万能細胞発見のニュースに、日本中が湧いている。
万能細胞とは、様々な臓器に変化することができる細胞のこと。
小保方晴子さんという、若くてキュートな女性が発見者であるという事も、
iPS細胞の山中教授が驚愕するほどの発見だということも、
生物学会の常識を覆したということも、
医療への実用化が期待されることも、
気は早いかもしれないが、ノーベル賞候補者が出てきたということも等々、
日本人の興味を惹きつけた。
小保方さんが羽織っている割烹着も、
"What a strange lab.coat,but it is pretty"
ぐらいの注目を集めている、と思う。
いろんな切り口から人々はこのニュースに注目しているのだけれど、
それらとは別の切り口で僕も便乗します。

小保方さんの研究は、遺伝子の組み替えなどの対応をしなくても、
マウスの細胞を酸性の溶液など厳しい刺激を与えれば、
細胞の中に万能細胞に変わるものがある、というものだ。
僕が特に注目したところは、
「昨年春、世界的に権威ある英科学誌ネイチャーに投稿した際は、
「過去何百年の生物細胞学の歴史を愚弄していると酷評され、
掲載を却下された」という記事だった。
そして、それを悔しいと思って更に実験研究を続けた小保方さん研究チームは、
ついにネイチャーを納得させたことに興味を惹いた。

小保方さんの発見は、
「変革は辺境から起こる」ということを生物細胞学で実現したのだ、
という切り口で話を進める。
僕は科学者でもないし、
生物細胞学についての知見は高校の生物で学んだ程度で、
生物細胞学の知見をもって小保方さんの発見を語ることはできないが、
この大発見から、今の生物細胞学がどういう状況にあるのかは見当をつける。
もちろん証拠はないので、妄想と言われても仕方のないことなのだけれど。

生物細胞学では、哺乳類の細胞は万能細胞にはなれない、
という定説がある。
その定説に反旗を示すようなレポートは、
軽蔑の念を持って却下された。
「植物では接木などのように万能細胞を保有しているのだから、
動物の細胞の中に万能細胞があるのではないか?」とかの根本的な疑問は、
生物細胞学の中心地である西欧では思ってもいけないのだろう。
本来なら、生物細胞学がどんなに長い歴史を持っていて
数々の実験を繰り返されたとしても、
全ての脊椎動物の全細胞が万能細胞にはなり得ないとは
証明されていないはず。
でも"そんな細胞があるなんて、思ってはいけないんだよ"と、
生物細胞学の常識は科学者たちを次のように縛る。
生物は未来に向かって進化するが、
その進化の過程で古い機能を捨ててきた。
万能細胞もその一つであり、脊椎動物には万能細胞はないのだ、と。
科学も未来に向かって進化するが、
その進化は過去の研究を土台にしている。
過去の実験で脊椎動物で万能細胞は発見されていないのだから、
今後の研究はそれを前提として行われなければならないと。
生物細胞学の学者に流れている底流は、こんなところだと思う。

原始の昔から現在に今るまで時代の経過と進化は、一方向的に直線的に進んできた、
というのが西洋人の常識だ。
小保方さんはいかなる思想の持ち主かは知らないが、
少なくとも生物細胞学の常識は持ち合わせてはいなかった。
そこが、辺境の辺境たる所以。
いろんな技術的な知見は取り入れるが、
その元となる思想までは取り込まない、それが辺境だ。
一方向的に考える思想に染まらず、
「細胞は元に戻っても良い」と寧ろ思っていたから、
小保方さんは研究実験を繰り返したと思われる。

ここからは、更に妄想的展開を試みる。
細胞は生まれたばかりのように戻ることもあるという考えは、
回帰的な考えを持っていたから、とはならないだろうか。
回帰的とは、昼と夜は繰り返される、
生と死は繰り返される、
という思想だ。
この回帰思想は、1万4千年の縄文文化を作り上げた時から
僕達日本人の血肉の中に溶け込んでいるものだ。
普段はそんなことは考えない日本人も、
葬式や墓参りや子供が生まれたときなどに頭に浮かぶ。
又正月に初詣に行く習慣そのものが、
前の年は去り新しい年が生まれ変わったことを神様にお礼に行く儀式だ。
僕たちは、再生を、その本来の意味は知らなくても、文化的習慣に取り込んでいる。

