来週には、2020年のオリンピック開催地が決まり、
東京が選ばれる可能性もある。
日本政府は、オリンピック招致に積極的だ。
オリンピック開催は、簡単に言ってしまうと、国威の発揚になる。
大多数の国民もオリンピック招致に賛成するので、
政権維持のためにもオリンピック招致はプラスに作用する。
マスメディアも、オリンピックが東京に決まることを全面的に支持している。
オリンピックが東京で開催されたら、オリンピック開催期間だけでなく、
開催前から国民の関心が高まり、
テレビ視聴率も上がり、新聞も雑誌も売り上げを伸ばすだろう。
マスメディアが東京開催を支持することは、
マスメディアの経営に良い効果をもたらすので、
経済的合理性はある。

しかし、金銭面でみると、オリンピック開催における利益享受者と、
吐き出し者は、はっきり区分されている。
開催都市と開催国は、オリンピック開催のために、
途方もない金額の、出資分は回収できないことを覚悟の上で、
出費をするから、利益吐き出し者だ。
その赤字額は、結局のところ回り回って国民の税金で贖われるので、
最終的な利益吐き出し者は国民であり、
それも2020年以降に納税義務者となっているだろう国民に、
多大な負担を負わせることになる。
今の政府は、将来の国民の負担から目を逸らし、
お金を使うことに本当に一生懸命だ。
それは、来年度予算が100兆円に迫る数字にも、ビヘイビアが現れている。
(衆議院戦、参議院戦で自民党を支持したいろんな業界団体から、
国の予算支出を要請されているのだろう。)
一方、利益享受者は、先に出たマスメディアがそうであり、
それからオリンピック協賛企業と
協賛企業から協賛金を受け取る国際オリンピック連盟IOCである。
オリンピック協賛企業は、オリンピックが全世界に放送されることで、
その知名度とイメージが浸透し、
自社商品が世界的に売れることを目論んでいる企業である。
つまり、オリンピック協賛企業は、体質も思考も、グローバル企業なのだ。
現代のオリンピックは、
このオリンピック協賛企業というグローバル企業の思惑が、
オリンピック開催に影響しているだろうと、
僕は、何も証拠はないけれども、推定する。
彼らはソロバン勘定をしっかり計算して、
IOC等に自分たちにとって有利になるように、ロビー活動を行う。
そういう目線で、今回の開催都市を事前に占うことができる。
オリンピックを遍く世界に広めていくというオリンピック精神が強く作用すれば、
マドリード、イスタンブール、東京の中では、
一度も開催国になったことがないトルコ・イスタンブールがやや優勢のように思える。
でもオリンピック協賛企業の思惑が作用すれば、
別の計算がなされる。
マドリード、イスタンブール、東京はどれをとっても
彼らにとって新しいマーケットを創造する効果は、
例えば北京オリンピックにおける中国マーケット開拓効果に比べると、期待薄だ。
でも人々が、自由時間が多い夕方から夜にかけて、テレビが観れるエリアを考えると、
成熟しきった欧州とアフリカを抱えるマドリード、
中東のお金持ちと旧ソビエト連邦独立国家からインドを抱えるイスタンブール、
パキスタン以東からフィリピンまでのアセアン、巨大マーケット中国とオセアニアを抱える東京、
を比べると、
消費力旺盛なエリアを抱える東京が、優れているように思える。
又グローバル企業は、開催国の中で一番お金を出して
オリンピックを盛大に盛り上げてくれる国に、
魅力を持つだろう。
スペイン、トルコ、日本だと、
日本が一番お金を出しそうだ。
IOCはその精神性を捨てたわけではないだろうが、
グローバル企業の戦略はその精神性を凌駕してしまっている。
グローバル企業のふたつの計算からすると、東京が選ばれる、と僕は予想する。

