オリンピック招致が決定した時、大喜びした猪瀬さんが都知事を辞任して、
年明けの東京で都知事選が行われる。
誰が選挙に出るのか、安倍自民党は誰を立てるのかあたりが年末までの争点だった。
これまでの選挙で都民が東京都知事を選ぶ基準は、
人気や知名度に大きく依存している、と思う。
政治的手腕や実績をじっくり判断するというよりは、
自分がその人を知っているかどうか、
その人がきちんとした政治をやってくれそうな"フリ"をしているかどうか
(要は役者っぷりがいいか悪いか)、
が判断基準になっている。その判断基準によって、
マスコミに出る時は威勢のいいことを言いながら、老いを晒す石原さんを選び、
マスコミに良く登場し口は良く回るが、政治実績のない猪瀬さんを選んだ。
そんな都民を前にして年末時点で予想された立候補候補は、
舛添要一元厚労相、宇都宮健児前日弁連会長、田母神俊雄元航空幕僚長、
それと東国原元宮崎知事となっていた。
ところが年明けから、細川護煕前首相の立候補が、
「脱原発」を掲げて取り沙汰されるようになった。

福島原発事故の恐怖は身にしみる。
でも、快適な今の生活を維持し経済成長も望む以上電力供給は大事であり、
原発稼働はやむを得ないと思う気持ちも強い。
喉元過ぎれば熱さを忘れる、冷めやすい国民性もある。
昨年小泉前首相が脱原発を提唱した時は、
安倍自民党は原発推進していることから無視しようとしたし、
国民はその提唱そのものに、小泉純一郎独特のパフォーマンスの匂いを感じた。
国民は原発についてジレンマを抱えてはいるものの、
あえてそれを正面から見据えようとはせず、
通俗的表現をするなら、時の流れるままに身を任せてきた。

原発において東京都民は受益者であり被害者だ。
電力を沢山使って明かりをもって昼夜を問わない社会を作り、
世界有数の消費社会を作り上げた。
東京にいればなんでもできるし、何でも手に入る。
都民はこの東京という街を通じて、原発の受益者だ。
都民の被害はどうか。
福島県民、特に原発のそばに住居があった人達は、
移転させられたり農業や漁業がやめさせられたりといった直接被害を受けている。
その福島原発の放射能は、詳しい数字は知らないが、風や海を媒介に東京の街に及んでいる。
わずかな放射能を長く浴びていると、もしかしたら人体に悪影響があるかもしれない。
政府は人体に影響はないというが、
原発事故に対して後手後手の対応しかできていない政府は、
大事なことを隠しているかもしれないと、都民は不信感を抱いている。
信じられない不安と何が起こるかわからない恐怖。
そういう漠然とした恐怖を抱かされている点で、都民も被害者と言える。
又原発を推進したい日本の大企業の本社は東京にあり、
その本社に勤める人も多くいて、
企業の損得ベースの思惑や思考が、都民の血肉に流れている。
経済優先の価値観に染まった都民、
原発の受益者であり被害者でもある都民に、
細川さんは脱原発を問おうというのだ。

細川前首相をパフォーマーという人はいないだろう。
首相になった時も、辞めた時も、パフォーマンスとは無縁だった。
代議士を辞めた後に熊本に戻って陶芸に夢中になって、
遊業にいそしんでいた。
むしろ、栄華とは別の生き方、
吉田兼好や鴨長明たちが作り上げた隠遁生活という日本文化が持つ一つの風情を、
現代風に、豊かな生き方として細川さんは楽しんでいるように見える。
だから、細川さんが脱原発という時、
それを選挙に勝ちたいがための手段やパフォーマンスとして人々は見ず、
判断基準として都民に提示してくる、と思われる。
過去の都知事選の判断基準に照らし合わせると、
知名度は十分だが、都政を担う演技は不十分ではないか、というところではないか。
細川さんは、脱原発をどのようにして、選挙の争点に仕立て上げて行くのだろうか?
小泉元首相の賛同が必要と言っているところが、
この難しいテーマの触媒という役目を期待しているのだろうか。

