若い時は競争に勝つことに、結構血眼になっていた。
負けず嫌いだったこともあるが、
目の前にニンジンをぶら下げて競わせるような場所に属していたことも関係していた。
でも40代になって、そんなことに一生懸命になっている自分がバカじゃないか、
と思うようになった。
40代頃の僕は、日本の競争社会は変な社会ではないか、と思うようになった。
それに、競争に血眼でいられるような社会は長くは続かないし、
もっと想定外のことが起こり、そんな変化に対応することの方が大事だろうと思った。
これは未来予測に関わる問題なので、
正しいか正しくないかは、議論したところで答えは出ない。
競争に明け暮れている人たちから見れば、
僕は脱落者でしかないかもしれないが、
人の価値観を云々言えるわけでもなく、
価値観が違うのだから、それはそれでいい。
ただ決められたルールで血眼になるよりも、
どんな状況でも生き長らえることの方が大事なはずだ。
たいして賢くもないのに、
目線を高めにとって賢ぶっている自分がバカに思えるようになった。
それ以来、自分の周りや社会というものが、
それ以前よりもちょっとは見えるようになってきたと思う。
もちろん生来バカだから、
見えるといっても以前の自分と比べてのことだけど。

負けず嫌いの少年の僕が負けるとどういう状態になるかというと、
悔しくて涙が止めどなく流れる。
鼻水も同時に流れる(汚くてゴメン)。
喉が詰まって呼吸困難になり、咳が出る。
呼吸困難から回復しようと体が反応し、
胸と背中を激しく上下に動かして呼吸しようとする。
脳がショートしたように真っ白になり、何も考えられなくなる。
周りが全く見えなくなる。
競争というものは、ルールも決められているし、ある意味安全な状態で行われる。
そういう状態にあることがわかっているから、
平気でそんな状態になることができる。
小学校時代の僕は、負けるとだいたいこういう状態になった。
社会人になってからはこんな風にはならないが、
やっぱり脳がショートするし周りが見えなくはなった。
もうこんなアホな状況になるのはやめよう、
とやっと40代になって気づいた。

競争社会と日本のエリートについてコメントしている人がいる。
日経ビジネスオンラインというホームページがあり、
コメンテーターの小田嶋隆氏が「日本のエリートは一度決められたことを
止めることができない人たちである。
周りにいる人からすれば、そんこともうやめたらいいのに、
ということも絶対にやめはしない。
その切れ味鋭いナイフのような知能で、
古新聞を無駄に切り取っている」という主旨のことを書いていた。
日本のエリートは、小学校時代から成績優秀であり優秀な大学を出て
官庁や有名企業に入った人、という定型を持つ。
そして小学校時代の成功体験をそのまま引きずっている、
というのが日本のエリートだと小田嶋氏は言う。
つまり「今やっていることを止めるというのは、
それは負けを意味する。
競争に打ち勝ってきたことがエリートがエリートたるゆえんだから、
彼らは負けるわけにはいかない。
負けるわけにいかないから、止めるわけにいかない。」
日本のエリートは、自分がやっていることが意味があることなのかどうか、
そんな根源的質問を自分に向けて発しない。
彼らにとって競争に勝つことに価値があるのであって、
その競っていることそのものに意義があることかを問うことは無価値なことだ。
日本のエリートはこういう人らしいが、
エリートかどうかはともかく、こういう思考しかできない人は確かにいる。
こういう思考しかできない人は、周りの人を知らず知らずにイライラさせる。

勝負にあまりこだわらなくなってから、僕は少し「おばちゃん」化したように思う。
おばちゃんは競争に無頓着で、人生を楽しむことに多くのエネルギーを使う。
ワイワイたくさんしゃべって、脈絡なんかなくてもへっちゃらだ。
そしておばちゃんは、勝ち負けにこだわったり、つまらんプライドに固執する男は嫌いだ。
「その脈絡のない会話は何だ」と女性たちの会話に舌打ちするような男に、そっぽを向く。
そんなおばちゃんの気持ちが、少しだけわかるようになった。
女性は今の小さな価値観に固執する日本男子に、ウンザリしているのではないか。
ドラマ『半沢直樹』は視聴率40%を超えるお化け番組になったが、
このドラマ、実はおばちゃんも若い女性たちも、本当に大勢見ていた。
彼女達はこのドラマの一体何を見ていたのだろうか?
肩書き(競争で勝ち取ったもの)や権力を振りかざして、
勝ち負けにキュウキュウとして本当に大切なものが解っていないエリートが、
半沢直樹に倍返しされるところを見て溜飲を下げているのではないだろうか。
僕の「おばちゃん」は、結構そこによろこんでいるだけど。

