関西で阪急といえば、知名度抜群の企業名であり、
ブランド的地位にあると言って良いと思う。
その阪急グループのホテルチェーンのレストランで出された料理に、
誤表示が何十も繰り返し行われ、それも長年に渡って行われていたと報じられた。
テレビニュースでは大阪駅のそばにある新阪急ホテルの外観を映し出し、
続いて社長の謝罪記者会見の一部が放映された。
僕は新阪急ホテルに泊まったことも、食事をしたこともなく、体験が全くない。
そして阪急ホテルチェーンについての知識も情報もない。
だからこれから書くことは、僕がテレビニュースを見て素朴に思ったことだ。

編集され一分にも満たない謝罪会見の様子を見て、僕は出◯弘社長の名前を覚えてしまった。
僕は50歳を超えてから、テレビに出てくる人の名前をめっきり覚えなくなった。
NHK朝ドラの「あまちゃん」のヒロイン、
能年玲奈さんの名前ですらドラマが始まって3ケ月ぐらいたってようやく覚えたほどだ。
でも出◯社長の名前は一発で覚えてしまった。
それくらい、この記者会見はインパクトがあった。
テレビ局側の編集によって、そうゆう見え方が強調された可能性はもちろんある。
でも、編集された一部の画像から強く見えるものがあった。
出◯社長が登場してきた時から、
えらい薄っぺらい、ぺえぺえみたいな人が出てきた、と思った。
阪急と言えばトップ企業なのだ、
その阪急グループでホテルチェーンがどういう位置にあるのか知らんが
阪急と名のつく会社の社長ならもっと社長らしい人じゃないの、
という(一種のブランドイメージ)がぶっ飛んだ。
謝罪のお辞儀は深々としていて、これは合格。
でも謝罪内容を説明する表情が、これがまあ!というくらい軽々しい。
(音声がなければ、僕には何の責任もないのに急に会見してしゃべれと言われたんですわ、
とテロップを流してもそう信じたであろう。)
そして、今までやってきたことは、
社員または納入業者の誤表示によるもので、偽表示ではありません、ときた。
(おお、想像を超えた発言を、あなたはその顔でするか・・)
後、社員が悪くないとか、経営責任があるので役員給与のカットをするとか、
払い戻しをするとか言っていたが、それらのことをまともに聞こうという態度は
僕の側には無くなっていた。
出◯社長、この記者会見は失敗でしょう。
あなたのおっしゃることは、ウソにしか聞こえません。

社長が言った誤表示と偽表示は、勝手な想像だが、
もし偽表示と言ってしまえば信用は失墜し
ホテルチェーンは倒産も覚悟しなければならない打撃になるが、
誤表示と言い続ければそこまでにならずより少ない打撃で済むのではないか、
というリスク計算によるものなのかもしれない。
そういう風に想像すると、出◯社長の説明は、事前に十分検討した内容だったのかもしれない。
だが出◯社長は、メッセージには二つの構造で出来上がっているということが
わかっていなかったのだろう。
メッセージには、表だって伝わるメッセージに伴って伝わる暗黙のメッセージがある。
記者会見の内容は、表だって伝わるメッセージをさす。
ところがそれとは別に、暗黙のうちに相手に伝わるメッセージがある。
出◯社長の記者会見では、彼の風貌や会見での態度、しゃべり口が暗黙のメッセージなのだ。
そしてこの暗黙のメッセージが、
僕を含め多分多くの人に「本当のことを言っていない」というメッセージを伝えた。
この暗黙のメッセージのことを、メタ・メッセージという。
メタ・メッセージは、記者会見の内容を
「こういう風に聞いて下さい」と聞き方を指示するメッセージだ。
メタ・メッセージをプラットフォーム(土台)、話す内容をコンテンツと考えてもらえればよい。
メタ・メッセージは一義的でなければならず、
意味がどうでも取れるような指示であってはならない。
謝罪会見でのメタ・メッセージは「誠実に話をしますので、どうか受け取って下さい」、
というのが我々が暗黙の内に共有していること。
それ以外であってはならない。
だから、謝罪会見の聞き手は、そういうメタ・メッセージがあるものと思っているところに、
出◯社長は、とても誠実な態度と言えない会見をした。
これで聴衆は、強い不信を持つことになった。