佐伯啓思さんは『反・幸福論』の中で、
脱原発に向かうのかそれとも原発推進なのかは、大きな価値の選択だと言っている。
「われわれはたいへんに深刻な二者択一に直面してしまったのです。
ひとつは、原発建屋の爆発によってわれわれの豊かさもふっとばされたと割り切り、
もはやこれまでのような豊かさの追求は断念する、という方向。
もうひとつは、あくまでグローバルな市場競争のさなかで
これまで以上の豊かさを追求するためにより安全な原発を開発するという方向。
この二つです。
これはテクニカルな政策的課題ではない。価値の問題なのです。
脱原発は、原発はもうこりごりだ、というただの街角のつぶやきではなく、
脱成長路線へと価値転換をはかる、という覚悟の問題です。」
「これは大きな分水嶺です。必要なのは価値の選択なのです。
安全性やエネルギー選択にかかわるテクニカルな問題というより、
価値観の問題なのです。
電気料金は安くしてくれ、24時間コンビニをあけてくれ、
町にはこうこうと明かりをともしてくれ、
電車にはいつでも待たずに乗らしてくれ、
中国や韓国に追い越されるのは困る。
そういうのなら、原発反対というわけにはいかないのです。」
佐伯さんは原発問題は大事な価値の選択だとしながら、
日本人がこの問題を前にして逡巡しているのは、
技術というものについて西洋人やアメリカ人のような思想を
日本人は持っていないからだと話を展開して行きます。
でもそれはここでは触れません。
細川さんが脱原発を引っさげて立候補すれば、
どういう形であれ都民は何らかの回答を出すことになる、
その行方を見守りたいからです。
僕自身は脱原発に賛成です。
脱原発は経済成長優先からの決別であり、
それは今の近隣諸国の軋轢に一石を投じ、
日米の関係にも大きく影響を及ぼすでしょう。
しかし、今の延長線上を突き進んでも日本は溶解して行くしかない。
都民一人一人がどういう選択をするのか、
それを見守りたいと思います。

安倍首相が靖国神社に参拝し極東アジアは騒がしくなり、
そしてアメリカや世界も反応した。
アメリカの反応が強烈だった。
アメリカ駐日大使館は、
「日本の指導者が近隣諸国との緊張を悪化させるような行動をとったことに、
アメリカ政府は失望している」とした。
日米の外交上の表現でこれほどきつい表現は過去になかったのではないか。
さらにこの声明は、
「首相の過去への反省と日本の平和への決意を再確認する表現に注目する」
と結んでいる。日本語では「注目する」とさらりとしているが、
英語の原文はWe take note of the Prime Minister's expressionとなっており、
もっとキツイ態度なのだ。
直截な言い方をするなら、先生が問題を起こした生徒に対して
今後どんな言動をするのか記録する、
ということである。

阿部首相の右的言動について、アメリカは一貫して抑制するように注意してきた。
今年春に内閣の要人並びに多くの国会議員が靖国参拝を行った時も、
アメリカは裏で安倍内閣に厳しい注意をしたと聞いている。
それ以降安倍内閣は経済重視を前面に出し、右的発言や憲法改正を封印し、
夏の参議院選挙を勝った。
アメリカもケネディを日本大使に任命し、日本との関係強化のメッセージを送った。
国会の多数を抑え、安倍政権の進もうとする道を抑制できるものは国内になくなり、
秋の秘密保護法も強行突破した。
集団的自衛権もアメリカが容認支持した。
これらのことで阿部首相は自信を深めたのか、
関係強化の強さを考えれば靖国神社参拝は、アメリカは容認はしないだろうが、
批判もしないだろうと考えたのではないだろうか。
しかし、アメリカは同盟強化と靖国参拝は別物、と捉えていたのだ。
むしろ、靖国参拝を続けるならば同盟強化も見直す可能性もありうる、
というスタンスであることが今回のアメリカの動きで垣間見えてきた。
小さいことだが、日米防衛相会談をアメリカが拒否するらしい。
もしもだが、来春のオバマ大統領の訪日が中止にでもなるとしたら、
アメリカの日本に対する意図がはっきりわかるのではないか。
アメリカの日本に対する思いは、
極東外交を刺激することなくおとなしくして、
一方で軍事的には日本の軍事強化を求めている、というところではないか。
それは、アメリカの中国に対する立場から来ている、ということになるだろう。
アメリカは、中国に対して外交では経済利益を優先し対立を避ける一方で、
中国の軍事強化に対しては驚異を感じていて、
軍事対応の一部は日本に肩代わりさせたい。
この立ち位置があるために、今回の阿部首相の靖国神社参拝に対して反発した。
反発する理由は、中国が軍事強化することを正当化する理由を与え、
韓国が日本と組めないことを正当化する理由を与えたことになるからだ。

