2ケ月前になりますが、9月に最高裁判所で違憲判決がでました。
民法の非嫡出子の相続権規定が、憲法14条の基本的人権規定に反しているというのです。
これを読んで、何のことだかわからない人もいるかもしれません。
法律のことだし、相続のことは経験したか経験しそうな人でなければ縁がないし、
まして非嫡出子なんて言葉は法律を勉強した人以外は知らないかもしれない。
最近は、非嫡出子のことを婚外子と言われることが多い。
今年ニュースになった例でいうと、
フィギアスケートのミキティの子供は婚外子の事例だといえば、
ああそいうこと、とわかっていただけるでしょうか。
(ミキティごめんなさい。みんなが知っている、ので事例にしました。
それ以外の悪気はありません)
その婚外子の相続権(親が亡くなった時に親の財産を譲り受けられる権利)は、
通常の結婚で父母の子として生まれた嫡出子の半分だと民法で規定されていますが、
その規定は憲法14条が定める基本的人権の平等に反しているということで、
違憲となりました。
今回は、これについて書きます。
僕は「非嫡出子(婚外子)の民法の規定は改定の余地があり、
非嫡出子と嫡出子の権利は同等とするのも一つの方法だと思う。
しかし、だからと言って憲法に違反しているという判決は行き過ぎであり、
今回の最高裁判所判決は過ちを犯した」という立場です。
つまり、最高裁判所の判決を支持しません。
この立場について、出来るだけわかりやすく書くので、
お付き合いいただきたい。

先ほどのミキティの婚外子の事例で説明します。
ミキティは父親(Xさんとしましょう)が誰だか明らかにしていません。
それを、父親は実子であると認知していない、とします。
ミキティはそれなりの個人資産を保有している、としましょう。
ミキティは将来結婚し、その人の間で子供を産んだとしましょう。
そうすると、婚外子は非嫡出子、結婚して産んだ子は嫡出子となります。
ある日、ミキティは亡くなってしまいました。
その時点で相続が発生し、最初の子の非嫡出子の相続権は、
後から生まれた嫡出子の相続権の半分になる、これが今の民法の規定です。
どうです?これってやっぱりあれ?って思いますよね。
母親からみれば、非嫡出子であれ嫡出子であれ可愛さは同じ、と考えていいでしょう。
それなのに、非嫡出子というだけで嫡出子の半分しか受け取れない。
それはおかしいのではないか、と思う人は多いでしょう。
でも同じ婚外子でありながら、父親では全く権利保護されません。
この非嫡出子は実の父(誰かは明らかにされていません)が死んでも、
その相続権はありません。
認知されていないから、法律が定める非嫡出子でもないからです。
今の時代、DNA鑑定すればほぼ100%の確率で父親が確立できるのに、です。
非嫡出子の持分を平等にしても、すべての子供の相続権を平等にすることにならないのです。
家族関係は、標準形は両親がいて子供が何人かいて、が一般形です。
非嫡出子がいるということは、はなから標準形ではないことを意味します。
標準形ではないケースということになれば、
人がなすことですからありとあらゆるケースがあります。
そのすべてのケースに法律は対応することはできません。
先ほどのミキティの婚外子がミキティについて非嫡出子であっても、
不明な父親については非嫡出子でもない、ようにです。
だから民法の規定は、「こういうことにしておこう」と
想定対象を嫡出子と非嫡出子に限って規定しています。
要は知恵の出し方をどうするかというということに尽きるのであり、
制度設計の問題です。
そして今の民法は、制度設計の見直しをした方が良い、とおもいます。

ではどうして憲法違反とした最高裁判所の判断を支持しないのか、理由を2つあげます。

一つは先にも書きましたが、民法というものは正解の論理的牙城のような法律というよりも、
制度設計なのです。
制度設計ですから、最後は「こうしておこう」と国が決めるしかない。
分配の問題も、最後は「こうするから従え」で決着させるしかありません。
そんな制度設計を、憲法違反云々と、何故大鉈を振るわなければならないのでしょうか。
もし最高裁判所が主張する平等を遍く実現しようとすれば、
民法は膨大な規定になってしまい、
そのことによって逆に使い勝手が悪くならないでしょうか。