誠実さは身体からにじみ出るものだ。
言葉はいろんな語り口ができるが、身体は演舞者や役者でもない限り、
複雑なことを語るようにはできていない。
言葉は如何様にでも変えられるが、身体態度はまさに言葉のプラットフォームだ。
自分の意識をちょっと変えたくらいで、
身体の振る舞いは変えられない。
僕も多くの謝罪をしてきたが、
このことに痛く思い知らされてきた。

今の日本は、グルメという言葉が好まれている。
その日本で「◯◯豚」とか「◯◯ネギ」とか、冠のついた食材が人気だ。
そういう食材を知っていることが、より食通という風潮がある。
でも冠食材とそうではない食材の差を、
見たり食べたりして一発でわかる人は少なく、
消費者はレストラン側が「◯◯です」ということを信じるしか無いというのが実情だ。
冠食材は希少性や流通や賞味期限などの理由により、
一般食材よりも値段は高くなる。
だから本当なら冠食材を使った料理は値段が高くなる。
ところがグルメブームが起きて以降の不況によって、
値段が高いレストランは敬遠される傾向にあり、料理の単価が下がっている。
安いレストランチェーン、居酒屋チェーンが増えていることもあって、
かつてのような高めの値段設定でお客さんに出しているレストランや料理屋が
どんどん閉店に追い込まれている。
レストラン側は、いろんな方策を取らなければならない状況にあるのだ。
今回の「誤表示」(と会社は主張しています)が行われた理由には、
こういう背景があるだろうと思う。
だが、だからと言って許されるわけではない。
料理は作る側のいろんな作業やノウハウの多くがベールに包まれているので、
消費者は「お店を信用する」ことを店を選ぶ前提としている。
そして実際に食べてみて満足するかどうかで、
リピーターになるかどうかを決める。
今回の阪急阪神ホテルチェーンは、
店を選ぶ前提とリピーターになる体験の両面で消費者を裏切った。

先日、急に小料理が食べたくなって、
食べたことがない割烹料理屋に入った。
親しみの感じる店の名前と暖簾だったので入ってみたら、
店の雰囲気は悪くない。
席に座ると、手書きのお品書きが目に止まったが値段が書いてない。
いかん、高級割烹に入ってしまったかと思ったがもう遅い。
まず付け出しが出てきた。
手はこんでいないが、旬の食材を生かしていて、美味しい。
ビールともあう。
度胸を決めて、お造りの盛り合わせを頼む。
亭主はごく短めの返事だけをして、すぐに調理を行う。
不必要なことは言わないが、むっつりというのでもない。
出てきた皿の六種のお刺身は、どれも丁寧で美味しい。
調子が出てきたので、熱燗を頼むことにした。
もう一品魚料理をどうしようか迷っていたら、
一匹を半分お刺身、もう半分を焼いてくれるという。
親切じゃないか。
そういうやり取りを繰り返して行くうちに、
亭主は良い仕事をする誠実な職人さんだと思えてきた。
打ち解けてくると、
「最近は安い料理屋チェーンが増えてきて、店を維持するのが大変です。
内は決して高い値段をとっているわけじゃないんですが、
昔から値段を出さないでやってます」と話してくれた。
値段で料理を判断して欲しくない、
まず食べて美味いかどうかを判断して欲しい、
ということなのだろう。
亭主の心意気も料理も気にいった。
こういうお店ならば、冠食材を偽るなんて何の意味もないのだ。





秋になると注目を集めるノーベル賞だが、今年は日本人受賞者は出なかった。
受賞するかどうかと、注目を集めていた村上春樹氏も外れた。
僕も村上小説の一ファンであり残念な気分もあるけど、
「でも受賞しなくても村上春樹氏の小説の価値が下がるわけでもないし」
という気分なので、ほとんど落胆していない。

残念だけど構わない、という気分は他にもあるだろう。
最初からその事(この場合はノーベル賞)を目標にしているわけじゃない場合では、
そして付録のように思っている場合は、
そういう気分になるものだ。
例えば自分の子供が学校の課題で描いた図画が、
何かの拍子で市とか県とか日本とかのレベルの何かの
コンクールの入選候補になったあげく落選した時も、
「落選したけどいいじゃない。
人様がいいねと思ってくれる絵が描けたんだし、
入選しようが落選しようが僕の子供であることに変わりはないんだから」
という気分になる。

