お盆が近いせいなのか、TVのバラエティ番組で、
お墓に関する街角アンケートを、妙齢のご婦人を対象にやっていた。
アンケートのテーマは、「貴方が死んだら、ご主人と同じお墓に
入りますか?それとも別のお墓に入りますか?」だった。
同じ墓に入ると答える人、別の墓を望む人、その比率は、
よく覚えていないけれど、まずまず五分五分だったと思う。
別のお墓を望む理由は、死んでまで一緒に暮らしたくない、
夫と一緒は生きている時だけで十分、がほとんどだった。
世間で漏れ聞こえる夫婦の仲から類推すると、
だいたいこういうことになるんだろうなと納得して、テレビを消した。
でもテレビを消した後でも、興味が続いた。
何に興味があったかというと、こういうことだ。
「アンケートに答えた人の中には無神論の人もいるだろうに、
お墓に入ることは当然のことと思っているのかなあ?」
「みんなお墓に入ることを、夫と一緒は嫌だとか、
生きている今の延長線上にあることのように考えているけれど、
(納得してしまった僕もその一人だけど)
お墓とはそういうものなのか?」
お墓とは、本来、何?
お墓は、もちろん、死人が葬られている場所をさす。
であるなら、お墓を考える前に、死人を葬るという行為について、考える必要がある。
約1万年ぐらい前には、
ーある特定の場所に人骨が集合して綺麗に並べられていることからー、
その頃には死人は埋葬されていたと推定されている。
その頃に墓はあったかどうかわからないが、
人類は大昔から、埋葬という行為を行っていたことになる。
死人を葬る霊長類は、人類以外にいない。
例えば猿は、死んだ小猿を母猿が手放さず、
ずっと抱えている姿が時々紹介されるように、死人を埋葬などしない。
ところが人類は、死人と一緒に生活していると何らかの「不都合」を、感じた。
そういうと現代人は、衛生のために埋葬したと主張する人がいるかもしれないが、
1万年前の世界は家も電気もない世界、生き物の死骸も糞も混在している世界、
医学的配慮もなく、当然衛生という概念も無い世界だ。
衛生的配慮で埋葬したとは、とても考えられない。
だから現代人が考えるような衛生的理由ではない別の理由で、
死人を自分たちの世界と切り離すために、
自分たちが死人を見えないところに置くために、埋葬した。
何故死人を埋葬するのか、逆説的に聞こえるかもしれないが、
「死人は埋葬することで死者になった」となるのではないか。
「死人と一緒に生活していると何らかの不都合」とは、
埋葬された死者のお腹に、大きな石が載せられている白骨遺体が
沢山発見されていること(それは死者が土中から復活できないようにしたためと
考えられている)も考慮すると、
死人の魂魄であり、息遣いであり、切迫であったと思われる。
生きている人々の中に死人がいたのでは、
死人の魂魄や息遣いによって切迫され、
生活がままならない方向に歪んでしまうために、
死人を埋葬し死者としたのだ。
死人を埋葬しただけでは、墓はできない。
墓であれ、塚であれ、古墳であれ、これらに共通することは、標である。
埋葬した場所を明らかにしておくために墓ができた、となる。
死人を自分たちと切り離すだけなら、埋葬で十分のはずだ。
ところが、それではまだ「不都合」だったから、
どこに埋葬したかわかるように、標をつけた。
標の理由はそこに訪れるため、以外には考えられない。
お宝を土の中に隠したら、後でそこがわかるように子供でもそこに標をつけるように、だ。
人類は、再び死者のところを訪れるために、標を残した。
それが墓の起源と考えられる。
死者に「何か」があると感じたからだ。
死者は生きている人たちと離されるけれど、
何かが残ると感じていた。
その何かを感じとるために、
時々死者の処にいかないと不都合があり、
その不都合を取り除くために、
死者の場所を訪れるために墓を作った。
死者の祟りを恐れ、死者に護られていると感じること、
そして死者と生者は墓の場所で魂のコミュニケートを行った。
このコミュニケートが鎮魂である。
そして死者は生者と分けられながらも、
