若い時は競争に勝つことに、結構血眼になっていた。
負けず嫌いだったこともあるが、
目の前にニンジンをぶら下げて競わせるような場所に属していたことも関係していた。
でも40代になって、そんなことに一生懸命になっている自分がバカじゃないか、
と思うようになった。
40代頃の僕は、日本の競争社会は変な社会ではないか、と思うようになった。
それに、競争に血眼でいられるような社会は長くは続かないし、
もっと想定外のことが起こり、そんな変化に対応することの方が大事だろうと思った。
これは未来予測に関わる問題なので、
正しいか正しくないかは、議論したところで答えは出ない。
競争に明け暮れている人たちから見れば、
僕は脱落者でしかないかもしれないが、
人の価値観を云々言えるわけでもなく、
価値観が違うのだから、それはそれでいい。
ただ決められたルールで血眼になるよりも、
どんな状況でも生き長らえることの方が大事なはずだ。
たいして賢くもないのに、
目線を高めにとって賢ぶっている自分がバカに思えるようになった。
それ以来、自分の周りや社会というものが、
それ以前よりもちょっとは見えるようになってきたと思う。
もちろん生来バカだから、
見えるといっても以前の自分と比べてのことだけど。
負けず嫌いの少年の僕が負けるとどういう状態になるかというと、
悔しくて涙が止めどなく流れる。
鼻水も同時に流れる(汚くてゴメン)。
喉が詰まって呼吸困難になり、咳が出る。
呼吸困難から回復しようと体が反応し、
胸と背中を激しく上下に動かして呼吸しようとする。
脳がショートしたように真っ白になり、何も考えられなくなる。
周りが全く見えなくなる。
競争というものは、ルールも決められているし、ある意味安全な状態で行われる。
そういう状態にあることがわかっているから、
平気でそんな状態になることができる。
小学校時代の僕は、負けるとだいたいこういう状態になった。
社会人になってからはこんな風にはならないが、
やっぱり脳がショートするし周りが見えなくはなった。
もうこんなアホな状況になるのはやめよう、
とやっと40代になって気づいた。
競争社会と日本のエリートについてコメントしている人がいる。
日経ビジネスオンラインというホームページがあり、
コメンテーターの小田嶋隆氏が「日本のエリートは一度決められたことを
止めることができない人たちである。
周りにいる人からすれば、そんこともうやめたらいいのに、
ということも絶対にやめはしない。
その切れ味鋭いナイフのような知能で、
古新聞を無駄に切り取っている」という主旨のことを書いていた。
日本のエリートは、小学校時代から成績優秀であり優秀な大学を出て
官庁や有名企業に入った人、という定型を持つ。
そして小学校時代の成功体験をそのまま引きずっている、
というのが日本のエリートだと小田嶋氏は言う。
つまり「今やっていることを止めるというのは、
それは負けを意味する。
競争に打ち勝ってきたことがエリートがエリートたるゆえんだから、
彼らは負けるわけにはいかない。
負けるわけにいかないから、止めるわけにいかない。」
日本のエリートは、自分がやっていることが意味があることなのかどうか、
そんな根源的質問を自分に向けて発しない。
彼らにとって競争に勝つことに価値があるのであって、
その競っていることそのものに意義があることかを問うことは無価値なことだ。
日本のエリートはこういう人らしいが、
エリートかどうかはともかく、こういう思考しかできない人は確かにいる。
こういう思考しかできない人は、周りの人を知らず知らずにイライラさせる。
勝負にあまりこだわらなくなってから、僕は少し「おばちゃん」化したように思う。
おばちゃんは競争に無頓着で、人生を楽しむことに多くのエネルギーを使う。
ワイワイたくさんしゃべって、脈絡なんかなくてもへっちゃらだ。
そしておばちゃんは、勝ち負けにこだわったり、つまらんプライドに固執する男は嫌いだ。
「その脈絡のない会話は何だ」と女性たちの会話に舌打ちするような男に、そっぽを向く。
そんなおばちゃんの気持ちが、少しだけわかるようになった。
女性は今の小さな価値観に固執する日本男子に、ウンザリしているのではないか。
ドラマ『半沢直樹』は視聴率40%を超えるお化け番組になったが、
このドラマ、実はおばちゃんも若い女性たちも、本当に大勢見ていた。
彼女達はこのドラマの一体何を見ていたのだろうか?