一つ二つの落胆でその人の評価は変わらない、というものがある。
他者が何と言おうが、その人に対する気持ちは変わらないというものがある。
僕にとって村上春樹氏の小説の評価はノーベル賞受賞に左右されるものではなく、
(もちろん受賞されれば嬉しいんだけど)
それは「いいね」という形で僕の心の中に出来上がっている。
心の中に出来上がっていること、心に内実化しているから、
受賞しなくてもこんな気分になる。
僕らはいろんな対象(その多くは人)と日々接触し、
近づいたり遠ざかったり、横を通り過ぎていくだけで忘れ去られる対象もあれば、
一生遠いままの対象がある。
横を通り過ぎるだけだったり、一生遠いままの対象は、
心に内実化していないということ。
心に内実していることの心象を、三次元で例えてみる。

自分にとって大事な対象は太陽系の惑星のような楕円形の同心円のように、
複数の円を描いている。
そして彗星のように一生に一度会うか合わないかだけど、
会えば強い印象と記憶を残していく対象がいる。
箒星のような、うたかたな対象もある。
でもほとんどの対象は太陽系の外にある星であり、
見ることはできてもすぐに忘れる。
でも対象に対して僕たちは、これは太陽系だ、彗星だ、太陽系の外だと分類などしない。
僕らは知らず知らずのうちに、
無意識とか感情とかの領域の力によって、
対象を太陽系の惑星のように思っているのか、
それとも彗星や箒星、流れ星のような一抹の対象と思っているのか、
対象の配置を分けている。
又惑星のように同心円を描く対象であっても、
自分に近い円上を動いている水星、金星、地球のような対象がある一方で、
太陽から遠い天王星のように遠い対象もある。
自分と対象の距離は、
太陽と惑星が互いの引力によってその距離が決まるように、
自分と対象の引力によって決まる。
そしてその引力は、
自分にとって対象の重みと情愛という引きつける力と、
嫌悪という引き離す力のバランスによって決まる。
このバランスがいつも取れていることが良い人間関係を維持する上で理想に違いないけど、
残念なことに多くの人はこのバランスの重要性に気づいていない。
気づいていないから、対象を消し去ってしまうようなこと(別離)をしてしまう。
でもそれは、太陽系の惑星の一つが無くなってしまうと
引力バランスが崩れてしまって太陽系に歪みがもたらされるように、
その人の心のバランスが歪んでしまう。
心に内実化しているとは、太陽系の惑星のように思っているということだ。
そしてそれを失うことは心のバランスを崩すことにもなるので、
何を内実化するかは結構慎重である必要がある。

さて自分にとって村上小説は太陽系のどの惑星なのかということだが、
土星ぐらいかな、と思う。
巨大な星だがでも遠い、遠いけれどもえも言われぬ憧れもある。
普段は全く忘れていて思い出すことはないが、
土星という言葉を聞いた時にはホルストの『サターン』の音楽のように、
静かな夜の浜辺に寄せては帰る波のような調べにのって、
僕の心はどんどん深層に引き込まれていく。

村上小説の魅力の一つは、小説に書いていることが
「自分のことが書いてある」と読者に感じさせるところにある。
実際にそういう風に感じたと記載したファンレターは多いそうだ。
僕もそういうことを感じたことがある。
それにもう一つ魅力を加えると、
僕の中でモヤモヤしていて、でもそれを言葉にできないで
余計にモヤモヤしている時に、村上小説の中のある文章を読んで
「僕がモヤモヤしていたことってこういうことだったのか」と
納得し、すうっとすることがあるところだ。
そういう一例を紹介しておこう。