しかし、東京にはとても大きなハンディを抱えている。
それは、福島原発の汚染水漏洩並びに放射能漏れ問題だ。
この問題の重大さを、日本は軽く考えている、と思う。
その中で、今まで原発問題の対応を東京電力に任せていた日本政府も、
ようやく思い腰を上げて政府が主体的に対応する姿勢をみせた。
しかしその一方でマスメディアは、
この問題をあえて避けていて、
この汚染水問題を真剣に追求するする気がないように思える。
それは、原発事故に対してマスメディアも日本国民も関心が薄れていることもあるけれど、
オリンピック開催地の選挙を前にして、
自国開催のマイナス面を記事にすることを控える意図があるのかもしれない。
僕は、開催都市選挙対策として今の時期の原発事故問題を控える行動を、
あえて非難する気はないのだが、
日本全体が原発事故問題に麻痺し無関心であることは、
オリンピックを東京に開催しようと思うならば、許されないと考える。
原発事故は福島県民や近県のかたがたに大変なご苦労をかけていることは言を待たないが、
未だに汚染水漏洩問題があり、その汚染水を公海に垂れ流していては、
地球人民に対し日本は責任を負わねばならない立場にある。
オリンピックを招致する以上、この点はしっかり意識してもらいたい。
もし東京が選ばれない時は、
原発対応が悪い日本にオリンピック開催を委ねる決定をしたら、
IOCは世界中から厳しく非難されるだろうと判断した、と考えるべきだ。

オリンピックはお祭りだし、
「より早く、より高く、より強く」のオリンピックモットーと、
鍛えた身体でそのモットーを実行する選手たちが、
人々をワクワクさせる。
僕だって一個人としては、
オリンピック開催中には(健康で生きていれば、だが)幾つかの競技を是非会場で見たい、
と思うだろう。
しかし繰り返すが、それは原発汚染水問題の目処が立っていてこそだ。
祭りの価値は、開催中の祝祭的な場面における観客動員数ではなく、
事前準備や後片付けを黙々と担う仕事のていねいさによって決まる。
歴史ある日本の祭りを見てもーー東京の神田明神の神輿祭りでも
京都の祇園祭でもーー開催期間中の盛り上がりもさることながら、
その見事さは祭り前の周到な準備と、終わった後の鮮やかな片付け仕事にある。
祭りは、その祝祭行事と非祝祭的片付けがセットになっているのだ。
もちろん、非祝祭的片付けの中には、
開催期間中に日本にやってくる選手並びに応援者の安全と、
オリンピックが終えた後の日本国民の税務的負担も含まれる。
政府もマスメディアも、この二つをしっかり並べて、
国民の前に示す義務がある。


前回の「鎮魂も共生の誓いもない、不思議な追悼の言葉」の中で、
安倍首相のことを、「過去を否定できず、自分並びに仲間の過ちを認めず、
現実をクールに見ることもできず、
原点に立ち戻って鳥瞰することもできず、
近隣諸国や他国の意見と調整することもできず、
今ある論理の中でしか考えられない、閉ざされた思考。
それは、周りの状況が歴史的、地理的にどんなに変わっても、
自らイノベーションを行うことができない、ということだ。
ただただ、大きな失敗(戦前は国家の滅亡寸前までいった)に流されていくしか
方法を持たなかった戦前の政治、軍部の中心と同じ轍を踏みかねない人を、
我々はトップに据えている怖さ、である。」と書いた。
でも改めて考えると、ここに書いた思考性の多くは平均的日本人の思考性と
何ら変わらないのではないか、と思えてきた。
特にイノベーションについて言ってしまえば、
「日本人は、自分たちの沈滞化している社会を、
みずからの力でイノベートすることなど、期待できない」、
と思わざるを得ないのではないか。
今回はそんな諦観めいたことを、イノベーションから書いてみたい。