次に。相続権は憲法で平等を守らなければならないほどの権利なのでしょうか。

自分の死を意識した人は、自分の財産を誰に渡すかを決めることができます。
遺言書を書けば誰に財産を渡すかを自分が決めることができます。
それは多くの人が知っていることでしょう。
遺言書のことは民法に規定されているし、
憲法24条2項の「・・相続は・・個人の尊厳と両性の平等に立脚して
制定されなければならない」との記載と、
憲法29条の「財産権はこれを侵してはならない」の記載からいって、
本人に自分の財産の処分権(財産を渡す権利)が委ねられていると考えて良いでしょう。
ところで相続権は何でしょう?
一般的に言って、親(又は伴侶)が亡くなった時に発生する、
その亡くなった人の財産を譲り受ける権利のことです。
どうです?誰が考えても、財産を渡す権利と財産を譲り受ける権利を比べると
財産を渡す権利が強くて財産を譲り受ける権利の方が軽いということがわかります。
そうです、財産を譲り受ける権利(相続権)は弱いのです。
どれくらい弱いか、例で説明します。
お母さんが娘に「あなたにこのダイヤモンドの指輪をあげる。
とっても価値があるものよ」と言ったとします。
娘はダイヤモンドの指輪を相続できると期待するでしょう。
でも後々お母さんが「あなたにあげない」となったら、その期待は泡と消えます。
父親の財産の半分を相続できると皮算用していた子供が、
父親死亡後の遺言状で財産は全部母親に渡すとなっていれば、
子供は何も相続できません。
何だかプロ野球ペナントレース終盤のマジックナンバーと似ています。
マジックナンバーが出たり消えたりするように、
相続できるできないも、ついたり消えたりします。
ペナントレースが終われば順位が確定するように、
相続権は人が亡くなって初めて発生します(それもまだ確定していません)。
相続権は軽くて、且つマジックナンバーのようにうつろです。
そしてその権利が本人に帰属している、とは言えません。
親(譲る側)ぼ恣意に従属しています。
そして今回の問題の民法規定は、遺言書がない場合という状況において、
民法が遺言書を書かずに亡くなった(つまり自分の財産の
処分方法を明確にしなかった)人の代わりに、
配分を決めてくれたものです。
とても軽いうつろな権利の、そして財産処分方法を決めなかった場合の規定を、
どうして「基本的人権」をタテに判断しなければならないのでしょうか?
僕には全く理解できません。

相続権は血縁内のごくごく内輪の権利であり、
広く公にその権利を争うような権利ではありません。
もちろん、財産が社会性を有したもの(たとえば会社の株だったり、
著名作家の著作権だったり)であれば、相続によってその財産の帰趨がどうなるのか、
注目されることはあります。
でもそれは例外事例であって、ほとんどの相続は血縁内の分配の問題です。
逆にいうとそういう問題というものは、
内輪だけに標準的な答えで納得させることが難しい問題です。
今の非嫡出子の分配規定をおかしいという人もいれば、
おかしくないという人もいます。
それに規定だけで判断すれば良い悪いという人でも、
自分が相続を受ける立場になっら民法に異を唱えたり賛同したりと、
全く反対のことを言う可能性もあります。分配とはそういうものです。
内輪の問題や分配の問題に、「正解」はありません。

最高裁判所はみんな平等を良いことだと思っているようですが、
平等とは何でしょう?
憲法14条は、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、
政治的、経済的又は社会的関係において、差別されないと規定されています。
どう拡大的に読んでも、個人に帰属する限定的人権について書かれたものだとしか思えません。
それがすべての人の言い分は平等に扱われるベキだとしたら、
それは逆に世の中に混沌を持ち込むことになりそうです。
平等を必要以上に無条件に推し進めると、
民主主義国家・日本では自由を無条件に推し進めることと同義になると思いますが、
それは秩序の乱れと崩壊をもたらすでしょう。
法律とは極まるところ、秩序維持装置です。
そして憲法は、その秩序維持装置の法律の秩序を守るための、
国家の最高装置です。(民主主義国家というのはそういう建て付けで成り立っています)
その秩序維持装置の最高の番人たる最高裁判所の今回の判決は、
逆に秩序崩壊をもたらしている、とは言い過ぎでしょうか。