仕事をしていると、いろんな気持ちのすれ違いもあるし
もつれにもつれてグジャぐじゃになることがある。
それは、白い画用紙にボールペンでぐじゃぐじゃに螺旋を書き続けると、
もつれた、でもまだそれが線で繋がっているとわかるくらいの
ふわふわ感を残した団子状のような感じだ。
その段階では、実はかなり疲弊しているのだけれど、
それが線だとわかるくらいの感覚が残っているので、
それでももつれた結び目があるのではないかと希望の心を燃やして
又格闘をする。
多くの場合、結果は悪い方に進む。
そしてついに、前にも後ろにも進めないような
固体に近い液状のようにどろっとした気持ちに陥って、
立ち止まってしまう。
そういう時に何をすれば良いかというと、考えないことが一番いい。
そして考えないためには、頭に別の作業を命じるのが一番いい。
気持ちが右にも左にもいけない時はぼうっとした方がいいという意見もあるだろうが、
ぼうっとするとどうしても余計なことを考えてしまう。
余計なことを考え出すと、
どうしてもどこにもいけなくなったこの状態のことを考えてしまう。
「どうしてうまくいかないんだろう、どうして人はわかってくれないんだろう」
と、又くよくよと考えてしまう。そしてどこにもいけなくなってしまう。
だから気持ちが萎えて立ち止まった時は、
仕事を一つづつ小さく砕いて、一日でできるくらいのボリュームにして、
難しくはないけれどでも他のことを考えないで済むくらいの
集中力を要する仕事を、たんたんとこなす。
そしてそういう日々を送っているうちに、
自分の心の方は不思議と流動性を取り戻してくる。
僕はそういう発見?を経験的にした。
そして僕はこれを、自分のコビトさんの力だとした。

小説『ダンスダンスダンス』で羊男(僕のコビトさんのような役回り)は、
心が停滞しどこにもいけないでいる主人公に言う。
(羊男)「大丈夫、心配することはないよ。
あんたはいるかホテルに本当に含まれているんだよ。」
「これまでもずっと含まれているし、これからもずっと含まれている。
これからすべてが始まるし、ここですべてが終わるんだ。
これがあんたの場所なんだよ。それは変わらない。
あんたはここに繋がっている。ここがみんなに繋がっている。
ここがあんたの結び目なんだよ。」
(主人公)「みんな?」
(羊男)「失われてしまったもの。まだ失われていないもの。
そういうものみんなだよ。それがここを中心に繋がっているんだ。」
・・
「どうすればいいんだろう、僕は?」と僕は前と同じ質問をもう一度してみた。
「さっきも言ったように、おいらも出来るだけのことはするよ。
あんたが上手く繋がれるように、やってみる」と羊男は言った。
「でもそれだけじゃ足りない。あんたも出来るだけのことをやらなくちゃいけない。
じっと座ってものを考えているだけじゃ駄目なんだ。
そんなことしてたって何処にもいけないんだ。わかるかい?」
「わかるよ」と僕は言った。「それで僕はいったいどうすればいいんだろう?」
「踊るんだよ」羊男は言った。
「音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。
おいらの言ってることはわかるかい?踊るんだ。踊り続けるんだ。
何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。
意味なんてもともとないんだ。そんなこと考えだしたら足が停まる。
一度足が停まったら、もうおいらには何ともしてあげられなくなってしまう。
あんたの繋がりはもう何もなくなってしまう。永遠になくなってしまうんだよ。
そうするとあんたはこっちの世界の中でしか生きていけなくなってしまう。
どんどんこっちの世界に引き込まれてしまうんだ。だから足を停めちゃいけない。
どれだけ馬鹿馬鹿しく思えても、そんなこと気にしちゃいけない。
きちんとステップを踏んで踊り続けるんだよ。
そして固まってしまったものを少しずつでもいいからほぐしていくんだよ。
まだ手遅れになっていないものもあるはずだ。使えるものは全部使うんだよ。
ベストを尽くすんだよ。怖がることは何もない。
あんたはたしかに疲れている。疲れて、脅えている。誰にでもそういう時がある。
何もかもが間違っているように感じられるんだ。
だから足が停まってしまう」

『ダンスダンスダンス』では、
「そうか、こんな時は踊るんだ、きちんとステップを踏むんだ」と納得した。
さて、足が止まりそうになっている人たち。
足を止めてはいけないよ。
踊るんだよ。踊り続けるんだ。