イノベーションは、オーストリアの経済学者であるシュンペーターがを創造した。
概ね「均衡状態はイノベーションによって不断にシフトしており、
イノベーションが加わらないと市場経済は均衡状態に陥ってゆく。
均衡では企業者利潤は消滅し利子もまたゼロになり沈滞する。
企業者は、つねに創造的な破壊をし続けなければ生き残れない。」
という理論である。
僕は始めてこの理論に接した時、
実のところその理論を十分汲み取れていなかったものの、
正面から突風がきて体がよろめくような衝撃と、格好良さを感じたものだ。
イノベーションとは、「新結合」のこと。
結合という言葉に、どことなく生物的響きがあると僕は感じた。
それまでの経済理論は前提条件付論理の組立でできていて、
理論的ではあるけれど、生態的動性を持つ現実の経済を解決できないのではないかと
思っていた僕に、イノベーションは僕に可能性を感じさてくれた。
一方で、今はシュンペーターの理論に不満がある。
シュンペーターは、イノベーションを5つの分類で示した。
新しい財貨の生産
新しい生産方法の導入
新しい販売先の開拓
新しい仕入先の獲得
新しい組織の実現(独占の形成やその打破)
つまり、イノベーションの内容を類型化、パッケージ化した。
これにより、イノベーションは類型化という均衡を被った。
均衡状態を不断にシフトさせるものがイノベーションなのであって、
イノベーションは本来均衡の外にあるものだ。
ところが、類型は既成の概念があることで形作られるものなので、
類型そのものが既成の均衡の中にある。
そのイノベーションが類型均衡を持ってしまえば、
いずれ均衡状態からのシフトそのものが均衡状態に陥り、
沈滞するというジレンマに陥ってしまうことになる。
イノベーションをわかりやすく説明しようとしたことで、
イノベーションの可能性に枠をかけてしまった。

日本では、イノベーションを技術革新という言葉に収斂され、
シュンペーター理論よりも更に、限定的に類型化されてしまった。
その結果、日本は技術立国と言われ圧倒的力技術力を持ったものの、
新しい技術は前の技術の「サブ化」でしかなく、
技術革新の罠というか、ループに入り込んでしまい、沈滞した。

日本は、何と言っても均質社会なのだ。
均質社会は、その社会と異なる「変わり者」を忌避し排除するエネルギーを持つ。
ところがイノベーションは、その本質からお分かりのように、
変わり者がその創造者になる可能性が高い。
日本人は同じ同類の中からイノベーションという果実を受け取る前に、
その創造の可能性を持つ変わり者を排除してしまう。
そういう日本社会では、イノベーションを起こす最初の原理も技術も商品も起こりにくい。

一方で、日本人は新し物好きである。
最初はしっくりこない新しいものであっても、
自分達の感性に馴染むように改良して使うことが得意だ。
類型化し、単純にし、幼児化する、時には他の何かの「もどき」化する。
この得意技は、サブカルチャーのように、「サブ化」する時には、
世界が真似できないほどの力を発揮するが、
一方それは、新しいものの本質を骨抜きにするという技も内在している。
新しいものを日本化し、取り込んでいくというのが
日本の方法なのだ。
なぜこんな方法を持っているのかというと、
日本は均質社会だから、というのが僕の考え。
均質社会は、みんなが「あまねく知っている」ということに、
(最近は、みんなが知らない(学ばない)ということに安心感を有するという、
逆さ現象が20代以降の若い世代に広がっているらしい)、
安心感を持つ。
あまねく知らしめるためには、
類型化し、単純にし、幼児化し(馴染みやすいネームをつける、など)、
もどき化(~のようなもの)し、わかりやすくすることに努力を惜しまない。
忘れてならないことだが、日本のエネルギーは、
この均質性を構成する、みんなで協力してことに当たることが得意、
というところにある。個で勝負して勝てる日本人など一握りしかいない。
日本人のエネルギーは、均質性を維持することが生命線なのだ。
つまりは、日本のイノベーションは、
日本人自ら創造することは不得手だけれども、
外から来たものを日本化することで取り込みいつのまにかシフトしていたというのが、
日本が日本という社会を沈滞させないほとんど唯一の方法、ということになる。