競争を否定しているのではない。
「日本の競争社会は変ではないか」という僕の思いは、
当時すでに導入されていた「ゆとり教育」を支持するものではない。
競争重視の偏った教育が子供達を疲弊させている、
ということの反動として導入されたゆとり教育は(学校教育についての知見は乏しく、
これで正しいかは知らないのだが、多分こんなところだと思う)、
詰まる所、競争を促す社会という文脈と変わるところがない。
同じ文脈だから、教育現場から競争はなくならなかった。
その一方で、ゆとりは「勉強しない子供」を大量生産した。
競争に勝つ方法は、
自分を強くするか競争相手を強くさせないか、の二つの方法がある。
ゆとり教育の状況にあっては、
競争において自分を強化するよりも、
周りの人々を勉強嫌いにさせた方が勝つ戦略としてははるかに合理的だ。
要するに、みんなで勉強しなければこわくない、状況を作る方が楽に競争に勝てる。
そして日本人の子供達の平均的学力は、どんどん低下するようになった。
競争社会というものは、ゲームのルールを考えればわかるように、
表向きでは決まりごとを守ることが遵守される社会ということだ。
それは閉ざされた社会を強化することを意味する。
そして日本の閉ざされた社会は、
そこに住む人々を子供の幼稚な思考から成長することを止め、
閉塞感をもたらした。
競争社会は、女子よりも男子を強く束縛している、ようだ。
男子が成長し自立するためには、通過儀礼装置が必要だ。
親元を離れて一人で生活するとか、
一人旅とか友達と見知らぬ場所に旅に出るとか、
父親と葛藤し父親越えをするとかの通過儀礼がいる。
しかし日本社会は人間にとって大事なことの一つでしかない競争と、
その結果もたらされる優劣というものに、
社会の価値を絞ってしまった。
それは結果的に、子供時代の価値観が大人になっても変わらない社会を形成し、
それは通過儀礼装置のない社会であり、
そして子供を自立させない幼稚な思考のままに留めておく社会になっている、
ということを指摘しておきたい。

2020年東京オリンピックをキーワードにして、
幾つか日本の未来予想をしてみたい。
テーマは、
経済効果、東京一極化対策、非経済効果追求、
そして「負」をどのように制御するか、だ。

