この記事は、穂吉のブログの「2012-08-26 16:34:39」にUPした『日本の神話104. ~第四部 大和~ =第二章 綏靖(すいぜん)天皇=』という記事を再編成してUPしています。
最初のお話し 『日本の神話01』 前回のお話し 『日本の神話103』
異母兄の手研耳命を、打ち取ることが出来なかった兄の神八井耳命様にかわり、今度は末の子の神沼河耳命様が、手研耳命へと向かっていきました。
兄の神八井耳命様が持っていた武器を手に取られると、勇ましく異母兄の手研耳命へと切りかかり、みごと打ち取ったのです。
兄の神八井耳命様は、末の子の神沼河耳命様を褒め称えられました。そしてこの時より末の子の名は『建沼河耳命(たけぬなかわみみのみこと)』様と呼ばれるようになりました。
そして兄の神八井耳命様は、
『私は、敵を打ち負かすことができなかった。しかしお前は勇気をもって、敵を打ち負かしました。私は兄だからと言って、上に立つには相応しくはないでしょう。建沼河耳命よ、お前こそが、父のあとを継ぎ、この芦原中国を統べるに相応しいでしょう。私はお前を助けながら、神をお祀りする方面のことをお預かりし、お仕えしていきましょう。』
そう仰ったのでございました。
こうして神沼河耳命様、改め、建沼河耳命(のちの「綏靖天皇(すいぜんてんのう)」)様は、葛城の高岡宮(奈良県御所市吐田)にお住まいを移されて、天の下を治めたのです。
そして建沼河耳命様が磯城(しぎ)の県主(あがたぬし)の祖先にあたる、河俣毘売(かわまたびめ)様と結婚し、唯一の御子様、師木津日子玉手見命(しきつひこたまてみのみこと)様が生まれたのです。
その後、建沼河耳命様は、御年45歳でご崩御なさいました。
- 追 記 -
兄御子の『神八井耳命(かむやゐみみのみこと)』様が、弟御子のお名前を『神沼河耳命』様から、『建沼河耳命』様へと変えられたのには理由があります。
「勇ましく、立派に敵を打ち取った」それが大きな理由です。
そしてその勇ましさを讃え、「勇ましさ」、「雄々しさ」の象徴の文字である、『建』の文字を授けられたのです。
県主(あがたぬし)とは、律令制(りつりょうせい)が導入される以前の大和朝廷の「職種」・「姓(かばね)」の一つです。また、県(あがた)とは、大和朝廷が直轄する地方行政区分の一つです。
参照 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%8C%E4%B8%BB ウィキペディア(県主)
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
おしまい。