だから、バブル崩壊後の停滞から日本を脱出させるために、
外国から新しいイノベーションを持ち込むしかない、
と多くの人が考えたことは、僕も理解しているつもりだ。
だが、そのイノベーションとはグローバリズムだった。それが問題だった。
グローバリズムの本質は、揺るぎない優勝劣敗原則であり、
相互互助の排除と社会資本の食い潰しだった。
小泉首相時代に竹中平蔵主導によって導入されたグローバリズムは、
日本社会を活性化するどころか、沈滞を加速した。
理由は、日本の均質社会になじまず、社会を階層化させ、
多くの日本人からエネルギーを奪ったからである。
でも、グローバリズムを推進することで利益を享受する一部の人たちがいるものだから、
そしてその人たちは政治やマスメディアを操縦できる立場にあるものだから、
日本社会になじまないグローバリズムを、
毎日のようにテレビや新聞で喧伝し、グローバリズムに抵抗しない日本人に染め上げている。
かくて、日本人はますます沈滞し自身を失っていく。

日本の沈滞をグローバリズムだけに求めるつもりはない。
資本主義は、そもそも「格差」を活用して発展してきた。
格差は、時にエネルギーであり、産業であり、
情報であり、未開の国々であり、金融システムだった。
しかし、新興国も資本主義化した結果、地球上には資本主義を発展させるほどの
格差がなくなりつつある。
格差とは、規模や技術が集約された高度なシステムと、
低開発、未開発のエリアとの差のこと。
低開発、未開発エリアは、フロンティアと呼ぶ。
地球上にフロンティアはまだまだあるが、
投資対効果の計算が成り立たないエリアがほとんど。
つまり、地球上に資本主義に益をもたらすフロンティアが少なくなったことが、
世界レベルで資本主義が停滞している原因である。
一方今話題のTPPは、貿易障壁を外すことで、
新たなフロンティアを作ることが目的だ。

行きすぎた資本主義が沈滞をもたらしたことにも言及しておこう。
生きることは変化することである。
変化しなければ生きることができない。
資本主義が長く続いているのは、
変化の速度を加速することでシステムが安定していたからである。
主役となる業種が、原料エネルギー、製造業、商業、金融、通信、
そしてコンピューターから又次の業界と変遷することで、
資本主義は維持され発展してきた。
確かにそれによって、創造的破壊が繰り返されてきた。
ところが今では変化の速度が早すぎて、
変化の仕方を変化させることまで手が回らなくなってきた。
つまり、変化の仕方が類型化してきた。
変化は同一性を持つようになり、資本主義もついには停滞のつぼに入ってきたようだ。

日本は今までは多くの人々が中産階級を形成していたが、
格差社会化が進み人々の不満が溜まっている。
このままいくと、沈滞が進み社会に不満が溜まり、制御できなくなる恐れが出てくる。
そうなっては困るから、「日本は素晴らしい国、日本は美しい。
日本人は礼儀正しく、間違ったことはしない」と言い続けることになる。
その見返りは、隣国とのギクシャクした関係の種となった。
今、日本人は現実社会の沈滞がもたらす自信喪失と、
いや日本は素晴らしいのだと自分を思い込ませることで
自信を保とうとすることに一生懸命なのだ。
現実を現実として見ない風潮が益々強まっていく。
そして、均質に戻ろうという力が、
素晴らしい国・日本にまとまっていったならば、
もう誰も冒頭の安倍首相の言葉に違和を訴える人もいなくなって、
日本人は束になって素晴らしい国・日本を唱和するようになるだろう。
でもその時の社会は、階層化が進み、
一握りの富裕層と大多数の貧者による停滞が蔓延している、となっている。

