ただの白いご飯、それも「料理」なのだ。
京都四条にある割烹『じき 宮ざわ』で昼食コースを食べた時、
魚や野菜の美味しい料理をいただいた最後、
「締めは3種のご飯でございます。
それぞれの味の違いをお楽しみください』と案内された。
少し大きめの握り鮨のシャリくらいの
炊きたての白いご飯が盛られた一椀が目の前に出され、一口頬張った。
ホクホクした温もりと粘り気を帯びた弾力、甘みと旨味と、
そしてご飯特有の香りが口の中に広がった。
おいしい。
一椀食べ終わった頃合いで二椀目が来て、
同じように口の中に広がる。
でも粘りと甘みが先ほどとは違う。
甘みが増していて、粘りも強かったように思うが、これも美味しい。
三椀目のご飯は、
甘みはこれまでの二つほどでなく、
弾力もむしろ固めだが、旨味があって香りが立っていた。
これが一番僕の好みに近い気がした。
三つのご飯は、三つの味わいを持っていた。
毎日食べても飽きがこないのがご飯だと思っていたけど、
ご飯そのものを味わう楽しみがあるのだと、
50歳を超えた男はその時始めて知った。
自宅の炊飯器が壊れて、新しい炊飯器を買いに昨日電器店に行った。
電気炊飯器コーナーは、いろんなメーカーの商品が並んでいた。
どの商品も美味しくご飯が炊ける機能をアピールしているが、
僕はさっぱりわからない。
そわそわしている僕を見つけた店員さんが横に来て、いろいろ説明してくれた。
おかげで、美味しいご飯を炊くために各メーカーが狙っていることが少しわかった。
でもその場ではとても決めきれないので、
カタログで検討することにした。
試食ができないので、メーカーが主張する理屈と
僕を納得させるプレゼンが優れている商品に決めることにした。
選んだ4社のカタログを読んで、考えるポイントが見えてきた。
ここでは全てを書ききれないので、2つだけご紹介する。
まず炊き込みで、各社がどう腕を振るうかにある。
その腕の見せ所は、僕らが自然と美味しいと連想する「かまど炊き」に
どれだけ迫ったか、とまとめることができる。
マキの強火でかまどは高温になりそして吹き上がるように、
炊飯器の釜が連続高温を維持し、中のお米が踊るような状態を作る。
IHという技術が発達したおかげで、連続高温が実現するようになったのだ。
おコゲが作れるようになり、おコゲ好き人の食欲をそそる機種もある。
そのシノギは、かまど釜とか炭素釜、羽釜とかを
アピールして、互いが削りあう。
もう一つは、個々人ご飯の好み、それにおにぎりとかお寿司とかの用途に合わせて、
硬さと粘りを分けられるようになっている。
カタログを読んで、硬い・柔らかいと、モチモチとシャッキリとは
違うものだということを知った。
メーカーによっては、更にコシニシキとかササニシキとか、
アキタコマチとかに対応した炊き方ができるようになっていた。
他には、ご飯の旨味が吹き上がった湯気に乗って逃げて行くのを
どうやって防ぎご飯に戻すかとか、
保温中のご飯の乾燥を防ぐとか、
ご飯の研ぎにも力を入れているメーカーもある。
メーカーは、よくもここまでご飯を追求してくれるものだと、
つくづく思う。
それらを一言で言うならば、
「美味しいご飯を食べる」ために開発されているのだろう。
でも、その「美味しい」が、
硬さや粘りで個人の好みが別れ、
ご飯の用途によって別れ、
お米の種類によって別れ、
炊きたてのご飯か保温ご飯かで別れ、
ご飯の研ぎ方で別れたりして、
途端に多様性を発揮して行く。
多様性を発揮して、
日本中に遍く、たくさんのご飯好きの人々に喜んでもらうために、
メーカーは日夜開発を行っているのだ。
数年前にガラパゴス化という言葉が流行し、
TVや携帯電話で日本メーカーのいろんな機能を織り込んだ商品が
シンプルさを求める海外で全く受け入れられなかったことが批判された。
その目線でいうなら、今の炊飯器はガラパゴスそのものだろう。
でも、誰かがこの炊飯器をガラパゴスだと批判したとしても、
その批判が広がるとは思えない。
多様な機能を盛り込んだ、いろんな商品の中から一つを選ぶことは、
とても大変で面倒なことだけど、
その機能は一人一人の好みに対応するためだということならば、
日本の消費者はメーカーの意図に乗ろうとする。
だから、炊飯器はガラパゴスでいいんだ。
日本のメーカーはどうしてこんなにいろんな機能を織り込んだ商品を開発するのか?
一つは、日本人は凝り性であれこれ考える民族、だからだろう。
又「私の気持ち、わかって欲しい」ということが
脈々と培われ、いろんな要求をする消費者を育てた民族、だからだろう。
それと、僕らはもうその思想を忘れてしまっているけれども、
大乗仏教の「たくさんの人々を救う」教えが、
日本人の思考や行動の中に残っているからではないだろうか。
それに、もしかしたらということだが、
お米一粒に魂が宿っているからそのお米を美味しくすることは使命である、
と無意識に思っているのかもしれない。
開発するメーカー側が凝り性で、
使う消費者側がそれぞれのニーズを要求し、
そういう人々を何とかして救おうとする土壌だから、
(お米の国という自負や使命も)
そこで生まれる商品は世界のどこにもないほど多様な機能を持つ商品になる。
一人一人の好みに応えることでたくさんの人々に喜んでもらう、という構図だ。
欽明天皇の時代に日本に入ってきた仏教は、
徐々に日本人に馴染んでいって、
最澄は「山や川や草木にも仏性は宿っているんだ」と思想し、
さらには「苦しみ悩んでいる悪人こそ、阿弥陀如来によって救われるのだ」と親鸞が思想した。
日本の大乗仏教は、特に救済に強い思い入れがある。
それは二人の天才思想家の登場によってそうなったとも、
逆にみんな救われたいと思う民族だから二人の天才を生んだ、とも言える。
家電製品が、人々の暮らしを楽にするためにあるならば、
それは大乗仏教の抜苦与楽を具体的に実行していることにある。
そうであるなら、まさに最澄も親鸞も日本そのものであるように、
日本家電製品がガラパゴスであるのは日本そのものだからなのだ。
日本メーカーに対してガラパゴスを批判することは、
「お前は何で日本人なんだ?」と問うことに等しいことになる。
それは意味がないことで、
日本はガラパゴスで良いのだ。
考えるべきは、そこではない。
こだわりや細分化が悪いのではなくて、
全てを遍くまとめる力が、アップルのジョブスのパワーを思うと、日本人が弱いところだ。
一つで全てを叶える、そこをもっともっと思想しなければならない。
全てを一つの掌の中に握ること、
一握の砂とはどういうことなのか、
個々人の思いを満たしてそれを普遍化するとはどういうことなのか、
それが見えたとき、
そこに日本が未来を開くヒントがあるように思う。