今の日本人は戦後のどの時代よりも愛国心が高いと思う。
そのことは悪いことではない。
しかし行き過ぎた愛国心は、
自国の正当性を主張するあまり他国を非と攻撃することになり、
他国とのいざこざを起こすことになる。
中国や韓国の愛国心、とりわけ反日感情は、
このいざこざの域になっているという不安をここ数年感じてきた。
中国や韓国で繰り返される反日運動をテレビや新聞で見せられて、日本人も反発した。
日本人の中に、靖国神社に参拝して何が悪い、という気分もあるだろう。
もっと言えば、第二次世界大戦を起こしたのは、
自衛のための戦争だったという考えもないとは言えず、
GHQによって主導された東京裁判も
アメリカによって戦争犯罪を押し付けられたものだ、と考える人もいる。
阿部首相の靖国神社参拝に反発したのは、
靖国参拝は、日本人にとっては多くの戦没者の御霊を安らかしめる正当なことであるが、
中国や韓国にしてみれば、
侵略行為を先導した戦犯者たちを正当化しようとする許されざる行為となる。

サンフランシスコ講和条約以降の日本とアメリカは、
アメリカ主導の下での軍事同盟を進めるものの、
外交、特に極東外交、において日本の自由性は認めない、
という関係を続けてきた。
講和条約によって日本は独立国として認められたと国民に伝えられたが、
アメリカとの関係においてはそうではない。
この関係は今まで大きな問題を起こすことがなく機能してきた。
日本は外交的にアメリカと対立する必要はなかったし、
日米同盟は日本は軍事費を抑え経済発展に投入できた。
ところが、極東のいざこざが高まってきた今、
これが大きな問題を起こして行くことが懸念される。

残念なことだが、2014年の極東がますますヒートアップするだろう。
(今回の阿部首相の靖国神社参拝は、中国や韓国に油を注いだことになる。)
そうなるとその反動で、日本人もますます右傾化するだろう。
その国民の意識を受けて、阿部首相は自己の信条を政治に注ぐかもしれない。
アメリカは、当然反発する。
場合によっては首相の座から降ろそうとするだろう。
今までなら、それで首相が変わり、アメリカの意図を組む人が首相になった。
でも、今の日本人はそれを素直に受け入れるのだろうか?
アメリカの意図、それは決して言葉にされていないが、
日本をアメリカの従属関係においた意図、がだんだん明らかになっていくとしたら、
今の日本人はそれを受け入れられるだろうか?
沖縄知事の辺野古工事承認の決断は、政治家の決断としては立派なものだと思うが、
県民は受け入れてくれるのだろうか?
もし沖縄県民にとって許し難い事件が起こり、
駐留米軍に対する反発運動と
アメリカ政府が日本に従属をあからさまに求めることが重なることにでもなれば、
アメリカへの反発は1960年代の安保闘争を超えるものにもなりかねない。
空想でしかないが、そんな空想が描けるような状況にある。
日本人が愛国心を強めていけば、
どうしても日本とアメリカのいびつな関係にスポットが当たってしまう。

