2ケ月前になりますが、9月に最高裁判所で違憲判決がでました。
民法の非嫡出子の相続権規定が、憲法14条の基本的人権規定に反しているというのです。
これを読んで、何のことだかわからない人もいるかもしれません。
法律のことだし、相続のことは経験したか経験しそうな人でなければ縁がないし、
まして非嫡出子なんて言葉は法律を勉強した人以外は知らないかもしれない。
最近は、非嫡出子のことを婚外子と言われることが多い。
今年ニュースになった例でいうと、
フィギアスケートのミキティの子供は婚外子の事例だといえば、
ああそいうこと、とわかっていただけるでしょうか。
(ミキティごめんなさい。みんなが知っている、ので事例にしました。
それ以外の悪気はありません)
その婚外子の相続権(親が亡くなった時に親の財産を譲り受けられる権利)は、
通常の結婚で父母の子として生まれた嫡出子の半分だと民法で規定されていますが、
その規定は憲法14条が定める基本的人権の平等に反しているということで、
違憲となりました。
今回は、これについて書きます。
僕は「非嫡出子(婚外子)の民法の規定は改定の余地があり、
非嫡出子と嫡出子の権利は同等とするのも一つの方法だと思う。
しかし、だからと言って憲法に違反しているという判決は行き過ぎであり、
今回の最高裁判所判決は過ちを犯した」という立場です。
つまり、最高裁判所の判決を支持しません。
この立場について、出来るだけわかりやすく書くので、
お付き合いいただきたい。
先ほどのミキティの婚外子の事例で説明します。
ミキティは父親(Xさんとしましょう)が誰だか明らかにしていません。
それを、父親は実子であると認知していない、とします。
ミキティはそれなりの個人資産を保有している、としましょう。
ミキティは将来結婚し、その人の間で子供を産んだとしましょう。
そうすると、婚外子は非嫡出子、結婚して産んだ子は嫡出子となります。
ある日、ミキティは亡くなってしまいました。
その時点で相続が発生し、最初の子の非嫡出子の相続権は、
後から生まれた嫡出子の相続権の半分になる、これが今の民法の規定です。
どうです?これってやっぱりあれ?って思いますよね。
母親からみれば、非嫡出子であれ嫡出子であれ可愛さは同じ、と考えていいでしょう。
それなのに、非嫡出子というだけで嫡出子の半分しか受け取れない。
それはおかしいのではないか、と思う人は多いでしょう。
でも同じ婚外子でありながら、父親では全く権利保護されません。
この非嫡出子は実の父(誰かは明らかにされていません)が死んでも、
その相続権はありません。
認知されていないから、法律が定める非嫡出子でもないからです。
今の時代、DNA鑑定すればほぼ100%の確率で父親が確立できるのに、です。
非嫡出子の持分を平等にしても、すべての子供の相続権を平等にすることにならないのです。
家族関係は、標準形は両親がいて子供が何人かいて、が一般形です。
非嫡出子がいるということは、はなから標準形ではないことを意味します。
標準形ではないケースということになれば、
人がなすことですからありとあらゆるケースがあります。
そのすべてのケースに法律は対応することはできません。
先ほどのミキティの婚外子がミキティについて非嫡出子であっても、
不明な父親については非嫡出子でもない、ようにです。
だから民法の規定は、「こういうことにしておこう」と
想定対象を嫡出子と非嫡出子に限って規定しています。
要は知恵の出し方をどうするかというということに尽きるのであり、
制度設計の問題です。
そして今の民法は、制度設計の見直しをした方が良い、とおもいます。
ではどうして憲法違反とした最高裁判所の判断を支持しないのか、理由を2つあげます。
一つは先にも書きましたが、民法というものは正解の論理的牙城のような法律というよりも、
制度設計なのです。
制度設計ですから、最後は「こうしておこう」と国が決めるしかない。
分配の問題も、最後は「こうするから従え」で決着させるしかありません。
そんな制度設計を、憲法違反云々と、何故大鉈を振るわなければならないのでしょうか。
もし最高裁判所が主張する平等を遍く実現しようとすれば、
民法は膨大な規定になってしまい、
そのことによって逆に使い勝手が悪くならないでしょうか。
次に。相続権は憲法で平等を守らなければならないほどの権利なのでしょうか。
自分の死を意識した人は、自分の財産を誰に渡すかを決めることができます。
遺言書を書けば誰に財産を渡すかを自分が決めることができます。
それは多くの人が知っていることでしょう。
遺言書のことは民法に規定されているし、
憲法24条2項の「・・相続は・・個人の尊厳と両性の平等に立脚して
制定されなければならない」との記載と、
憲法29条の「財産権はこれを侵してはならない」の記載からいって、
本人に自分の財産の処分権(財産を渡す権利)が委ねられていると考えて良いでしょう。
ところで相続権は何でしょう?