こんな文章を見つけました。
「エウリピデス知ってますか?・・・
彼の芝居の特徴はいろんな物事がぐしゃぐしゃに混乱して
身動きがとれなくなってしまうことなんです。 わかります? 
いろんな人が出てきて、そのそれぞれにそれぞれの事情と理由と言いぶんがあって、
誰もが それなりの正義と幸福を追求しているわけです。
そしてそのおかげで全員がにっちもさっちもいかなくなっちゃう んです。
そりゃそうですよね。みんなの正義がとおって、
みんなの幸福が達成されるということは原理的にありえないですからね、
だからどうしようもないカオスがやってくるわけです。
それでどうなると思います?  
これがまた実に簡単な話で、最後に神様が出てくるんです。
そして交通整理するんです。
お前あっち行け、 お前こっち来い、お前あれと一緒になれ、
お前そこでしばらくじっとしてろっていう風に。
フィクサーみたいな もんですね。そして全てはぴたっと解決します。
これはデウス・エクス・マキナと呼ばれています。
エウリピデスの 芝居にはしょっちゅうこのデウス・エクス・マキナが出てきて、
そのあたりでエウリピデスの評価がわかれるわけです。」
(『ノルウェーの森』から引用しました)
現代の裁判官はエウリピデスの芝居の神様みたいなものでしょう。
「こうしろ、あれはこうだ」と判決を下します。
この判決を下す人は最高裁判所の判事ではなくて、
下級裁判所の判事の仕事です。
今回の最高裁判所の判決は、この下級裁判所の判事のジャッジを
やりにくくしているように思えます。

この違憲判決文にも違和感がいっぱいあります。
でもそれを一つ一つ指摘することはやめて起きます。
でもこの判決には「権利」という単語は何度も出てきますが、
「義務」という言葉は使われていません。
秩序は権利と義務の相克の内に成り立つもので、
権利だけでは秩序は成り立ちません。
そういう文章を最高裁判所裁判官が書くんだということが、
判決文を学生時代以来30数年ぶりに読んだ僕の印象です。
文筆家・内田樹さんがシャーロック・ホームズを題材にして、
次のようなことを言っている。
シャーロック・ホームズの『赤毛同盟』を読んだことがない人のために補足しておこう。
「燃えるような赤毛」は稀なものかもしれないが、それを特別な価値を認められているという
妄想を抱いた赤毛のオジサンを題材にした話だ。

シャーロック・ホームズが解決した『赤毛同盟』というミステリアスな事件がある。
この短編でいちばん興味深いところは「燃えるような赤毛である」という
何の努力も要さない生得的資質だけによって
高額の報酬を約束した赤毛同盟のトリックにひっかかって、
エンサイクロペディア・ブリタニカの筆写という全く無為な労働で
日々を過ごしたJ・ウィルソン氏のきわだった愚鈍さである。
この皮肉な物語からわれわれが得ることの出来る教訓の一つは、
最低の努力(その極限は「先天的資質」である)で
うまみのある収入を手に入れようとする人間は、
その発想において本態的に愚鈍であることを宿命づけられているということである。
ウィルソン氏はこの取引があまりに市場における交換比率がよいせいで、
彼の際だった先天的資質なるものにいったいどれほどの内在的な価値があるのかという、
当然自分に向けて立ててよい問いを忌避してしまった。
有利な交換を求めるものは、
自分が市場に差し出す手持ちの財の価値を他者が過大評価することを切望する。
当然である。
けれども、この「賢い消費者」たる交換比率原理主義者を
あるピットフォール(落とし穴)が待っている。
それは、「彼が市場に差し出す財の価値がゼロであるとき、
交換比率は最大になる(だって無限なんだから)」ということである。
つねにより有利な交換比率を求めるものは、
自分の手持ち資源の価値ができるだけ過大評価されることを願う。
過大評価のカーブは、市場に差し出す自分の手持ち資源の価値が
ゼロであるときにその最高点に達する。
つまり、ひたすら有利な交換を願うものは、その論理的必然として、
やがて自分の手持ちの資源の価値がゼロであることを願うようになるのである。
悪魔的なコロラリーだが、現に、日本社会はそうなっている。