時々同一の場所に集合するということは、
別々にいながらも「同時に生きている」という共生の感性を生んでいった。
これらの感性は、これを霊性と言って良いと思うが、
葬礼と、死者の魂を安らげる鎮魂の儀礼を作るようになり、
文化を形成し、宗教が生まれ、文明を築いてきた、と言えないだろうか。
生まれ育った場所の習慣等によって、お墓の扱いは変わっているだろうが、
過去から変わらず現代でも、お墓は死者の魂を感じる場所だ。
生きている我々が、人類誕生以来脈々と受け継いできた霊性を、
再びその感度を取り戻し、邪悪な思いを抑え、
そして儀礼を通して、安らかに生きていくことを再確認する場所、
それがお墓だ。
人類は死人を死者として分かつことで、
他の霊長類と決定的に別の道を歩んできた。
一方で、人類は同類を殺すという行為を平気で行う。
他の霊長類では、遺伝的優勢を確保する以外には、同類を殺さない。
殺すという行為はほとんど人類にしか適用されず、
殺すことも人類と他の霊長類を分けている。
しかも殺す理由は、無分別なほど多様であるために、
殺人が際限無く行われる危険性をはらんでいる。
つまり、殺人を行う人類は、とても邪悪な霊長類だ。
その邪悪な人類が、途中に滅びることも無く今日まで生きてこれたのは、
ー戦争を際限無く繰り返しそれでも滅亡せずにこれたのはー、
殺人を邪悪な行為であるという「抑制する思い」の方が強かったから、
と考えられるのではないか。
他者とコミュニケートし、折り合おうとする意思が、
邪悪な思いよりも強かったから、
人類は生き延びてきたと言えるのではないか。
このコミュニケートと折りあいの原点が、
鎮魂であり共生ではないだろうか。
この考えのオリジナルは、レヴィナス氏にある。
僕はレヴィナス氏の考えを十分汲み取れておらず、
もしかしたら歪曲させている可能性は否定できないけれども、
(特にお墓のところは、そう)
僕自身の思いも加えるとこういう展開になる。
宗教が巷間に語られない時代、になった。
あの世があるのかないのか、
無神論が正しいのかそうではないのか、
議論は錯綜し、とても一つの答えになりそうもない。
でも、お墓を題材にして人類の歴史を遡ってみれば、
霊性が人類が他の霊長類と分かつものだ。
現代は科学万能時代だけれど、
人類の歴史において、現代は一瞬のひらめきにすぎない。
たった一瞬のひらめきをすべてであると考えて、
人類が人類たらしめてきた霊性を、
迷信であるとあざ笑うことは、できないのではないか。
そういう思いを持って、お墓参りをしよう。
だから今回墓前では、今まで以上に死者との対話を試みた。
僕もいずれ死んだら、生者と別の場所に分けられる必要がある。
それはどこが良いのか、少し考えて行こうと思う。
そして、妻も同じように考えてもらうようにしよう。
その時には、今の延長戦で考えるのではなくて、
死んだ後に生きて残る人たちとどういう霊的関わりをするのかを中心に、
考えることになるだろう。
お墓に関する街角アンケートを、妙齢のご婦人を対象にやっていた。
アンケートのテーマは、「貴方が死んだら、ご主人と同じお墓に
入りますか?それとも別のお墓に入りますか?」だった。
同じ墓に入ると答える人、別の墓を望む人、その比率は、
よく覚えていないけれど、まずまず五分五分だったと思う。
別のお墓を望む理由は、死んでまで一緒に暮らしたくない、
夫と一緒は生きている時だけで十分、がほとんどだった。
世間で漏れ聞こえる夫婦の仲から類推すると、
だいたいこういうことになるんだろうなと納得して、テレビを消した。
でもテレビを消した後でも、興味が続いた。
何に興味があったかというと、こういうことだ。
「アンケートに答えた人の中には無神論の人もいるだろうに、
お墓に入ることは当然のことと思っているのかなあ?」
「みんなお墓に入ることを、夫と一緒は嫌だとか、
生きている今の延長線上にあることのように考えているけれど、
(納得してしまった僕もその一人だけど)
お墓とはそういうものなのか?」
お墓とは、本来、何?