中国には中国の信条がある。しかしその信条は日本は認め難い。
韓国には韓国の信条がある。しかしその信条は日本は認め難い。
日本には日本の信条がある。しかしその信条は中国と韓国は認め難い。
これが今の極東の状態だ。
そして、この関係にアメリカが利害得失をもって絡んでいる。
日本の切り札は、日米同盟だ。
この切り札の存在を中国も韓国も知っているし、
この切り札を弱められないかと画策している。
そんな状況のなか、日本は自ら切り札の力を弱めることをした。
中国も韓国もここぞと切り札弱体化策を進めるだろう。
その挑発に乗ってヒートアップすればするほど、
日米同盟でアメリカは本当に日本のために戦ってくれるのかというところにいく。
アメリカは、そうなってはならないから、日本を抑えにかかる。
そんなアメリカと日本がもつれたら、
喜ぶのは中国であり韓国、
墓穴を掘りかねないのは日本、なのだ。
極東アジアは、利害得失も国家の信条も錯綜している。
阿部首相は自己の信条で行動することが許されるような
そんな易しい情勢にないことを、
痛感してもらいたい。



冬の電車が線路の上をひたすら前に進む。
先頭の窓から見える景色は、
電車が前へ進むとは逆にどんどん後ろに流れていく。
雪が残る地面、鈍く蒼い空に、寒さを増幅するような針葉樹の林。
そして無機質に冷たく光り、どこまでも続く線路。
外の景色からは、自分の存在を主張するような音は聞こえない。
ただガタンゴトン、ガタンゴトンと反復する音だけが耳に届く。
そんな映像と音がテレビ画面から長々と流れる・・・
ノルウェーの首都オスロと同国第二の都市ベルゲンを結ぶ7時間を超える行程を、
公共放送局NRKがノーカットで流した。
(トンネルでは過去の映像を流したそうです)
ノルウェーでは、このテレビ放送を多くのノルウェー人が見て人気となった。
テレビ局は勢いに乗って、次は船からの映像、
暖炉の火や編み物を編む様子を放送した。
これらはスローテレビと言われ、今注目を集めている。

テレビ制作者は、番組がどうやったら多くの人に見てもらえるのか、
いつも頭を悩ませている。
ドラマならば息つく暇もないほどの展開や、
込み入ったストーリーをどのように作り込むかに頭をひねる。
ところがスローテレビは、そんな展開やストーリーとは無縁だ。
むしろその逆で、ダラダラと続くことが特徴と言っていい。
つまりスローテレビはほとんどの番組制作者にとって、
どうして多くの人が見るのか「よくわからない」番組なのだ。

ノルウェーでも、このスローテレビが何故ヒットしているのか物議を醸している。
番組の斬新さや奇抜さに惹きつけられている、という人がいる。
同じような番組が多い中で、
その流れに逆行しリラックスし考える機会を与えた、という人もいる。
厳しい意見を言う人もいる。
オスロ経営大学のトロン・ブリンドヘイム学長は
「あまりに多くの人が馬鹿げた番組に見入っている。」と非難する。
好意的評価と批判的評価とが混在するが、
これらの評価には、言葉にされていないけれども、
一つの「当たり前」があると思う。
それは「テレビ番組は意味あるものであり、
人々の興味を惹きつけるものでなければならない」ということ。
誰も言葉にしないのは、それがcommon senseだからだ。

科学的な前進的・統合的推理法では、
前提をステップにして推理を前に進める。
よくわからないものはその前提にそぐわないもの、
自分の説に対する誤差として扱うことが多い。
トロン先生にとって、スローテレビは自説の誤差であり、
馬鹿げた番組を見る馬鹿げた人々がいると切って捨てる。
でもトロン先生の推理思考は、実はほとんどの人が採用する思考であり、
要は好感か嫌悪で評価が別れるだけだ。
ほとんどの人はCommon senseに縛られているのだから、
僕らはトロン先生を「何もわかっていない」と非難できるものでもない。