コロラリーとは帰結とか当然の結果のこと。
何でこの説を持ち出したかというと、食材偽装問題が起こっているからだ。
食材偽装の話は今回で連続3回目になり、レストランだけでなくデパートにも広がっている。
もはや「◯◯は偽装表示をしている」というレベルではない。
内田さんのロジックをこの一連の事件(まだ終わっていないが)に当てはめると、
自分が差し出す財(料理)を最小にするために食材の偽装表示を行い、
そして食べた人がそれに気づかないことをいいことに、
赤毛のJ・ウィルソン氏のように偽装表示し続け、
最低の労力によって収入を手に入れようとし続ける(それは本来愚鈍なことなのだが)
人達と企業という姿が浮かび上がった。
何で愚鈍なのかというと、そんなことがいつまでも続くわけがないでしょ、
それにそんなことが発覚したら手に入れた収入以上の損失を蒙るだろうと、
まともな人なら考えることを自分に対して問いを立てることを忌避したから。
そして、愚鈍な人たちが日本中に広がっている、ということを
今回の事件は僕たち日本人に突きつけた。
日本が悪魔的なコロニカル(結末)を迎えているのか、
そこに向かっているのかはわからないが、多くの人が日本の変節とか溶解とかを、
感じたのではないか。

では、この事件を契機に日本は自分たちが愚鈍になっていることに気づき、
こんなことは辞めようと考えるようになるかというと、
それはあまり期待できないのではないか。
今回の事件は食品や料理に限って起こっていることであって、
この社会に属する人達だけの問題だと日本人は限定するだろうし、
そして市場原理(出来るだけ有利な交換条件を求め続けること)を信奉することが、
愚鈍につながるということを受け入れることができないだろう。
それに今回の事件を食品業界特有の問題だと限定する意見が強いだろう。
前回のブログで書いた、市場に委ねる思考に問題があるという意見は、
内田樹さんの言説のように少なからず出ているが、
それを正面から考えてみようという動きになりにくい。
日本には、アメリカがオリジンの原理を吟味する姿勢がない。

日本人はアメリカがすすめる市場原理信奉という定型思考から抜け出すことは、できない。
日本を覆っている一番大きなピットフォール(落とし穴)は、
アメリカのいうことは正しいのだろうか?実は間違っているのではないだろうか?
という問いを自らに立てることを忌避しているところにある、多分。
でも残念ながら、日本は溶解しているという認識に立つことが大事だと、僕は思っている。

先日三島由紀夫故人の生前の論説を読んだ。
その論説では日本はからっぽな国になると嘆いていた。
故三島由紀夫氏は今から四十数年前も前に、
「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。
このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。
日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、
ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、
或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。
それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。」
と書いている。
民主主義が悪いという文脈や又生前の故人の一見右翼的な言動もあって、
僕自身受け入れにくいところはある。
でもつまるところ、1970年時点で今の日本の姿が予想できた、
それはすごいことだと思わざるを得ない。
故人は自身の未来予想の解は明らかにしていないが、
少なくとも1970年の時点で「日本はなくなり、後にからっぽな経済大国が残る」
兆候があったことを僕らは考えなければならない、ということだ。
故三島由紀夫氏の論説を紹介して終わりにするので、
僕のブログを読んでいただいた人それぞれで一度日本のことを考えてみていただきたい。






(参考に、論説全文を掲載します。
自決する年の夏に書いたものです)
私の中の二十五年間を考えると、その空虚に今さらびっくりする。
私はほとんど「生きた」とはいえない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ。

二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変えはしたが、
今もあいかわらずしぶとく生き永らえている。
生き永らえているどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまった。
それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善という
おそるべきバチルス(つきまとって害するもの)である。

こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終わるだろう、
と考えていた私はずいぶん甘かった。おどろくべきことには、
日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。
政治も、経済も、社会も、文化ですら。