小保方さんは、生物細胞学の常識にとらわれない人だった。
常識を疑う姿勢を持っていた。
その懐疑性は近代科学の思想的確立を成し遂げた
デカルトのスタンスを受け継ぐものだ。
だが直線的進化性に(それはデカルトも取り込んでいるものだが)懐疑の目を向けた。
その懐疑の目の根っこには非直線的で回帰的な日本人の底流思想がある、
という推論だ。

直線的進化思想はヘレニズムとヘブライズムを源流とする思想だと、
梅原猛さんは言う。
そしてこの西洋の直線的進化の思想は、
停滞し地球レベルで危機を招いていると梅原さんはいう。
梅原さんは『人類哲学へ』の中でこう記載している。
「この科学技術を取り入れながら、
日本の伝統に従って、新しい文明を作り直さなければならないのではないか」と。
地球を救う新しい思想は、
西洋技術を他の東洋諸国より早く取り入れ、
それでも西洋思想とは別の思想的底流を持つ日本から
生み出されなければならないと考えているのだ。

そんな梅原さんは、小保方さんの発見を喜んでいるのではないだろうか。
西洋思想に染まり切った人にはできないが、
西洋人のいうことに懐疑的になれる進取の日本人から、
小保方さんに続く人がたくさん出てくると、
日本はもっと元気になれるし、
梅原さんが打ち立てようとしている思想の形成に多いに役立つ。
そして、そんな思想がうち建てられたならば、
もっともっと多くの若者が、
回帰性というこれまでの西洋思想とは別次元の思想で持って、
いろんなことにチャレンジするだろう。
地震ということを題材にして、それが私達にもたらす不安について書く。

地震が何故起こるのか?
地球の表面が幾つかのプレートに分かれていて、
そのプレートがわずかづつだが移動するので、
プレート間の境目でストレスが溜まる。
そして溜まったストレスがある時一気に解放され、
プレート境目が動きそれにともだって振動が発生し、
その振動が地表に到達して地震が起こる。
何故プレートが移動するのかというと、
地球の内部のマントルが、原子地球が火の玉だった名残りを残し高温で流動性を持っていて、
地球内部で対流しているからだ。
地球が少しづつ冷えているために、
お椀の中の味噌汁が動いているように、マントルは動いている。
地震が起きるメカニズムは、このように科学的に因果関係が説明できる。
しかしどれほどの規模で起こるのかを予想するとなると、
科学性から徐々に乖離していく。
それは「どういう推定をするのが確からしいのか」という判断者の恣意が入るし、
又いろんな防災の全体制御を統括しなければならない政府にしてみると、
「どれくらいの規模の地震が来ると想定すべきなのか」という
(防災に投入する予算を考えなければならないので)意思も加わってくる。
以前は南海、東南海、東海地震と場所が別れて起こると推定していたが、
今は「それらの地震が一度に起こるかもしれない」と想定するようになった。
それが南海トラフ巨大地震と言われるようになった。
それだけではない。
南海トラフ巨大地震が起こる前に内陸型地震が前兆として何回か起こることが分かってきて、
阪神大震災はそのスタートのホイッスルだという。

南海トラフ巨大地震予測は、
建物を耐震性のある構造にしたり、
地震が起きた時の非難対応について事前準備を進めたり、
地震で寸断されるライフラインが復旧するまでの間、
生きるための必需品をどれだけ準備すべきかを市民に伝えるかを決める、
などのために活かされる。
何の準備もしないで地震が発生した時の被害は膨大だが、
備えれば被害を極小にできる、という考え方だ。
この考え方は、決して間違ってはいない。
ところが以前はマグニチュード7とか8レベルと想定していたものが、
マグニチュード9レベルと引き上げられ、
想定規模が30倍以上、もしかしたら1000倍以上となった。
(マグニチュードが1レベル変わると規模がエネルギー規模が30倍違う)

東北大震災では津波を防ぐために作られていた堤防を、
津波はいともたやすく乗り越えて建物も人も飲み込んでいったが、
僕らはその場面を、息を飲んで目を見開いて見入った。
地震と津波の恐ろしさを知ってしまった市民は、
南海トラフ巨大地震が起これば、
自分たちの街も交通事故機関も大被害を受け、
多くの人の生命も奪い去っていくだろうと、脳裏に焼き付けた。