一般的に言って、親(又は伴侶)が亡くなった時に発生する、
その亡くなった人の財産を譲り受ける権利のことです。
どうです?誰が考えても、財産を渡す権利と財産を譲り受ける権利を比べると
財産を渡す権利が強くて財産を譲り受ける権利の方が軽いということがわかります。
そうです、財産を譲り受ける権利(相続権)は弱いのです。
どれくらい弱いか、例で説明します。
お母さんが娘に「あなたにこのダイヤモンドの指輪をあげる。
とっても価値があるものよ」と言ったとします。
娘はダイヤモンドの指輪を相続できると期待するでしょう。
でも後々お母さんが「あなたにあげない」となったら、その期待は泡と消えます。
父親の財産の半分を相続できると皮算用していた子供が、
父親死亡後の遺言状で財産は全部母親に渡すとなっていれば、
子供は何も相続できません。
何だかプロ野球ペナントレース終盤のマジックナンバーと似ています。
マジックナンバーが出たり消えたりするように、
相続できるできないも、ついたり消えたりします。
ペナントレースが終われば順位が確定するように、
相続権は人が亡くなって初めて発生します(それもまだ確定していません)。
相続権は軽くて、且つマジックナンバーのようにうつろです。
そしてその権利が本人に帰属している、とは言えません。
親(譲る側)ぼ恣意に従属しています。
そして今回の問題の民法規定は、遺言書がない場合という状況において、
民法が遺言書を書かずに亡くなった(つまり自分の財産の
処分方法を明確にしなかった)人の代わりに、
配分を決めてくれたものです。
とても軽いうつろな権利の、そして財産処分方法を決めなかった場合の規定を、
どうして「基本的人権」をタテに判断しなければならないのでしょうか?
僕には全く理解できません。
相続権は血縁内のごくごく内輪の権利であり、
広く公にその権利を争うような権利ではありません。
もちろん、財産が社会性を有したもの(たとえば会社の株だったり、
著名作家の著作権だったり)であれば、相続によってその財産の帰趨がどうなるのか、
注目されることはあります。
でもそれは例外事例であって、ほとんどの相続は血縁内の分配の問題です。
逆にいうとそういう問題というものは、
内輪だけに標準的な答えで納得させることが難しい問題です。
今の非嫡出子の分配規定をおかしいという人もいれば、
おかしくないという人もいます。
それに規定だけで判断すれば良い悪いという人でも、
自分が相続を受ける立場になっら民法に異を唱えたり賛同したりと、
全く反対のことを言う可能性もあります。分配とはそういうものです。
内輪の問題や分配の問題に、「正解」はありません。
最高裁判所はみんな平等を良いことだと思っているようですが、
平等とは何でしょう?
憲法14条は、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、
政治的、経済的又は社会的関係において、差別されないと規定されています。
どう拡大的に読んでも、個人に帰属する限定的人権について書かれたものだとしか思えません。
それがすべての人の言い分は平等に扱われるベキだとしたら、
それは逆に世の中に混沌を持ち込むことになりそうです。
平等を必要以上に無条件に推し進めると、
民主主義国家・日本では自由を無条件に推し進めることと同義になると思いますが、
それは秩序の乱れと崩壊をもたらすでしょう。
法律とは極まるところ、秩序維持装置です。
そして憲法は、その秩序維持装置の法律の秩序を守るための、
国家の最高装置です。(民主主義国家というのはそういう建て付けで成り立っています)
その秩序維持装置の最高の番人たる最高裁判所の今回の判決は、
逆に秩序崩壊をもたらしている、とは言い過ぎでしょうか。
こんな文章を見つけました。
「エウリピデス知ってますか?・・・
彼の芝居の特徴はいろんな物事がぐしゃぐしゃに混乱して
身動きがとれなくなってしまうことなんです。 わかります?