私は昭和二十年から三十二年ごろまで、大人しい芸術至上主義者だと思われていた。
私はただ冷笑していたのだ。或る種のひよわな青年は、
抵抗の方法として冷笑しか知らないのである。
そのうちに私は、自分の冷笑・自分のシニシズムに対してこそ戦わなければならない、
と感じるようになった。

この二十五年間、認識は私に不幸をしかもたらさなかった。
私の幸福はすべて別の源泉から汲まれたものである。

なるほど私は小説を書きつづけてきた。戯曲もたくさん書いた。
しかし作品をいくら積み重ねても、作者にとっては、
排泄物を積み重ねたのと同じことである。その結果賢明になることは断じてない。
そうかと云って、美しいほど愚かになれるわけではない。

この二十五年間、思想的節操を保ったという自負は多少あるけれども、
そのこと自体は大して自慢にならない。
思想的節操を保ったために投獄されたこともなければ大怪我をしたこともないからである。
又、一面から見れば、思想的に変節しないということは、
幾分鈍感な意固地な頭の証明にこそなれ、鋭敏、柔軟な感受性の証明にはならぬであろう。
つきつめてみれば、「男の意地」ということを多く出ないのである。
それはそれでいいと内心思ってはいるけれども。

それよりも気にかかるのは、私が果たして「約束」を果たして来たか、
ということである。否定により、批判により、私は何事かを約束して来た筈だ。
政治家ではないから実際的利益を与えて約束を果たすわけではないが、
政治家の与えうるよりも、もっともっと大きな、もっともっと重要な約束を、
私はまだ果たしていないという思いに日夜責められるのである。
その約束を果たすためなら文学なんかどうでもいい、という考えが時折頭をかすめる。
これも「男の意地」であろうが、それほど否定してきた戦後民主主義の時代二十五年間、
否定しながらそこから利益を得、のうのうと暮らして来たということは、
私の久しい心の傷になっている。

◆からっぽな経済大国に
個人的な問題に戻ると、この二十五年間、私のやってきたことは、
ずいぶん奇矯な企てであった。まだそれはほとんど十分に理解されていない。
もともと理解を求めてはじめたことではないから、それはそれでいいが、
私は何とか、私の肉体と精神を等価のものとすることによって、
その実践によって、文学に対する近代主義的妄信を根底から
破壊してやろうと思って来たのである。

肉体のはかなさと文学の強靱との、又、文学のほのかさと肉体の剛毅との、
極度のコントラストと無理強いの結合とは、私のむかしからの夢であり、
これは多分ヨーロッパのどんな作家もかつて企てなかったことであり、
もしそれが完全に成就されれば、作る者と作られる者の一致、
ボードレエル流にいえば、「死刑囚たり且つ死刑執行人」たることが可能になるのだ。
作る者と作られる者との乖離(かいり)に、
芸術家の孤独と倒錯した矜持を発見したときに、近代がはじまったのではなかろうか。
私のこの「近代」という意味は、古代についても妥当するのであり、
万葉集でいえば大伴家持、ギリシア悲劇でいえばエウリピデスが、
すでにこの種の「近代」を代表しているのである。

私はこの二十五年間に多くの友を得、多くの友を失った。
原因はすべて私のわがままに拠る。私には寛厚という徳が欠けており、
果ては上田秋成や平賀源内のようになるのがオチであろう。

自分では十分俗悪で、山気もありすぎるほどあるのに、
どうして「俗に遊ぶ」という境地になれないものか、われとわが心を疑っている。
私は人生をほとんど愛さない。いつも風車を相手に戦っているのが、
一体、人生を愛するということであるかどうか。

二十五年間に希望を一つ一つ失って、もはや行き着く先が見えてしまったような今日では、
その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、
しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大(ぼうだい)であったかに唖然とする。
これだけのエネルギーを絶望に使っていたら、もう少しどうにかなっていたのではないか。