(経済効果)
経済効果については、2兆円を超える経済効果がある、とマスメディアから報道されている。
おそらく、どこかの大手シンクタンクが、
国や東京都から依頼されて算定したものだと思う。
こういう数字は依頼者の意図が反映され、見えないところで操作されるものなので、
僕はあまり信頼していない。
もちろん、経済効果はある。
家に人を招く時に、自分がどういう行動をするか、考えてみるとわかりやすい。
家の中に、他者が入って見られて具合の悪いものがあれば、
修理したり新しいものに買い替えるし、部屋を綺麗にする。
普段なら飾らない花を置き、壁に絵画をかける。
そういうことが東京で、国や都の施設だけでなく、
民間の施設で行われる、と考えていただきたい。
これだけで、かなりの需要を生むだろう。
相当多くの人がオリンピックを見るために国内や海外から東京に集まるから、
交通、宿泊、飲食、観光、お土産産業関連の需要が高まる。
オリンピックをよりリアルな画像や音響で見たいという欲求があるから、
TVの買い換え需要も起こる。
ましてかなり多くの日本人が高揚感の中にあるのだから、
財布の紐もゆるくなる。
ここまでは、予想がつく。
それ以外のことも起こるだろう、と僕は予測する。
日本経済は20年に亘る閉塞感の中にあるが、
嘗て我が世の春を謳歌した家電業界が良い例だが、
それは新しいイノベーションを生み出していないことも理由の一つだ。
日本全体が、そして多くの日本人が7年後にどうなっているのかと、
意識上に載せ前向きになっているこの機を、
無為に終わらせて新しいものを生み出せなかったら、
二度と浮上することはできないだろう、と
企業経営者だって考えるだろう。
そして、アベノミクスを標榜するものの、
第三の矢として、今だにめぼしい具体的ターゲットを打ち出せていない政府も、
同じように考えているのではないか。
投資余力が少ない企業は独力でイノベーションを起こす力に欠けるので、
政府と一体となって推進したいと考える。
企業側は数ヶ月以内に企画書を纏めて政府に提案し、
政府は上がってきた企画書のなかから、第三の矢として取り上げられるのではないか。
その企画は、日本で受け入れられ、且つ世界の注目を集めるものでなければならない。
東京オリンピックに前後して実用化されているか、
又は見本市として展示されるものでなければならない。
これらのイノベーション投資が成功すれば、
新たな需要が生み出される。
新たな需要は、オリンピックが終わっても終わらない。
そんなパワーを待つイノベーションが起こるかどうかで、
オリンピック経済効果は大きく違う数字になる。

(東京一極化対策)
かなりの投資が東京を中心に行われる。避けようがない。
東京への投資に負けない投資を地方にも、と地方自治体は求めるだろう。
気持ちは十分わかる。
ただでさえ東京一極化が進み、地方は荒廃している。
これ以上東京一極化が進めば、地方はもたない。
そう思うからこそ、地方にも投資を、という気持ちになることは理解できる。
しかし日本政府は、既に膨大な負債を抱えている。
地方に遍く投資をすることは不可能だ。
地方は地方で、投資を呼び込む企画を考えなければならない。
例えば、羽田、成田空港の離発着限界の代替策を打ち出す。
オリンピックを見に海外から東京に来る人たちを、一旦地方空港で受け止めて、
そこから陸運で東京に来てもらう。
羽田、成田の料金と対抗できるように、
飛行機運賃と陸送運賃がタッグを組む必要があるし、
できればその地方で観光する企画のコラボが必要だ。
又、東京に集まった人たちが地方に巡回してもらう企画も必要になる。
オリンピック選手村に入る前に、日本の気候に順応しようとする各国の
オリンピック選手を、地方でキャンプしてもらうような招致策もある。
物価が高い処を敬遠する国は絶対ある。
「その土地に行ってみたい」と気にさせる企画が必要だ。
企画を実現するエネルギーが大切。
地方に現役の人たちが住んでいてこそだ。
地方は生活者を呼び戻す施策が必要だ。
それは、東京に似たものを地方にコピーする発想ではなく、
その地方の風土に根ざした施策であるべきだ。
リトルトーキョーだとか、何とか銀座という発想を捨て、
地方に根ざした発想に切り替える。
この発想から抜け出した地方は、活性のチャンスがあるが、
抜け出せなければチャンスは薄い。
活性化の可能性がある地方と、活性化しない地方。
東京オリンピックを契機として、日本の地方はそういう様相を持つ。
地方と東京が通じている、東京と地方が簡単に行き来できる、
というインフラが大前提であることがわかる。
今まで、人が少ない土地にも高速道路を巡らし、
赤字が見込まれるところにも新幹線を引き、
利用客が少ない地方にも空港を施設してきた日本。
膨大な予算を使って作り上げた交通インフラを、最大限に活用する時がきた。