推理といえば、やはりシャーロック・ホームズにご登場いただこう。
シャーロックホームズは、親友ワトソンに次のように語る。
「君にはもう説明したはずだが、
うまく説明できないものはたいていの場合障害物ではなく、手がかりなのだ。
この種の問題を解くときに大切なことは遡及的に推理するということだ。
このやり方はきわめて有用な実績を上げているし、
簡単なものでもあるのだが、人々はこれを試みようとしない。
日常生活の出来事については、たしかに『前進的に推理する』方が役に立つので、
逆のやり方があることを人々は忘れてしまう。
統合的に推理する人と分析的に推理する人の比率は50対1というところだろう。
仮に君が一連の出来事を物語ったとすると、
多くの人はそれはどのような結果をもたらすだろうと考える。
それらの出来事を心の中で配列して、そこから次に何が起こるかを推理する。
けれども中に少数ではあるが、ある出来事があったことを教えると、
そこから出発して、その結果に至るまでにどのようなさまざまな前段があったのかを、
独特の精神のはたらきを通じて案出することのできる者がいる。
この力のことを私は『遡及的に推理する』とか、
『分析的に推理する』というふうに君に言う。」
よくわからないものを直面した時は、
手がかりだと考えて、そこから訴求的に分析的に考える必要がある。
言葉にすると簡単なようだが、実は独特で、普段の思考と全く違う。
ホームズの考えでは、出来合いの仮説で「うまく説明できないもの」であればあるほど、
「それを説明できる仮説」の数はむしろ絞り込まれてくる。
そしてその絞り方は、たいていの場合「あるはずのないものがある」
「あるはずのものがない」という欠性的な、あるいは迂回的なかたちで示される。

番組を制作したNRK制作局長は
「これは文字通りのリアリティー番組。編集によって削られることもなく、
リアルタイムで放映される正真正銘の真実だ」と語る。
でもこの制作者の意図を受け入れ、
真実を見るためにこの番組を見たという人がどれほどいるのか、僕は疑わしい。
テレビ番組で語られる真実は、
全て番組提供側の意図によって切り接ぎされ編集されたものだ。
我々はそれを真実として見せつけられ、刷り込まれている。
そういう風に刷り込まれた我々が、
ただダラダラと流れる放送を真実と認識するとは考えにくいと思う。
番組制作者の意図と違うところに、視聴者は惹きつけられたのではないだろうか。

僕もスローテレビに興味を持ったので、YouTubeでその電車の番組を見た。
なるほど、単調だ。
でも普通のテレビ番組と違ったテイストを感じた。
なんて言うのか、テレビを見ているというよりもテレビの中にいる気分。
その車窓の前にいて、自分が外の景色を見ている。
そして、考えるということが虚ろになっていく。
日常において視覚情報は、人が判断する上で大切なものだが、
スローテレビでは視覚情報が麻痺していく感じだ。
スローテレビには、普通のテレビ番組ならあるはずの時間枠が感じられない。
時間枠。それは始まりと終わりがある。
テレビに限らず、映画でも、演劇でも、オペラでも必ずあるものだ。
これが「あるはずのものがない」欠性だと言えるかもしれない。
ガタンゴトンという単調なリズムは、
テレビを見る人を静かにゆらがす。
いわゆる同調現象のようなことが起こっている気がする。
そのリズムに誘われて、いつの間にか風景の中にいる感じになる。
「ないはずのものがある」迂回性。
風景の中に入ってしまえば、車窓の単調な景色はむしろ非日常性をもたらし、
頭はぼんやりしてリラックスしていく。
そして海を見ている時や、炎をぼんやり見ている時と似た状態になる、
というあたりが僕の推理だ。
でもこの推理では、編み物の様子をダラダラと流し、
それを多くの人が見るということが、当てはまらない。
残念だが、僕の推理も的を得ていないようだ。
でもよくわからないものに出会い、
それが一体なんだろうと考えることは楽しい。
編み物の番組、見てみたいものだ。