お墓は、もちろん、死人が葬られている場所をさす。
であるなら、お墓を考える前に、死人を葬るという行為について、考える必要がある。
約1万年ぐらい前には、
ーある特定の場所に人骨が集合して綺麗に並べられていることからー、
その頃には死人は埋葬されていたと推定されている。
その頃に墓はあったかどうかわからないが、
人類は大昔から、埋葬という行為を行っていたことになる。
死人を葬る霊長類は、人類以外にいない。
例えば猿は、死んだ小猿を母猿が手放さず、
ずっと抱えている姿が時々紹介されるように、死人を埋葬などしない。
ところが人類は、死人と一緒に生活していると何らかの「不都合」を、感じた。
そういうと現代人は、衛生のために埋葬したと主張する人がいるかもしれないが、
1万年前の世界は家も電気もない世界、生き物の死骸も糞も混在している世界、
医学的配慮もなく、当然衛生という概念も無い世界だ。
衛生的配慮で埋葬したとは、とても考えられない。
だから現代人が考えるような衛生的理由ではない別の理由で、
死人を自分たちの世界と切り離すために、
自分たちが死人を見えないところに置くために、埋葬した。
何故死人を埋葬するのか、逆説的に聞こえるかもしれないが、
「死人は埋葬することで死者になった」となるのではないか。
「死人と一緒に生活していると何らかの不都合」とは、
埋葬された死者のお腹に、大きな石が載せられている白骨遺体が
沢山発見されていること(それは死者が土中から復活できないようにしたためと
考えられている)も考慮すると、
死人の魂魄であり、息遣いであり、切迫であったと思われる。
生きている人々の中に死人がいたのでは、
死人の魂魄や息遣いによって切迫され、
生活がままならない方向に歪んでしまうために、
死人を埋葬し死者としたのだ。
死人を埋葬しただけでは、墓はできない。
墓であれ、塚であれ、古墳であれ、これらに共通することは、標である。
埋葬した場所を明らかにしておくために墓ができた、となる。
死人を自分たちと切り離すだけなら、埋葬で十分のはずだ。
ところが、それではまだ「不都合」だったから、
どこに埋葬したかわかるように、標をつけた。
標の理由はそこに訪れるため、以外には考えられない。
お宝を土の中に隠したら、後でそこがわかるように子供でもそこに標をつけるように、だ。
人類は、再び死者のところを訪れるために、標を残した。
それが墓の起源と考えられる。
死者に「何か」があると感じたからだ。
死者は生きている人たちと離されるけれど、
何かが残ると感じていた。
その何かを感じとるために、
時々死者の処にいかないと不都合があり、
その不都合を取り除くために、
死者の場所を訪れるために墓を作った。
死者の祟りを恐れ、死者に護られていると感じること、
そして死者と生者は墓の場所で魂のコミュニケートを行った。
このコミュニケートが鎮魂である。
そして死者は生者と分けられながらも、
時々同一の場所に集合するということは、
別々にいながらも「同時に生きている」という共生の感性を生んでいった。
これらの感性は、これを霊性と言って良いと思うが、
葬礼と、死者の魂を安らげる鎮魂の儀礼を作るようになり、
文化を形成し、宗教が生まれ、文明を築いてきた、と言えないだろうか。
生まれ育った場所の習慣等によって、お墓の扱いは変わっているだろうが、
過去から変わらず現代でも、お墓は死者の魂を感じる場所だ。
生きている我々が、人類誕生以来脈々と受け継いできた霊性を、
再びその感度を取り戻し、邪悪な思いを抑え、
そして儀礼を通して、安らかに生きていくことを再確認する場所、
それがお墓だ。
人類は死人を死者として分かつことで、
他の霊長類と決定的に別の道を歩んできた。
一方で、人類は同類を殺すという行為を平気で行う。
他の霊長類では、遺伝的優勢を確保する以外には、同類を殺さない。
殺すという行為はほとんど人類にしか適用されず、
殺すことも人類と他の霊長類を分けている。
しかも殺す理由は、無分別なほど多様であるために、
殺人が際限無く行われる危険性をはらんでいる。
つまり、殺人を行う人類は、とても邪悪な霊長類だ。
その邪悪な人類が、途中に滅びることも無く今日まで生きてこれたのは、
ー戦争を際限無く繰り返しそれでも滅亡せずにこれたのはー、
殺人を邪悪な行為であるという「抑制する思い」の方が強かったから、
と考えられるのではないか。
他者とコミュニケートし、折り合おうとする意思が、
邪悪な思いよりも強かったから、
人類は生き延びてきたと言えるのではないか。
このコミュニケートと折りあいの原点が、
鎮魂であり共生ではないだろうか。
この考えのオリジナルは、レヴィナス氏にある。
僕はレヴィナス氏の考えを十分汲み取れておらず、
もしかしたら歪曲させている可能性は否定できないけれども、
(特にお墓のところは、そう)
僕自身の思いも加えるとこういう展開になる。
宗教が巷間に語られない時代、になった。
あの世があるのかないのか、
無神論が正しいのかそうではないのか、
議論は錯綜し、とても一つの答えになりそうもない。
でも、お墓を題材にして人類の歴史を遡ってみれば、
霊性が人類が他の霊長類と分かつものだ。
現代は科学万能時代だけれど、
人類の歴史において、現代は一瞬のひらめきにすぎない。
たった一瞬のひらめきをすべてであると考えて、
人類が人類たらしめてきた霊性を、
迷信であるとあざ笑うことは、できないのではないか。
そういう思いを持って、お墓参りをしよう。
だから今回墓前では、今まで以上に死者との対話を試みた。
僕もいずれ死んだら、生者と別の場所に分けられる必要がある。
それはどこが良いのか、少し考えて行こうと思う。
そして、妻も同じように考えてもらうようにしよう。
その時には、今の延長戦で考えるのではなくて、
死んだ後に生きて残る人たちとどういう霊的関わりをするのかを中心に、
考えることになるだろう。