肩書き(競争で勝ち取ったもの)や権力を振りかざして、
勝ち負けにキュウキュウとして本当に大切なものが解っていないエリートが、
半沢直樹に倍返しされるところを見て溜飲を下げているのではないだろうか。
僕の「おばちゃん」は、結構そこによろこんでいるだけど。
競争を否定しているのではない。
「日本の競争社会は変ではないか」という僕の思いは、
当時すでに導入されていた「ゆとり教育」を支持するものではない。
競争重視の偏った教育が子供達を疲弊させている、
ということの反動として導入されたゆとり教育は(学校教育についての知見は乏しく、
これで正しいかは知らないのだが、多分こんなところだと思う)、
詰まる所、競争を促す社会という文脈と変わるところがない。
同じ文脈だから、教育現場から競争はなくならなかった。
その一方で、ゆとりは「勉強しない子供」を大量生産した。
競争に勝つ方法は、
自分を強くするか競争相手を強くさせないか、の二つの方法がある。
ゆとり教育の状況にあっては、
競争において自分を強化するよりも、
周りの人々を勉強嫌いにさせた方が勝つ戦略としてははるかに合理的だ。
要するに、みんなで勉強しなければこわくない、状況を作る方が楽に競争に勝てる。
そして日本人の子供達の平均的学力は、どんどん低下するようになった。
競争社会というものは、ゲームのルールを考えればわかるように、
表向きでは決まりごとを守ることが遵守される社会ということだ。
それは閉ざされた社会を強化することを意味する。
そして日本の閉ざされた社会は、
そこに住む人々を子供の幼稚な思考から成長することを止め、
閉塞感をもたらした。
競争社会は、女子よりも男子を強く束縛している、ようだ。
男子が成長し自立するためには、通過儀礼装置が必要だ。
親元を離れて一人で生活するとか、
一人旅とか友達と見知らぬ場所に旅に出るとか、
父親と葛藤し父親越えをするとかの通過儀礼がいる。
しかし日本社会は人間にとって大事なことの一つでしかない競争と、
その結果もたらされる優劣というものに、
社会の価値を絞ってしまった。
それは結果的に、子供時代の価値観が大人になっても変わらない社会を形成し、
それは通過儀礼装置のない社会であり、
そして子供を自立させない幼稚な思考のままに留めておく社会になっている、
ということを指摘しておきたい。
負けず嫌いだったこともあるが、
目の前にニンジンをぶら下げて競わせるような場所に属していたことも関係していた。
でも40代になって、そんなことに一生懸命になっている自分がバカじゃないか、
と思うようになった。
40代頃の僕は、日本の競争社会は変な社会ではないか、と思うようになった。
それに、競争に血眼でいられるような社会は長くは続かないし、
もっと想定外のことが起こり、そんな変化に対応することの方が大事だろうと思った。
これは未来予測に関わる問題なので、
正しいか正しくないかは、議論したところで答えは出ない。
競争に明け暮れている人たちから見れば、
僕は脱落者でしかないかもしれないが、
人の価値観を云々言えるわけでもなく、
価値観が違うのだから、それはそれでいい。
ただ決められたルールで血眼になるよりも、
どんな状況でも生き長らえることの方が大事なはずだ。
たいして賢くもないのに、
目線を高めにとって賢ぶっている自分がバカに思えるようになった。
それ以来、自分の周りや社会というものが、
それ以前よりもちょっとは見えるようになってきたと思う。
もちろん生来バカだから、
見えるといっても以前の自分と比べてのことだけど。
負けず嫌いの少年の僕が負けるとどういう状態になるかというと、
悔しくて涙が止めどなく流れる。
鼻水も同時に流れる(汚くてゴメン)。
喉が詰まって呼吸困難になり、咳が出る。
呼吸困難から回復しようと体が反応し、
胸と背中を激しく上下に動かして呼吸しようとする。
脳がショートしたように真っ白になり、何も考えられなくなる。
周りが全く見えなくなる。
競争というものは、ルールも決められているし、ある意味安全な状態で行われる。
そういう状態にあることがわかっているから、
平気でそんな状態になることができる。
小学校時代の僕は、負けるとだいたいこういう状態になった。
社会人になってからはこんな風にはならないが、
やっぱり脳がショートするし周りが見えなくはなった。
もうこんなアホな状況になるのはやめよう、
とやっと40代になって気づいた。
競争社会と日本のエリートについてコメントしている人がいる。
日経ビジネスオンラインというホームページがあり、