僕は2年から3年で銀行という勤務場所が変わる会社にいたので、
いろんなタイプの人と接っしてきた。
そういう人の中でごく稀に、
自分が今いる場所が「ろくでもない場所」であり、
自分の周りは「ろくでもない人間」ばかりだと、
誰彼問わず吐き捨てるように文句を言う人がいた。
その人を仮にAさんとしよう。
Aさんは、いろんな出来事や、いろんな人の言動を取り上げて批判した。
指摘していることそのものは、別に間違ってはいなかったと思う。
でも僕を含め周りの人たちは「そこまで言わなくてもいいのでは?
良い職場とは言えないかもしれないけど、
それほど悪い職場だろうか?」ぐらいに思っていたが、
Aさんは、こんな職場から早く別の職場に転勤したいと、いつも望んでいた。
Aさんは、悪いところを拾い上げる力が人一倍強かった。
そして、良いところをスルーする能力も、人一倍だった。
Aさんが転勤したところが、
ろくでもなくない職場だったかどうかはわからないが、
後々再びAさんに会うことがあって近況を聞いたら、
やっぱりその時も「ろくでもない場所で、ろくでもない人間ばかりだ」
と言っていた。
僕はAさんの指摘していることが正しいのか、正しくないのか、
深く考える気がしなかったし、大抵は聞き流そうとしていた。
どうしてかというと、
Aさんの話を聞いていると、気分が悪くなるからだった。

Aさんは、よほど巡り合わせの悪い、運の悪い人なのだろうか?
それは、ない。
銀行に30年努めるとして、人によって違いはあるけれども、
だいたい12回ほど職場が変わる。
その全てがろくでもない場所で、
ろくでもない人間ばかりということはあり得ない。
もしそうだとしたら、その銀行そのものがろくでもなくて、
ろくでもない人間で構成されていることになる。
でもそんなろくでもない銀行なら、みんな逃げ出すだろうし、
僕だってとっとと逃げ出していただろう。
Aさんにとっての社会と、僕にとっての社会は、現実は同じものなのだ。
でもAさんは、僕を始め一般の人が見て感じることと違うものの見方を
していたのだろう。
Aさんは多分、身の回りで起こることも周りの人も、
病んでいるのか狂っているか、そう見えたのだろう。
Aさんは実は親切な人だとすると、自分が見た診断結果を、
それは残念なことにほとんどが病的で腐っているらしくて、
みんなに知らせようとしていただけなのかもしれない。
あそこにもここにも腐っているから気をつけろよ、
と言っていただけかもしれない。
人の心や精神のあり様として、
厳しい言動の裏にそんな親切心がもしも宿ることがあるなら、
そういうこともあり得る。
でも普通に考えると、Aさんは自分が報われていない不満を、
いろんなことに紐づけて言っていただけのように思う。
Aさんは周りから自分が受け取るべきと設定した「報酬」に対して、
その設定よりも受け取りが全く少ないものだから、
ずっと不満を言っていただけのように思う。
結局、Aさんはろくでもない場所を転々とし、
周りはろくでもない人ばかり、という経験だった。

僕もAさんと同じように、時にはろくでもない場所にいると感じたこともある。
でもそんな時でも、未来はまともな社会にいたいと願わない時はない。
いついかなる時でも、未来は明るい社会であって欲しい。
僕の言う明るい社会とは、生きていて気分のいい社会のことだ。
一日のほとんどが微笑んでいられるような、そんな社会だ。
でもそんな社会を夢見つつ、
あれがいかん、これが腐っている、こいつは馬鹿だ、あいつは狂っている、
と言い募っているだけでは、明るい未来は決してやってこない。
自分が手に入れたいと設定した報酬が受け取れないと、
不満を言い募っても明るい未来はやってこない。
そういうことを、Aさんを見て思う。
Aさんの日頃の言動・振る舞いでは、明るい未来は永遠にやってこない、
ということが事後的にわかるということではないか。
明るい未来は、今ここで明るい社会を作る努力をした人に与えられるとしたら、
どうだろう。
どんなところでも、どんな時でも、
何かしら微笑ましく思えるようなものを見つけていくことが大事だ。
良いことは隠れたところにあるかもしれない。
それをスルーしてはいけない。
それを見つけ出す能力が必要だということだ。
現代はものすごく功利主義的思考がはびこっていて、
報酬が明らかでなければ努力するに値しないという人が多いが、
僕が書いたことは現代の功利主義的思考に反している。
で、どちらが明るい社会を作ることができるのか、
それは事後的にわかる。
そして、もちろん僕は何かしらを見つける努力の方に賭ける。
ああ、美味しいビールのおかげでもう書く気が失せた。
みなさん、お元気で。