東北大地震から3年近くが過ぎて、
市民の日常感覚から地震のことは忘れたかのようだが、
一度脳裏に焼き付けた記憶は決して消えはしない。
もし日本の何処かで中規模以上の地震が発生したら、
被害が及ばなかった人たちの脳裏にも、
東北大地震や阪神大震災等の記憶が蘇るだろう。
そして国民は、地震の不安を抱えて生活することになる。

誰もが不安を抱えていたくはないし、不安を少しでも解消したい。
そして不安を解消してくれるような情報が欲しい。
国民が欲している情報は、地震予知だ。
いつ、どこで、どの程度の地震が起こるのか、を知りたい。
地震予知があれば、何とか生き延びる努力をすることができるし、
何も知らずに突然パニックに陥るのは嫌だ。
ところが、この地震に対して学者も政府も地震予知は難しいと否定的だ。
地震予知は地震の兆候を掴むことだが、
まずこの兆候そのものがはっきり掴めていない。
阪神大震災が起こる前に地中から電磁波を検知したという話はあるが、
因果関係が掴めていない。
仮に因果関係が掴めたとしても、
いつ、どこで、どの程度の地震と予知することは難しい、と学者は言う。

国民の地震予知を、その正確さについてある程度のレベルは必要だが、
(ハズレが続くと、狼少年になって誰も信じなくなる)
学者も政府も腰が引けているようだ。
科学性がないことがその理由だが、これがアメリカ人ならば
「科学の探求には失敗は付き物であり、
しかしその先には真理があり、必ず見つけることができる」と考えるに違いない。
科学と技術の合体により人類は進歩できる、とアメリカ人は考える。
日本人は、科学も技術も確立していなければ意味がない、と考える。
それを言葉で表現すると、
アメリカ人のそれはテクノロジーであり、
日本人はテクニックになるだろう。
つまり日本人は、失敗を乗り越えて真理に至ろうという気概が薄い。

国民の気概は、本質的にその国民が持つ世界観に由来する。
人類は自然を統治できると信じるアメリカ人にとって、
統治できていない状況は途中状態と考え、
だからもっと進歩しなければならないと考える。
日本人は、自然と共存するものと考える。
時に自然は人々に厳しい被害をもたらすが、それは耐えるべきものと考える。
地震予知は国民が望んでいることにも拘らず、
腰が引けているのは日本人の世界観と関係があると思う。

しかし、地震予知は強く欲せられているのだから、難しいで良いはずはない。
アメリカの学者にも期待したい。
アメリカだって、西海岸は有数の地震地域だからだ。
日本人学者は、保守的な思考を改めてもらいたい。
「必要」が目の前にある。
必要があるから探求する、このマインドを起動してもらいたい。

地震に対する不安は、日本人の生活観や人生観を変えるかもしれない。
地震学がいうように、
この日本列島に1万年以上も前から住んでいる日本民族は、
マグニチュード8とか9レベルの地震を100年とか150年毎に受けてきた。
しかし今後起こるとされる南海トラフ巨大地震の被害は、
過去のどの地震の時よりも被害スケールがでかい。
理由は、臨海にある都市部に人口が集約し、
公共交通機関などの投資額が巨大化したこと、
そして都市の近くに石油やガスなどの備蓄が沢山保有されるようになったからだ。
それらが、地震や津波によって破壊され、
揺れによる倒壊被害だけでなく津波による水害やガス爆発などによる火炎被害などが、
悪い方に相乗し被害を大きなものにし、
その被害によって多くの人命が奪われるからだ。
一言で言ってしまえば、
集中化が被害を拡大し、そこにいる人々の生命が危うい状況に置いているという構図だ。
都市部の集中化を止めろということは一個人では実現しない。
ならば、自分で分散策を行おうと考える人が出てくるのではないか。
臨海から内陸地へ、都市から地方へという動きが起こりうる。
それは生活が変わることを意味する。
そういう動きが広がれば、日本人全般の生活観が変わるかもしれない。

人生観も変わる可能性がある。
今の日本人は、死というものを忌避している。
元気な自分を求めている裏側には、死から目を逸らしている心理が働いている。
ところが、南海トラフ巨大地震が発生すれば、多くの日本人に突然死をもたらす。
突然死があるかもしれない、それが地震の不安だが、
その不安と日本人は共に生きていかなければならなくなった。
それは日本人の人生観に、何らかの変化をもたらす可能性があると思う。