(非経済効果追求)
明治維新以来、東京は西洋の文明を受け止め、
それを日本中に展開する役目を担ってきた。
発展という意味で、東京が先行し地方がそれを追う形態だった。
しかし、経済の大原則は効率重視にあり、
それは国や地方の思惑など配慮しない。
経済的価値を生まない地方は、人口が減り疲弊していった。
東京一極化現象は、経済最優先で国家運営を行ってきた結果であり、
東京と地方の格差が広がった今は日本が国家として運営するには厳しい状況であり、
日本全体でみると機能不全を起こしてしまっている。
東京オリンピックが契機になって、更に東京一極化が進むと、
日本は機能不全ではすまない国になるのではないか、
それが東京一極化に懸念する理由だと思う。
この懸念は多分正しく、しかし仕組みを変えない限りこの懸念は解消しない。
経済主体で考え、西洋文明主体で考える限りにおいて、
東京一極化を避けることはできない。
だから、それとは違う思考が必要だ。
ブエノスアイレスでの招致スピーチで、日本が世界に誇れることを幾つかアピールした。
旅行者、居住者にとって世界一安心な国。
「おもてなし」の国。
そして、レガシー。
オリンピック招致団は、オリンピックを東京に招致するために、
知恵を絞って、経済以外に世界に誇れるものとして、この3つを主張した。
そして、震災被害の逆境に耐え団結する力を与えてくれる、
日本人はそういうことがわかっている、と主張した。
僕は、安全、おもてなしとレガシーの3つを三位一体として追求することが、
経済効果とは別の効果をもたらす可能性があると考える。
それこそがオリンピック・ムーブメントと同時に稼働する、ジャパン・ムーブメントだ。
日本は安心・安全な国だが、何もこれはお金の力でもない。
日本人は、互いに相手の気持ちを組み、
互いが相手を害しないことが生きていく上で大事なことだと考えているから、
安心・安全が保たれている。
人々のモラルや倫理が、安心と安全を支えている。
そして、そのモラルと倫理は、震災で崩壊することがないほど強固である。
阪神大震災の後、小売店が略奪されなかったのは、そのせいだ。
しかし、それ以降時代が現代にくるにつけ、日本の安全神話はぐらついてきている。
安全はお金で買うもの、治安は国家が保障するもの、と考えて、
自らが安心・安全を守る一人であるという認識に欠ける人が増えているからだ。
安心・安全の日本のインフラはどうしてできているのかを、
もう一度確認、整理し、安心を高めようという機運を高めたい。
安心と安全は地方こそ高いということがわかれば、
日本に訪れた人も地方に行くだろう。
「おもてなし」は、旅人や来客者の疲れを癒し、くつろいでもらう心。
繊細で細やかな心配りは、日本のどこでも至るところにある。
おもてなしの元にある、人への心配りは日本人の中にある。
接客のサービス化は、お客に接することが都会の方が洗練されているかもしれないが、
地方の人も訓練すればすぐに身につけるだろう。
日本には、至るところにその地方特有の文化や風習がある。
歴史的文化遺産もある。
これらは、その地方に行かなければ体験できない。
有形、無形の文化遺産(レガシー)を、自分たち自身が再発見し、
そしてその地方以外の人々に興味を持ってもらおう。
無価値だとして我々が捨ててきた日本の原風景を、
美しくて価値あるものだ示してくれた宮崎駿さん。
宮崎駿さんが作ったアニメーション映画を世界中の人が見ている。
宮崎駿さんを、オリンピック開会式の演出に推す声があるが、
むしろ地方のレガシーを再形成する総監督になる方がふさわしい。
人々が宮崎駿映画から受け取るものは、
人の成長や気づきを神話的物語で綴るストーリーの中に散りばめられた、
日本の原風景の美しさ(隣のトトロ、風立ちぬ)、
精霊と共存する人たち(魔女の宅急便、隣のトトロ、借りぐらしのアリエッティ)、
(大空を自由に飛び回る)夢と希望(風立ちぬ、紅の豚、他多数)だ。
宮崎映画を媒介にして、日本に興味を持ってもらい、
古き良き時代の日本の風景を見るために、
日本を訪れた人々を地方に運ぶのだ。
宮崎駿映画を夏目漱石の小説と匹敵する文芸作品であり、
今後百年に渡って見られていく作品だと評価する人がいる。
そうであるなら、夏目漱石が描いた、三四郎や坊ちゃんがロールモデルになったように、
原風景と精霊と共に希望を持ってそこに住む人々、
宮崎駿さんが描いた、普通にそして幸せに生きていく人が、
これからのロールモデルになって良いではないか。
宮崎駿映画が人々に見られれば見られるほど、
人々は宮崎駿氏が描く人物像の影響を受ける。
地方も、世界に向けて情報発信するべきだ。
地方新聞の地域欄と、地方テレビのローカル放送、
地方のタウン紙などが、英語でも情報発信していくべきだ。
不均質で、不完全で不便だけれども、それを超える良さを発信する。
そういう情報を受け取った人たちが、その地方に来るだろう。
安心とおもてなしとレガシー、それらを逆境に負けない心と希望で支えることで、
ジャパン・ムーブメントを起こしていこう。
日本は「最も無くなって欲しくない国」第一位という声があるが、
まだまだその地位は曖昧だ。
東京オリンピックを契機にジャパン・ムーブメントを起こすことによって、
一度は立ち寄りたい国第一位になろう。