悲観的な予想だが、こうなる可能性がある。
でもこんな社会がくることを望んではいないので、
僕なりに、それは微力であることは間違いないのだが、
努力をしていこうと思う。
日本人だって、イノベーションの可能性はゼロではない。
もちろん、勝負はまだ終わっていない!、と思って日夜新しい
発見や発明に取り組んでいらっしゃる技術者も科学者もいらっしゃる、
と思うし、僕自身もそういう方々の努力に敬意を持っている。
iPS細胞の山中教授のような人が、たくさん出てくることを願っている。
変わった人が生きていける方法も、見つけたいと思う。
日本に新たな結合を起こさせること、
新たな生命力を吹き込む方法を見つけたいと思う。
今年も戦没者追悼式が、8月15日に日本武道館で行われた。
その追悼式で安倍首相が述べたことと、天皇陛下が述べられたことに、差が感じられた。
どちらも短い言葉なので、その違いははっきりと明示されているわけではない。
でも比べてみると、違いがおぼろげながら見え、
繰り返して読むと、全く意図するところが違うことがわかると思う。
式では、先に首相が述べ、その後黙祷をしてから、天皇陛下が述べられているが、
天皇陛下からご紹介する。

天皇陛下のお言葉。
「本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、
全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、
かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、
深い悲しみを新たにいたします。
終戦以来既に68年、国民のたゆみない努力により、
今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、
苦難に満ちた往時をしのぶとき、
感慨は今なお尽きることがありません。
ここに歴史を顧み、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、
全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、
心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。」

安倍首相の言葉。
「天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、戦没者の御遺族、各界代表多数の御列席を得て、
全国戦没者追悼式を、ここに挙行致します。
祖国を思い、家族を案じつつ、戦場に倒れられた御霊(みたま)、
戦禍に遭われ、あるいは戦後、遠い異郷に亡くなられた御霊の御前に、
政府を代表し、式辞を申し述べます。
いとしい我が子や妻を思い、残していく父、母に幸多かれ、
ふるさとの山河よ、緑なせと念じつつ、貴い命を捧(ささ)げられた、
あなた方の犠牲の上に、いま、私たちが享受する平和と、繁栄があります。
そのことを、片時たりとも忘れません。
御霊を悼んで平安を祈り、感謝を捧げるに、言葉は無力なれば、
いまは来し方を思い、しばし瞑目(めいもく)し、
静かに頭(こうべ)を垂れたいと思います。
戦後わが国は、自由、民主主義を尊び、
ひたすらに平和の道を邁進(まいしん)してまいりました。
今日よりも明日、世界をより良い場に変えるため、
戦後間もない頃から、各国・各地域に、支援の手を差し伸べてまいりました。
内にあっては、経済社会の変化、天変地異がもたらした危機を、
幾たびか、互いに助け合い、乗り越えて、今日に至りました。
私たちは、歴史に対して謙虚に向き合い、学ぶべき教訓を深く胸に刻みつつ、
希望に満ちた、国の未来を切り拓(ひら)いてまいります。
世界の恒久平和に、能(あた)うる限り貢献し、
万人が、心豊かに暮らせる世を実現するよう、全力を尽くしてまいります。
終わりにいま一度、戦没者の御霊に平安を、
御遺族の皆様には、御健勝をお祈りし、式辞といたします。」