いろんな人が出てきて、そのそれぞれにそれぞれの事情と理由と言いぶんがあって、
誰もが それなりの正義と幸福を追求しているわけです。
そしてそのおかげで全員がにっちもさっちもいかなくなっちゃう んです。
そりゃそうですよね。みんなの正義がとおって、
みんなの幸福が達成されるということは原理的にありえないですからね、
だからどうしようもないカオスがやってくるわけです。
それでどうなると思います?
これがまた実に簡単な話で、最後に神様が出てくるんです。
そして交通整理するんです。
お前あっち行け、 お前こっち来い、お前あれと一緒になれ、
お前そこでしばらくじっとしてろっていう風に。
フィクサーみたいな もんですね。そして全てはぴたっと解決します。
これはデウス・エクス・マキナと呼ばれています。
エウリピデスの 芝居にはしょっちゅうこのデウス・エクス・マキナが出てきて、
そのあたりでエウリピデスの評価がわかれるわけです。」
(『ノルウェーの森』から引用しました)
現代の裁判官はエウリピデスの芝居の神様みたいなものでしょう。
「こうしろ、あれはこうだ」と判決を下します。
この判決を下す人は最高裁判所の判事ではなくて、
下級裁判所の判事の仕事です。
今回の最高裁判所の判決は、この下級裁判所の判事のジャッジを
やりにくくしているように思えます。
この違憲判決文にも違和感がいっぱいあります。
でもそれを一つ一つ指摘することはやめて起きます。
でもこの判決には「権利」という単語は何度も出てきますが、
「義務」という言葉は使われていません。
秩序は権利と義務の相克の内に成り立つもので、
権利だけでは秩序は成り立ちません。
そういう文章を最高裁判所裁判官が書くんだということが、
判決文を学生時代以来30数年ぶりに読んだ僕の印象です。
民法の非嫡出子の相続権規定が、憲法14条の基本的人権規定に反しているというのです。
これを読んで、何のことだかわからない人もいるかもしれません。
法律のことだし、相続のことは経験したか経験しそうな人でなければ縁がないし、
まして非嫡出子なんて言葉は法律を勉強した人以外は知らないかもしれない。
最近は、非嫡出子のことを婚外子と言われることが多い。
今年ニュースになった例でいうと、
フィギアスケートのミキティの子供は婚外子の事例だといえば、
ああそいうこと、とわかっていただけるでしょうか。
(ミキティごめんなさい。みんなが知っている、ので事例にしました。
それ以外の悪気はありません)
その婚外子の相続権(親が亡くなった時に親の財産を譲り受けられる権利)は、
通常の結婚で父母の子として生まれた嫡出子の半分だと民法で規定されていますが、
その規定は憲法14条が定める基本的人権の平等に反しているということで、
違憲となりました。
今回は、これについて書きます。
僕は「非嫡出子(婚外子)の民法の規定は改定の余地があり、
非嫡出子と嫡出子の権利は同等とするのも一つの方法だと思う。
しかし、だからと言って憲法に違反しているという判決は行き過ぎであり、
今回の最高裁判所判決は過ちを犯した」という立場です。
つまり、最高裁判所の判決を支持しません。
この立場について、出来るだけわかりやすく書くので、
お付き合いいただきたい。
先ほどのミキティの婚外子の事例で説明します。
ミキティは父親(Xさんとしましょう)が誰だか明らかにしていません。
それを、父親は実子であると認知していない、とします。
ミキティはそれなりの個人資産を保有している、としましょう。
ミキティは将来結婚し、その人の間で子供を産んだとしましょう。
そうすると、婚外子は非嫡出子、結婚して産んだ子は嫡出子となります。
ある日、ミキティは亡くなってしまいました。
その時点で相続が発生し、最初の子の非嫡出子の相続権は、
後から生まれた嫡出子の相続権の半分になる、これが今の民法の規定です。
どうです?これってやっぱりあれ?って思いますよね。
母親からみれば、非嫡出子であれ嫡出子であれ可愛さは同じ、と考えていいでしょう。
それなのに、非嫡出子というだけで嫡出子の半分しか受け取れない。
それはおかしいのではないか、と思う人は多いでしょう。
でも同じ婚外子でありながら、父親では全く権利保護されません。