(負の制御)
何と言っても、福島原発汚染水問題の制御が急がれる。
それから、起きてしまったら予測不能な大惨事になるだろう、東京を襲う大地震。
地震研究者には、いつ地震が起こるか精度の高い予測ができるように、
研究していただくしかないが、
こればかりは21世紀の今となっても、
地震が起きないように祈るしかない。
後は日本の夏。
今年の日本は亜熱帯気候になったと思われるほど、暑かった。
この気候にどう対応するのか?
なかなか制御しがたく、悩ましい課題だ。





TBSドラマ『半沢直樹』が国民的人気ドラマの地位になりつつある、
というか、既にその地位にあるのではないか。
ドラマの人気に合わせて、
書店では半沢直樹シリーズだけでなく、
作者・池井戸潤さんの本が、
ひら積みで店頭の目だつ場所に置かれている。
先日、会社の顧問弁護士先生と仕事の相談をしているときにも、
会話の途中で『半沢直樹』が話題になった。
とても、自然なことだった。
先生は、半沢直樹を知ってて当然、
という感じで話していた。
とても頭のキレる方で、
ドラマを見るなんて時間の無駄遣いなんかするわけないでしょ、
という空気を身につけている先生なので、
正直言って僕は内心「ほ~」と思った。
日頃多忙でクールな人でも、このドラマを見ている。
視聴率が30%を超えるとは、
社会で活動している人のだいたいは見ている、ということのようだ。
そしてそれは、男女の差がないようだ。

このドラマは、大手銀行を舞台に、権力とお金に絡んで、
正しくあるべき融資が不正に行われる邪悪な組織、という設定だ。
一般人からすれば、銀行は何をしているのかさっぱりわからないところ。
そんな場所を舞台にしても、視聴率を獲得することはとても難しい。
でも、誰もがわかるように、登場人物のキャラクターをくっきりと描いている。
私利私欲に染まった邪悪な権力者と、
彼の支配下にあって不正に加担し、半沢直樹を窮地に追い込む下衆たち。
邪悪な人たちの不正な行為の結果、地位や財産、仕事を奪われる、複数の被害者。
被害者たちは、コツコツと真面目に自分のやるべきことをやっていた。
しかし、不正な意図によって、そんなささやかな生き方が、突然奪われ失われる。
半沢直樹は、組織内のねじ曲がった意図に巻き込まれ、責任を問われる。
自分には負わなければならない責任などないことを、
自分の力で証明しなければならない。
半沢直樹は、銀行員としてやるべきことをやる、ぶれない男。
貸したお金が戻ってくるかどうかが銀行の判断の基本であり、
お金を貸すことで借主が、その社会的使命を果せるかどうかを問うことが、
銀行の使命だと考えている。
だが、半沢直樹は理性的にこの正義を獲得した人ではない。
父親が銀行に見捨てられ、命を絶ったことが、
彼の行動原理の深いところで関係している。
半沢直樹は、引き裂かれた人である。
そんな半沢直樹に、
本来の銀行の使命を忘れ、私利私欲のために不正を行う輩を、許せるわけがない。
それは、「倍返しだ」という一言に集約される。
半沢直樹は、善であり、不屈であり、
そして、奥さんを愛し、仲間を共に生き、弱き者や被害者に手を差し伸べる、
人間として血の通った男だ。
そんな半沢直樹のぶれない行動に、次第に仲間が増えていく。
被害者は、半沢直樹と力を合わせて邪悪な力に対抗し、
部下や仲間も彼に協力し、ついていく。
半沢直樹の奥さんも大事な役回りだ。
女性の視線、奥さんの視線で、邪悪を憎み彼女なりの方法で、
半沢直樹を癒し、扶助し、そして半沢直樹に「気づき」をもたらす。
そして、ドラマをさらにエモーショナルにする役割を担う、
国家権力を独特のキャラクターで演じる、黒崎。
黒崎の正義は、半沢直樹の正義と通じるところは少しあるが、
ほとんどは水と油の関係にある。
社会の土台から積み上げた正義と、国家の正義。
この二つは、一時的に交わることはあっても、反発しあって、
同じ場所にはたどり着かない。
二つの正義が、どちらが先に目的地にたどり着くのか、
騙した騙された(正義は己の正義を全うするなら、騙しは許される、
という文脈)、
獲ったものを横取り、ということを繰り返す。
脚色にも、特徴がある。
銀行内部の場面は、実際の銀行内部を再現している。
金庫の描き方や内部検査の描き方は、ほぼ実際の通りだ。
一方で、主要なキャラクターの描き方は、かなりのオーバーアクション。
半沢直樹はミエを切り、土下座さえする。
黒崎のしゃべり方や表情も、突出している。
この手のビジネスドラマでは、出色の描き方なのだが、
それがこのドラマが人気を得ている、
理由の一つだと思う(理由は後ほど)。