私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。
このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。
日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、
中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。
それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。(作家)
2日,3日と金沢に帰っておりました。
用事は次兄に初孫が生まれ、そのお祝いを寿(ことほ)ぐことだった。
生後1月に満たない姪の長男くんを抱いて、
その軽さと重みを両手に感じた。
ふにゃふにゃなのに時々いきんで真っ赤な顔になったり、
表情があるわけでもないのに可愛いし、泣いてもそれはそれでかわいい。
いいよね、赤ちゃんは。
短い期間だったが自分の母と岳父さん、義母さんの様子も確認できたし、
嫁の妹の次男くんの医学祭での活動も見ることができた。
旧友達と会う余裕もあったらもっといいのにと、
この頃思うようになってきたことも含め、
僕にとっての金沢は、人とのつながりと生身の自分を再発見する場所でもある。

その日は次兄の誕生日でもあり、
夜は僕たち男3兄弟と3人の嫁殿の6人で食事会をした。
次兄夫婦と親しいシェフご夫婦とその娘夫婦の4人で
営んでいるイタリアンレストランだが、
僕は以前にも来たことがある美味しいお店だ。
僕たちのためにシェフ一家は腕をふるってくれた。
じゃがいものスープ、7種の前菜、コウバコカニのパスタ、
栗のリゾット、そしてメインは牛の頬肉の煮込みと続き、
味はバラエティに富みボリュームもたっぷり。
そしてサプライズのバースデイケーキが出てきた。
ワインもスパークリングワイン、白ワインに赤ワイン二本と
たくさん飲んで、気分もハイだった僕らは、
周りのお客さんの顰蹙をものともせず、
年甲斐もなくハッピーバースデイ・トゥーユーを歌った。
料理とワインで6人の話題も弾んだ。
実家で食べている時にはしないような、ツッコミもあった。
料理とワインそしてちょっとした非日常性が、
普段の僕らが無意識で抱えている壁を乗り越えさせてくれるのかもしれない。
ある種の料理とは生身の僕たちを堪能させ元気にさせたり、
季節の移り変わりを感じさせてくれたり、
時にはそっと寄り添い体調を気遣ってくれる。
料理からもらった感動がそこにいる人たちと共有したいというエネルギーを与え、
一緒に食事をする喜びをもたらす。
そういう料理がこの世には確実にあるし、
そういう料理に出会うことも料理の楽しみの一つだ。
何も料理通になることを進めているのではない。
高級料理屋では「あの高い店で、滅多に口にできない料理を食べた」
といった体験を提供し、それは食通の喜びの一つかもしれないが、
僕はそんなことを求めていない。
日本中のお店を食べ歩いて、ランキングをつけるつもりもない。
自分にとって心地よい料理を出してくれる料理人に出会うこと。
そして自分の親しい人も料理で幸せにしてくれるお店を持つこと。
それが「料理好きということではないですか?」だと思う。
「料理のプレミアムってそういうことじゃないですか?」だと思う。
そのために自分の身体を使ってちょっとだけ努力する。
雑誌やブログの情報よりも、
自分の五感を信じ感覚を重んじる。
時にはお金が高いということもあるかもしれないが、
平均的値段よりちょっとだけ高い料金は、
料理のプレミアムに比べれば決して高いものではないと思う。
少なくとも、そういうお店は一般的値段よりも高いけれど、
経験的に目が飛び出るほど高い店ではない。

ホテルのレストランの誤表示は出◯社長の後、
日本中に波及し色んなホテルの代表の謝罪会見があった。
呆れるほど、多かった。
もしかしたら発表せずに、
誤表示したことを黙って済まそうとしているホテルのレストランがまだあるのではないか、
という気にさせるほどだった。
おかげで少し知識も増えた。
食品商品の原材料表示規制と違って、
料理の表示は法律の規制がないんだそうだ。
僕が見ていたテレビのコメンテーターは、「料理にも表示規制をすべきだ」と言っていた。
別の番組のコメンテーターは、「料理もグローバルで自由市場である以上
レストラン側もいろいろ配慮すべきで・・」と言っていた。
この二つのコメントは違う内容を主張しているが、
その発想の出処は同じように思えた。
それは「市場に委ねる」ことが正しいことであり、
その上で「市場監視や市場規制をどこまで介入させるのか」の按配の問題だと、
二人のコメンテーターは発想しているのだ。
そして二人のコメンテーターの違いは、監視や規制の按配加減の違いでしかない。
僕はこの発想そのものを、「疑ってみるべきでは?」と言いたい。