この非嫡出子は実の父(誰かは明らかにされていません)が死んでも、
その相続権はありません。
認知されていないから、法律が定める非嫡出子でもないからです。
今の時代、DNA鑑定すればほぼ100%の確率で父親が確立できるのに、です。
非嫡出子の持分を平等にしても、すべての子供の相続権を平等にすることにならないのです。
家族関係は、標準形は両親がいて子供が何人かいて、が一般形です。
非嫡出子がいるということは、はなから標準形ではないことを意味します。
標準形ではないケースということになれば、
人がなすことですからありとあらゆるケースがあります。
そのすべてのケースに法律は対応することはできません。
先ほどのミキティの婚外子がミキティについて非嫡出子であっても、
不明な父親については非嫡出子でもない、ようにです。
だから民法の規定は、「こういうことにしておこう」と
想定対象を嫡出子と非嫡出子に限って規定しています。
要は知恵の出し方をどうするかというということに尽きるのであり、
制度設計の問題です。
そして今の民法は、制度設計の見直しをした方が良い、とおもいます。
ではどうして憲法違反とした最高裁判所の判断を支持しないのか、理由を2つあげます。
一つは先にも書きましたが、民法というものは正解の論理的牙城のような法律というよりも、
制度設計なのです。
制度設計ですから、最後は「こうしておこう」と国が決めるしかない。
分配の問題も、最後は「こうするから従え」で決着させるしかありません。
そんな制度設計を、憲法違反云々と、何故大鉈を振るわなければならないのでしょうか。
もし最高裁判所が主張する平等を遍く実現しようとすれば、
民法は膨大な規定になってしまい、
そのことによって逆に使い勝手が悪くならないでしょうか。
次に。相続権は憲法で平等を守らなければならないほどの権利なのでしょうか。
自分の死を意識した人は、自分の財産を誰に渡すかを決めることができます。
遺言書を書けば誰に財産を渡すかを自分が決めることができます。
それは多くの人が知っていることでしょう。
遺言書のことは民法に規定されているし、
憲法24条2項の「・・相続は・・個人の尊厳と両性の平等に立脚して
制定されなければならない」との記載と、
憲法29条の「財産権はこれを侵してはならない」の記載からいって、
本人に自分の財産の処分権(財産を渡す権利)が委ねられていると考えて良いでしょう。
ところで相続権は何でしょう?
一般的に言って、親(又は伴侶)が亡くなった時に発生する、
その亡くなった人の財産を譲り受ける権利のことです。
どうです?誰が考えても、財産を渡す権利と財産を譲り受ける権利を比べると
財産を渡す権利が強くて財産を譲り受ける権利の方が軽いということがわかります。
そうです、財産を譲り受ける権利(相続権)は弱いのです。
どれくらい弱いか、例で説明します。
お母さんが娘に「あなたにこのダイヤモンドの指輪をあげる。
とっても価値があるものよ」と言ったとします。
娘はダイヤモンドの指輪を相続できると期待するでしょう。
でも後々お母さんが「あなたにあげない」となったら、その期待は泡と消えます。
父親の財産の半分を相続できると皮算用していた子供が、
父親死亡後の遺言状で財産は全部母親に渡すとなっていれば、
子供は何も相続できません。
何だかプロ野球ペナントレース終盤のマジックナンバーと似ています。
マジックナンバーが出たり消えたりするように、
相続できるできないも、ついたり消えたりします。
ペナントレースが終われば順位が確定するように、
相続権は人が亡くなって初めて発生します(それもまだ確定していません)。
相続権は軽くて、且つマジックナンバーのようにうつろです。
そしてその権利が本人に帰属している、とは言えません。
親(譲る側)ぼ恣意に従属しています。
そして今回の問題の民法規定は、遺言書がない場合という状況において、
民法が遺言書を書かずに亡くなった(つまり自分の財産の
処分方法を明確にしなかった)人の代わりに、
配分を決めてくれたものです。
とても軽いうつろな権利の、そして財産処分方法を決めなかった場合の規定を、
どうして「基本的人権」をタテに判断しなければならないのでしょうか?