僕は仕事柄何人もの銀行員と話をするが、
銀行員の方たちは全員、『半沢直樹』を見ていた。
銀行が邪悪を帯びた組織だと言っているドラマを、
ドラマのモデルとなっているはずの三菱東京UFJ銀行の方も、
他の銀行の方も、みんな見ていた。
別におかしいことではない。
僕らがドラマに没頭すれば、そういうことは起こる。
古い映画を例えに出すが、
邪悪な人たちに一人体を張って立ち向かうスクリーンのブルース・リーを、
僕らは応援した。
悪逆非道な日本人武道家を蹴り殺すブルース・リーの活躍に、喝采した。
それを、テクストの力、という。
僕たちは簡単に、
「テクストを支配している主人公の見方」に同一化する。
それが「現実の私」の敵対者や抑圧者であってさえ、だ。
そして、テクストのほうが私たちを「そのテクストを読むことができる主体」へと形成してゆく。
つまり僕たちは、「半沢直樹の人間性を理解できる人間性」を、
このドラマによって獲得していることになる。

半沢直樹の人間性とは何か?
僕は「侠気」だと思う。
侠気、又は男気。
侠気のコアは、止むにやまれぬ思いと他者を思う心、だが、
一般に言う良心と侠気は何が違うのかというと、
侠気は天にまで突き抜ける杉のように真っ直ぐであること。
半沢直樹と黒崎の正義がぶつかり合う時に、
半沢直樹が気持ちの上で黒崎に負けていないのは、
国家正義を超える天にまで通じている自分だから。
このドラマから受ける印象では、
昭和の侠気と平成の侠気は、質が変わっている。
昭和の侠気は、鶴田浩二の歌で、
「義理と人情を計りにかけりゃ」とあるように、
共同体のルールや掟と友人や家族への情の間に翻弄し、
板ばさみに悩むシテュエーションに、特徴がある。
ギリギリ悩み、我慢する時間が長くある。
そして悩んだ結果、「義理が廃れりゃこの世は闇だ」となるように、
共同体の掟に背けない自分を、発見する。
昭和の男は、やむなく共同体を離れ、共同体に責任が及ばないようにしてから、
人情を果たしに、一人戦う。
一人戦いに向かう男の背中に向かって、「アニキー!」と、映画ならば、声がかかる。
一方、平成の侠気は、板ばさみに悩むなど、しない。
義理に悩む姿は、半沢直樹からはみじんも感じられない。
半沢直樹が、平成入行組のロスジェネ世代というところがポイントだ。
一度火がついた侠気はもはや、誰も止めることができず、まっしぐらだ。
半沢直樹の相手を追い詰める力を癒すのは、ただ一つ、
邪悪な相手にも、彼を大事だと思う家族がいて、
その家族からの、手心を加えて欲しいとの、哀願しかない。
どうして昭和と平成の侠気が質が変わってしまったのか、
その答えは、現代社会の共同体の崩壊、以外には考えられない。
共同体の連帯が薄れ、義理が人々を縛ることがなくなった。