アメリカのキャロライン・ケネディ駐日大使のツイッターが批判されている。
大使は「米国政府はイルカの追い込み漁に反対します。
イルカが殺される追い込み漁の非人道性について深く懸念しています。」と
書いた。
これに対しネットの人たちは、
日本の食文化にとやかくいう権利はない、
原爆投下、枯れ葉剤散布、中東での殺戮を棚にあげて非人道的と言うな、
子牛や子羊は良くてクジラがダメとは何と横暴な、
と反発した。
キャロライン・ケネディ大使をフォローしている人が6万人もいることも、
あっという間にネット日本人の反発を受けた理由だろう。
僕は大使をフォローしていないが、回り回って僕のところに届いた。
僕もこのツイートには違和感を抱く。
それは、安倍首相の靖国神社参拝に失望と表明した時とも違う。
参拝批判の時は驚きがあった一方で、
日本の隣国との関係や今のアメリカの極東外交を考えると、
安倍日本政府を強く牽制するアメリカの立ち位置も、
わからないわけではなかった。
しかし今回のイルカ漁非難は、一体どういう文脈なのかもわからない。
文脈などないのかもしれない。
それは言うべきことを、もちろんそれは"大使にとって"だが、
言っただけなのかもしれない。

イルカ漁反対という文言を読んだ時、
脳の中の何かがカチンと音がした。
そう感じた日本人は結構多いのではないか。
ネットの批判はこの文章を書いている今も続いている。
それは食に関わるからだ。
ある人々の集団は、他者が食べないものを食べることで、生きてきた。
それはそれを食べる人が自分たちだけで他の人が食べないのなら、
自分たちが生きるための食が他者に奪われることが無く、
命を何代も繋いでいけるからだ。
世界の至るところで、他者が食べない食物を食べる習慣があるのは、
このためだ。
自分たちが食べるが他者は食べないものは、
あやしいものや臭いものに現れる。
大阪人は納豆は臭くて食べられないし(若者はもう平気)、
ほとんどの関東人は鮒ずしは食べられない。
昆虫を食べる人たちもいる。
自分たちの"食"を否定されるということは、命を危険にさらされることに通じる。
大使の文章に危険の匂いを嗅ぎ取った日本人は、
自分の中にカチンと起こった感情をどう理屈づけるか、
自分なりに考えた結果、人によって違った理屈になったと思われる。

それぞれの民族にはそれぞれの食についての習慣がある。
それを食文化だと声だかに言わなくても、
その民族が生きるために作り上げた習慣だということに思いが至れば、
それは生きるためであり、
ある土地と気候で生きてきたいろんな民族にとって、
人間的(human)であることは揺るがない。

ツイート文言を冷静に読むと、
非難しているのは、大使1個人ではなくアメリカ政府という構造をとっている。
とても違和感を感じるが、
他者が感じる違和感をそれを行っている本人が全く気づいていないとしたら、
それは心理学的に言うと、抑圧がかかっているという症状を疑わなければならない。
アメリカ並びにアメリカ政府要人が抱える抑圧とは、
アメリカはアメリカでなければならないというトラウマだ。
アメリカは歴史の自然な必然のように形成された国ではない。
イギリスから独立という強い意思を持って行動を起こし、
独立宣言という強い理念を掲げてできた国だ。
もしアメリカに理念がなかったならば、
その歴史は、先住民を追い出し又土地を切り取ってきた侵略者の歴史でしかない。
アメリカは、映画『スターウォーズ』のアナキンでありダースベーダーでもあるのだが、
理念を保持することで自らを正義の集団・ジェダイであると、
自分で自分を信じ込ませている。
アメリカにとって理念は、自らを証明するなくてはならないもの。
だから、アメリカが語る理念は他国の人々にとって、
違和感を感じたり滑稽に思えるものになる。

嘗て繁栄を謳歌したデトロイト市が破綻し多くの市民が苦しみを味わっている。
アメリカの栄光や理念や進歩に対し疑問を抱いているアメリカ人も多いと思う。
アメリカの内外で、アメリカのプレゼンスや行いに疑問が広がっている。
でもアメリカは、アメリカを疑う声に対して、
今まで以上ににアメリカであるとプレゼンスする以外にない。
進歩に対して盲目的追随から少し冷めた目で身始めている日本人にとっても、
アメリカの違和感は事あるごとに深めていくだろう。