この二人の言葉のうち、どちらに共感しますか?と聞かれたなら、
僕は迷わず天皇陛下のお言葉を挙げる。
理由は、前回のブログ「お墓参りと霊性の自覚」でも触れたが、
死者の御霊の前で、生きている我々がすることは、
死者の御霊の鎮魂と、死者との共生を誓うことにあるからだ。
鎮魂とは、死者の思いを偲ぶことであり、
死者の声なき声を聞き取ることである。
共生を誓うとは、死者の死を教訓の糧にして、
死者が生きていたら望むであろう生き方を生き、
死者が望まない生き方(それがために死んだ)を回避することを、
誓うことである。
天皇陛下のお言葉の中の、
「かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、
深い悲しみを新たにいたします。」が鎮魂の言葉。
「歴史を顧み、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、
全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、
心から追悼の意を表し」は共生の誓いとなる。
一方、安倍首相の言葉の中に鎮魂と共生の言葉を探しても、
どこにも・・・・・ない。
そこにあるのは、戦没者の美化、それも一般人への思いは少なく、
戦場で亡くなった御霊の美化である。
さらには、戦後進めてきた政治を肯定し、邁進して行くとの意思が
述べられている。
「私たちは、歴史に対して謙虚に向き合い、学ぶべき教訓を深く胸に刻みつつ、」
と反省している風を装っているが、礼節の言葉を並べただけで、
何に向きあい、何を教訓とするのか明らかにしていない。
これでは、反省の弁とは言えない。

どうして、似たような言葉が使われているのにもかかわらず、
述べていることがこれほど違うのか?
というよりも、戦没追悼式で述べる言葉として聞くなら、
天皇陛下のお言葉が正当であるのに対し、
安倍首相は別の「何らかの意思を持って」述べているのだろう、と僕は考える。
首相の思いは、勿論わからないが、幾つかの推測はできる。

まず死者を美化しているところが、とても気になる。
首相の原稿も元は官僚が作ったものを、自分なりに手を入れたものだろう。
別の首相の言葉と比較すると、わかりやすい。
菅直人が同じ立場で2011年に追悼している言葉は、
「終戦から66年が過ぎ去りました。
あの苛烈を極めた戦いの中で、三百万余の方々が祖国を思い、
家族を案じつつ戦場に倒れ、戦火に遭われ、
あるいは戦後、異郷の地になくなりました。
戦没者の方々の無念を思うとき、今なお悲痛の思いがこみ上げてきます。
改めて心からご冥福をお祈りいたします。
また、最愛の肉親を失った悲しみに耐え、
苦難を乗り越えてこられたご遺族に深く敬意を表します。」となっている。
昨年の野田首相もほぼ同内容なので、
阿部首相の美化は、突出している。

時の政治の長が、死者を美化する時は、
日本の歴史を振り返ると、別の意図がある場合が多い。
それは梅原猛氏の多くの著書にも記され、
井沢元彦氏の逆説の日本史シリーズにも期されていることだが、
死者の美化は、その死をもたらした人の立場を守り正当化するために、使われる。
首相の場合は、戦争を始めた人、当時の政府と軍人を指すが、
戦没者を美化することで、そういう人たちの判断や行為を正当化しようとしているのではないか。
安倍首相の言葉の中に、戦争を始めた人を思い出させる言葉が一言もないところも、
気になる。
もし戦争を始めた人に言及したら、8月15日の言葉においては、
それを正当化することはできない。
だから、安倍首相は戦争を始めた人の影すら述べていない。
それに対し、天皇陛下は直接的言及はしていないものの、
「苦難に満ちた往時」と述べて、影を感じさせている。
仮説に過ぎないが、戦争を始めた人を正当化する意図が、
阿部首相にあったのではないか。

過去の首相の追悼の言葉と比較すると、菅首相も野田首相も、
ー「先の大戦では、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対し、
多大の損害と苦痛を与えました。深く反省し、
犠牲となられた方々とそのご遺族に、謹んで哀悼の意を表します。」ー
と、近隣国に対し反省の弁を述べている。
一方、阿部首相は一言も触れていない。
この大きな差は、中国、韓国もすでに把握しているだろうし、
阿部首相は外交的融和を図るきっかけは、
ますます遠ざかったのではないか。