僕には全く理解できません。
相続権は血縁内のごくごく内輪の権利であり、
広く公にその権利を争うような権利ではありません。
もちろん、財産が社会性を有したもの(たとえば会社の株だったり、
著名作家の著作権だったり)であれば、相続によってその財産の帰趨がどうなるのか、
注目されることはあります。
でもそれは例外事例であって、ほとんどの相続は血縁内の分配の問題です。
逆にいうとそういう問題というものは、
内輪だけに標準的な答えで納得させることが難しい問題です。
今の非嫡出子の分配規定をおかしいという人もいれば、
おかしくないという人もいます。
それに規定だけで判断すれば良い悪いという人でも、
自分が相続を受ける立場になっら民法に異を唱えたり賛同したりと、
全く反対のことを言う可能性もあります。分配とはそういうものです。
内輪の問題や分配の問題に、「正解」はありません。
最高裁判所はみんな平等を良いことだと思っているようですが、
平等とは何でしょう?
憲法14条は、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、
政治的、経済的又は社会的関係において、差別されないと規定されています。
どう拡大的に読んでも、個人に帰属する限定的人権について書かれたものだとしか思えません。
それがすべての人の言い分は平等に扱われるベキだとしたら、
それは逆に世の中に混沌を持ち込むことになりそうです。
平等を必要以上に無条件に推し進めると、
民主主義国家・日本では自由を無条件に推し進めることと同義になると思いますが、
それは秩序の乱れと崩壊をもたらすでしょう。
法律とは極まるところ、秩序維持装置です。
そして憲法は、その秩序維持装置の法律の秩序を守るための、
国家の最高装置です。(民主主義国家というのはそういう建て付けで成り立っています)
その秩序維持装置の最高の番人たる最高裁判所の今回の判決は、
逆に秩序崩壊をもたらしている、とは言い過ぎでしょうか。
こんな文章を見つけました。
「エウリピデス知ってますか?・・・
彼の芝居の特徴はいろんな物事がぐしゃぐしゃに混乱して
身動きがとれなくなってしまうことなんです。 わかります?
いろんな人が出てきて、そのそれぞれにそれぞれの事情と理由と言いぶんがあって、
誰もが それなりの正義と幸福を追求しているわけです。
そしてそのおかげで全員がにっちもさっちもいかなくなっちゃう んです。
そりゃそうですよね。みんなの正義がとおって、
みんなの幸福が達成されるということは原理的にありえないですからね、
だからどうしようもないカオスがやってくるわけです。
それでどうなると思います?
これがまた実に簡単な話で、最後に神様が出てくるんです。
そして交通整理するんです。
お前あっち行け、 お前こっち来い、お前あれと一緒になれ、
お前そこでしばらくじっとしてろっていう風に。
フィクサーみたいな もんですね。そして全てはぴたっと解決します。
これはデウス・エクス・マキナと呼ばれています。
エウリピデスの 芝居にはしょっちゅうこのデウス・エクス・マキナが出てきて、
そのあたりでエウリピデスの評価がわかれるわけです。」
(『ノルウェーの森』から引用しました)
現代の裁判官はエウリピデスの芝居の神様みたいなものでしょう。
「こうしろ、あれはこうだ」と判決を下します。
この判決を下す人は最高裁判所の判事ではなくて、
下級裁判所の判事の仕事です。
今回の最高裁判所の判決は、この下級裁判所の判事のジャッジを
やりにくくしているように思えます。
この違憲判決文にも違和感がいっぱいあります。
でもそれを一つ一つ指摘することはやめて起きます。
でもこの判決には「権利」という単語は何度も出てきますが、
「義務」という言葉は使われていません。
秩序は権利と義務の相克の内に成り立つもので、
権利だけでは秩序は成り立ちません。
そういう文章を最高裁判所裁判官が書くんだということが、
判決文を学生時代以来30数年ぶりに読んだ僕の印象です。