのかとも
思ったりするが)で子供を預けることはあっても良いと思う。
しかしそれは公的教育期間であってはならないと思う。
あくまで私的期間として独立的に教育するならば、
一部のグローバル社会で成功を望む人たちが勝手にやれば良い。