コメンテーターの小田嶋隆氏が「日本のエリートは一度決められたことを
止めることができない人たちである。
周りにいる人からすれば、そんこともうやめたらいいのに、
ということも絶対にやめはしない。
その切れ味鋭いナイフのような知能で、
古新聞を無駄に切り取っている」という主旨のことを書いていた。
日本のエリートは、小学校時代から成績優秀であり優秀な大学を出て
官庁や有名企業に入った人、という定型を持つ。
そして小学校時代の成功体験をそのまま引きずっている、
というのが日本のエリートだと小田嶋氏は言う。
つまり「今やっていることを止めるというのは、
それは負けを意味する。
競争に打ち勝ってきたことがエリートがエリートたるゆえんだから、
彼らは負けるわけにはいかない。
負けるわけにいかないから、止めるわけにいかない。」
日本のエリートは、自分がやっていることが意味があることなのかどうか、
そんな根源的質問を自分に向けて発しない。
彼らにとって競争に勝つことに価値があるのであって、
その競っていることそのものに意義があることかを問うことは無価値なことだ。
日本のエリートはこういう人らしいが、
エリートかどうかはともかく、こういう思考しかできない人は確かにいる。
こういう思考しかできない人は、周りの人を知らず知らずにイライラさせる。
勝負にあまりこだわらなくなってから、僕は少し「おばちゃん」化したように思う。
おばちゃんは競争に無頓着で、人生を楽しむことに多くのエネルギーを使う。
ワイワイたくさんしゃべって、脈絡なんかなくてもへっちゃらだ。
そしておばちゃんは、勝ち負けにこだわったり、つまらんプライドに固執する男は嫌いだ。
「その脈絡のない会話は何だ」と女性たちの会話に舌打ちするような男に、そっぽを向く。
そんなおばちゃんの気持ちが、少しだけわかるようになった。
女性は今の小さな価値観に固執する日本男子に、ウンザリしているのではないか。
ドラマ『半沢直樹』は視聴率40%を超えるお化け番組になったが、
このドラマ、実はおばちゃんも若い女性たちも、本当に大勢見ていた。
彼女達はこのドラマの一体何を見ていたのだろうか?
肩書き(競争で勝ち取ったもの)や権力を振りかざして、
勝ち負けにキュウキュウとして本当に大切なものが解っていないエリートが、
半沢直樹に倍返しされるところを見て溜飲を下げているのではないだろうか。
僕の「おばちゃん」は、結構そこによろこんでいるだけど。
競争を否定しているのではない。
「日本の競争社会は変ではないか」という僕の思いは、
当時すでに導入されていた「ゆとり教育」を支持するものではない。
競争重視の偏った教育が子供達を疲弊させている、
ということの反動として導入されたゆとり教育は(学校教育についての知見は乏しく、
これで正しいかは知らないのだが、多分こんなところだと思う)、
詰まる所、競争を促す社会という文脈と変わるところがない。
同じ文脈だから、教育現場から競争はなくならなかった。
その一方で、ゆとりは「勉強しない子供」を大量生産した。
競争に勝つ方法は、
自分を強くするか競争相手を強くさせないか、の二つの方法がある。
ゆとり教育の状況にあっては、
競争において自分を強化するよりも、
周りの人々を勉強嫌いにさせた方が勝つ戦略としてははるかに合理的だ。
要するに、みんなで勉強しなければこわくない、状況を作る方が楽に競争に勝てる。
そして日本人の子供達の平均的学力は、どんどん低下するようになった。
競争社会というものは、ゲームのルールを考えればわかるように、
表向きでは決まりごとを守ることが遵守される社会ということだ。
それは閉ざされた社会を強化することを意味する。
そして日本の閉ざされた社会は、
そこに住む人々を子供の幼稚な思考から成長することを止め、
閉塞感をもたらした。
競争社会は、女子よりも男子を強く束縛している、ようだ。
男子が成長し自立するためには、通過儀礼装置が必要だ。
親元を離れて一人で生活するとか、
一人旅とか友達と見知らぬ場所に旅に出るとか、
父親と葛藤し父親越えをするとかの通過儀礼がいる。
しかし日本社会は人間にとって大事なことの一つでしかない競争と、
その結果もたらされる優劣というものに、
社会の価値を絞ってしまった。
それは結果的に、子供時代の価値観が大人になっても変わらない社会を形成し、
それは通過儀礼装置のない社会であり、
そして子供を自立させない幼稚な思考のままに留めておく社会になっている、
ということを指摘しておきたい。