昭和は過ぎて、消え去ったはずの侠気が、何故今復活してきたのか?
社会が平穏である時は、侠気は敬遠される。
昭和の侠気が、高度経済発展と逆流するように、
巷間から消えていった。
日本人の侠気は、その人の良心を土台にして、
それが天に向かって、龍のように一気に舞い上がるところに特徴がある。
「天」とは何か、
日本人は神世の時から、一度も明らかにしていない。
それぞれが、天とは何かそれぞれ考えるもの、それが天だ。
日本人の天は、人によって捉え方が異なり、
そして侠気は、昇り龍のごとき荒ぶる魂、である。
コントロールすることが難しい。
世間が落ち着きを取り戻せば、コントロール難しいものは抑え込まれるのは当然。
そのようにして、高度経済成長とともに、侠気は忘れられていった。
しかし日本人は、
社会が不安定になり、
「引き裂かれた状態」になると、
抑えられていた侠気が息を取り戻す。
東北大震災後に、「絆」が登場してきたように、
我々日本人の良心の原点は他者を思う心であることを、思い出す。
他者を思う心がそこで癒されることが無ければ、
和魂(にぎるたましい)は変質し、荒ぶる魂が復活する。
荒ぶる魂の原点は、スサノオノミコト。
スサノオはアマテラスを強く思っているのだが、
引き裂かれたことで、荒ぶる神になる。
侠気は荒ぶる魂であり、
荒ぶる魂は神話のような世界観の中で育つ。
『半沢直樹』の脚色が大げさなのは、
この神話の世界観を演出している。
何が引き裂かれているのか、合理的説明はできないが、
共同体や家族の崩壊、日本社会を支える社会システムの劣化、
希薄化する人間関係によって、
人々は、「引き裂かれた状態」を、肌身に感じているのではないか。
ドラマ『半沢直樹』が国民的人気ドラマになったのは、
民間が作り上げた高度なシステムであるはずの大手銀行でさえ、
システム劣化に陥っていることに、
国民は潜在意識的に多いに納得しているからだろう。
そして、半沢直樹の侠気に大いなる待望を、
潜在意識として、抱いているからだろう。
日本国民は、今の日本に満足しておらず、何とかして欲しいのだ。
このドラマが始まる前では、
そういう気持ちがあることもわからなかったのだが、
このドラマを見続けることで、
半沢直樹の人間性を理解できる人間であることがわかったのである。

日本人も荒ぶる魂、侠気が復活する可能性がある。
それが、日本社会をすぐに変える力になるわけではない。
そこはやはり、ドラマの主人公では、現実の日本国民を変える力はない。
本当に社会を変えるには、現実にそういう人が現れる必要がある。
でも幕末前夜以降を、思い出してもらいたい。
幕末の志士が出てくる前には、
侠気戯曲の最高峰である『南総里見八犬伝』が大人気だった。
ドラマが現実の前にあったことを、日本は既に持っている。
だから、僕は期待を込めて、予言したい。
幕末の吉田松陰の侠気に何度も何度も見せられ、
思いを伝えられた若き長州藩士たちは、
ついに腰を上げ剣を持って、尊王攘夷へ、そして倒幕への道を進んでいった。
ドラマ『半沢直樹』に夢中になっている今、
この現代に吉田松陰のような人が現れたなら、
それはいっときは大きな困惑を持って迎えられるだろうが、
その熱い思いは侠気を待望している国民に、
燃えるように広まっていくだろう。
ドラマ『半沢直樹』の大ヒットは、僕にそういうことを予想させる。