「市場に委ねる」ことは、正しいことだと思っている日本人は多い。
経済が発展してきたのはこの市場に委ねてきたからだと思っているし、
「市場に委ねる」ことの正しさは、アダム・スミスが市場には神の手がある、
と言って証明されていると思っている人も多い。
それどころか、生まれた時から「市場に委ねることが正しい」とされる教育を
文部科学省が進めたために、良し悪しの判断もなくて、
そういうものだと思っている人たちも多い。
神の手を言ったアダム・スミスは、
市場に参加する売り手も買い手もキリスト教倫理をわきまえた人達を前提にしていた。
でも現代のグローバリズムの旗手たちは、
キリスト教倫理も儒教的倫理も地域共同体倫理も持ち合わせていない。
もしも一個人として持っているとしても、
いざグローバリズムの旗手となった場合は、
自分の倫理感すら封印しなければならないだろう。
グローバリズムを推進するということは、
値段だけにルールを帰結する単純性を追求することであり、
高価=価値があるという考え方を世界中に浸透させることであり、
倫理という単一化が難しい概念は破壊すべきものだ。
規制にしても、グローバリズムの発展を阻害ものだ。
(TPPの本質は、国家によって制定されている規制を撤廃させ、
もっと自由にグローバリズムを推進するところにある)
彼らは、人々を匿名性の高い消費者という存在にすることに力を注ぎ、
(個人的属性を考慮する必要がないので、売りやすい)
規制にかからないことを一生懸命考える。
仲間たちと共にあれば、かなり多くのことが仲間内で間に合わせることができる。
それは自給自足と言われる仕組みだ。
ところが自給自足であれば、経済は発展しない。
経済は多くの無駄を生み出すことで、発展をしてきた。
無駄を生み出すには、人々に贅沢を求めさせ、もっと欲しいあれも欲しいと思わせることと、
人々のつながりを切り離し自給自足ができないようにする必要があった。
「倫理」とは原義において「倫(なかまたち)」と共にあるための「理法」のことだ。
だから「人のためではない」経済発展は、当然のように倫理を嫌う。
倫理観を嫌い、規制を嫌うグローバリズムが、
倫理観も規制もある社会で何を行うのか?
その答えは僕たちは何度も経験している。
彼らは「金が一番大事だと人を染め上げること」と、
「どうやれば規制の網にかからないで推進することができるのか?」
というテーマを常に掲げてビジネスの厳しい戦いを勝ち抜こうとしているのだ。

ホリエモンもそれ以外の事件も、
ここに帰結する。
今回のホテルレストランがやってきたことをこのようなフィールドで考えるならば、
彼らは「料理の偽表示は罪にならない」ということを知った上で行っていた、
とも考えられるのだ。
もちろん彼らはそういう証言をしていないし
(罪に問われることもないから、証言する必要もない)、
あくまでも僕の仮説でしかない。
でも今回の事件が、
多くのホテルチェーン、それはグローバリズムを多少なりとも身につけた企業、
によって行われていたことは僕にそういう思いを持たせる。

市場に委ねることを賞賛する限り、
人々の倫理観は破壊され、規制の網をくぐり抜ける人々を抑制することはできない。
レストランで出される料理を一商品だと括ってしまったら、
料理を食べる人は消費者という立場の思考から抜け出すことができない。
そして消費者は、自分が出したお金以上の価値を自分に提供することだけを要求し、
倫理的振る舞いをする気がどんどん薄くなるばかりだ。
消費者がアニマル化することも、グローバリズムの一形態と言えそうだ。
その結果、社会はますます居心地が悪くなって行く。
日本がどんどん居心地が悪くならないようにしてもらいたいが、
残念だけど、この思考から日本全体を脱出させる方法を知らない。
だけどせめて自分の周りは居心地よくしたい。
それが、生身で考える、ということだったのだ。
自分のことを自分の感性で捉え、家族のことを考え親族のことを考える。
つながりの強い人たちのことを考える。
そうやって改めて、「倫(なかまたち)」と共に生きることの楽しみを知るようになると思う。