阿部首相は、戦後政治を正当化し未来を切り拓くというのは、
今彼が掲げている集団的自衛権を念頭においているのだと思う。
「世界の恒久平和に、能(あた)うる限り貢献し、
万人が、心豊かに暮らせる世を実現するよう、全力を尽くしてまいります。」
とあるが、能うる限り貢献し、にその意図を僕は感じる。
もし、戦争が起こらないよう、言説の限りを尽くして、
政治的、外交的努力をする意図ならば、こういう表現はしない。
なぜなら、能うる限りの中には、武力行使も含まれるからだ。

日本は、献身と犠牲の国である、と僕は最近思うようになった。
(まだぼんやりした思いなので、その中身を詳しく説明することはできない。)
阿部首相の述べていることも、実は献身と犠牲の文脈によって構成されている。
日本人の献身は、遠く源平時代に、戦死を「あっぱれ」と概念化し、
江戸時代の武士道(武士道とは死ぬことと見つけたり)の完成を経て、
戦後日本にも脈々と続いている。
続いているというのは、日本人にとってそのことがあまりにも当たり前なので、
誰も異議を述べないところにある。
献身は、献身する本人がその意思を持って行われてこそ、美しいのであって、
(あっぱれや武士道に美しさを感じるのは、武士自身が道として求めるところにある)
人々を束ねる長が、人々に求めるものではない。
それは献身よりむしろ、犠牲を強いることになり、
犠牲が巨大化すると無益な戦争に日本人全員が巻き込まれたように、全体悲惨に及ぶ。
人々はこれに反発し抵抗すべきなのだが、
(もし、城主が家来に、武士道を全うして死んでくれと言ったら、どうでしょう?)
日本人は、献身の美に酔いやすく、犠牲を強いられていることに目が向きにくい。
「いとしい我が子や妻を思い、残していく父、母に幸多かれ、
ふるさとの山河よ、緑なせと念じつつ、貴い命を捧(ささ)げられた、
あなた方の犠牲の上に、いま、私たちが享受する平和と、繁栄があります。
そのことを、片時たりとも忘れません。」
は戦没者に向けた言葉になっているが、
実は今生きている私たちにも向けられている。
まず、戦没者の献身と犠牲によって勝ち取った平和と反映が、式化される。
(献身と犠牲→平和と反映)
そして、現代人も平和と反映が未来も続くことを望んでいる(期待として確定している)。
であるなら、我々も献身と犠牲をすべきだ、という命令文が、
潜在化されている。
私たちは、美化と献身の組み合わせを受け入れているうちに、
知らずしらずの内に、犠牲を刷り込まれようとしている。

阿部首相は、恐い人だ。
戦後も時が過ぎて、我々の脳裏から戦争の悲惨な記憶が薄れていることをいいことに、
戦没者追悼式でも、追悼を自分の思いで捻じ曲げている。
阿部首相は、韓国、中国に向けてしゃべった村山談話を一時否定し、
改憲を意図し、集団的自衛権を進め、
自民党内のTPP反対勢力を無視してTPPに邁進する。
今までの彼の姿と重ね合わせると、
阿部首相は今後も自分の意図を邁進させ、
日本の未来を捻じ曲げようとするのではないだろうか。
そして何よりも怖いことは、
阿部首相の思考に、戦争に邁進していった当時の政治家、軍人の思考と
同じものを感じるところにある。
当時は神国日本と言っていたところを、
美しい国・日本と言葉を変えているだけだ。
過去を否定できず、自分並びに仲間の過ちを認めず、
現実をクールに見ることもできず、
原点に立ち戻って鳥瞰することもできず、
近隣諸国や他国の意見と調整することもできず、
今ある論理の中でしか考えられない、閉ざされた思考。
それは、周りの状況が歴史的、地理的にどんなに変わっても、
自らイノベーションを行うことができない、ということだ。
ただただ、大きな失敗(戦前は国家の滅亡寸前までいった)に流されていくしか
方法を持たなかった戦前の政治、軍部の中心と同じ轍を踏みかねない人を、
我々はトップに据えている怖さ、である。