善光寺の御開帳/日本最古の仏像ロマン | 大臣。のblog

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大阪から関東に戻って新しい営業所を立ち上げようと頑張るおやじのひとりごと。美味しいものや写真・音楽・機械モノ・歴史・地震・ダイエットや美容など興味のある事を書いています。バックカラーは何故かパープル(笑)最近はギターに夢中♪

ちょっと長いので、あんまし興味の無い方はスルーしてください。(笑)

信州に生まれて長野市にも8年住んでいたことがある私にとって、長野の善光寺 はたいへん馴染み深いお寺です。子供の頃、信心深い祖母から嫌というほど善光寺の話しを聞かされました。
話しだすと長いので聞いているだけでも大変でしたが、おかげで辛抱強くなりました。(笑) 要点はだいたい以下の2つ。

・善光寺に日本中から大勢の人が参拝に来るのは、日本に最初に来た古い仏像が祭られているから。
・「一生に一度参拝すれば極楽往生出来る」と、仏教徒が信じている特別なお寺であるということ。

「だからおまえも善光寺へお参りに行かなければならない」と言われて何度も行きました。(笑)

その頃から、京都や奈良にもすごく立派なお寺がたくさんあるのに、どうして長野の善光寺が全国的に特別な位置づけのお寺になったのか、いつも不思議に思っていました。


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今年は7年に一度の御開帳の年、4/1~6/1まで「長野善光寺 前立本尊御開帳 」が行われています。
「御開帳、御開帳」と言うわりには善光寺がどういうものか知らないひとが多いので、防備録的に記事にしてみます。実はそういう私もよく知りませんでした。(笑)



さてさて。
最近の発掘でも、善光寺境内に7世紀後半頃かなりの規模の建物が建立されていたことがわかっています。12世紀後半に編集された古辞書「伊呂波字類抄 」に、8世紀中頃に善光寺の御本尊が日本最古の霊仏として中央にも知られていたことが書かれていますし、平安時代に比叡山功徳院の僧、皇円(こうえん)によって編集されたとされる日本仏教文化史「扶桑略記 」にも、善光寺縁起の骨格ができたのは10世紀中頃で、善光寺信仰が発達したのは11世紀頃だということが書かれています。


ちなみに「扶桑略記 」には紀元前711年~1094年の出来事が書かれていますが、考えてみると平安時代に書かれた記録に、それより1,700年も前の出来事が明確に書かれているのも不思議です。本当かどうかわからない神がかり的な事も多いので。

たとえば、神武天皇(紀元前711年-紀元前585年)、126歳ですか・・・  アレ?

■御本尊は御開帳されない
善光寺の御本尊である「一光三尊阿弥陀如来像(善光寺式阿弥陀三尊)」は、インドから百済(朝鮮半島の南西部)を経由して、西暦552年に難波の港に渡来した日本最古の仏像だと言われています。
百済の第26代の王だった聖明王が欽明天皇におくったものとされていますが、聖明王は在位が523年-554年なので、王に即位する前年ですね。


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御本尊の「阿弥陀三尊像」(向かって左から勢至菩薩、阿弥陀如来、観音菩薩)

善光寺建立10年後には阿弥陀さま自らの意思により「絶対秘仏」とされ、人の目に触れる事も無く、善光寺の住職でも見ることは出来なくなったのだとか。

「絶対秘仏」なので本当に実在するかどうかも謎ですが、深い信仰のうえではそれほど問題にはなりません。今年も7年ぶりに、御本尊を模した「前立本尊」が御開帳されています。


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前立(まえだち)本尊

■御本尊は難波の堀に捨てられたことがある
御本尊の「一光三尊阿弥陀如来像」は、仏教の受容を巡って崇廃論争の最中に廃仏派の物部尾興氏によって、難波の堀へ捨てられたことがあるといわれています。

「燃えぬなら水に沈めよ」というあれですな。(kazzさん 風)

後に物部氏と対立する崇拝派の蘇我稲目の子、蘇我馬子と厩戸皇子(聖徳太子)が物部氏を滅ぼしました。ちなみに、最初の仏教信者は蘇我馬子と聖徳太子のふたりだったといわれていますが、現在では聖徳太子も架空の人物だったという説が有力です。

どちらにしても、難波の堀にはたいへん親近感があります。(笑)

■本田善光は実在の人物なのか
西暦602年に信濃国司の従者として都に上った本田善光の背中に難波の堀から光り輝く如来様が飛び乗り、如来様の意思をうけて本田善光が信州まで背負って歩き、一旦飯田市の坐光寺に祀り、40年後の642年に現在の長野市芋井に遷座し、2年後に中大兄皇子(天智天皇)の母親である皇極天皇によって伽藍が造営され、本田善光の名を取り「善光寺」と名付けたことになっています。


そもそも本田善光(ほんだよしみつ)は実在の人物なのでしょうか。
善光寺縁起 によると、善光は名もない庶民であり、「弥生」という名前の奥さんが居て、「善佐」という名前の子供がいて、如来を背負って旅をする人だった とあります。

善光寺如来を背負って旅する男「本田善光」は、同じように笈を背負って善光寺信仰を広めて歩いた善光寺聖たちに創造されたという説もありますが、本田善光の本名は「若麻績東人(わかおみのあずまんど)」、善光寺寺務職の方の半数は苗字が若麻績(わかおみ)さんであることも事実です。


如来様が難波の堀から本田善光の背中に飛び乗ったというのは善光寺縁起 を広めるために10世紀末につくられた神話ですが、善光寺の成り立ちには背後にかなり深い人間関係があったように思います。

長野の水内郡の郡家だった金刺氏が百済の朝廷に仕えていた記録があり、現在の善光寺のあたりには水内郡の郡司金刺(かなさし)氏(または若麻績氏)が仏をまつった寺があったと伝えられています。


長野の地は都から遠く離れて安全であり、豊かな農地によって大伽藍を維持できる経済力があり、百済伝来の仏さまを守りきることができる民が住んでいました。
私は本田善光は実在の人物で、その末裔が若麻績家だと思います。善光寺鏡善坊のご住職である若麻績家では、血統相続によって現在まで1,300年以上も法統を継承されています。


■百済から日本に亡命した百済王善光の存在

660年頃、百済王善光(くだらのおうぜんこう)が日本に亡命しました。関係ないかもしれませんが名前が一緒なので、こちらを経由して善光寺に如来様がきた可能性も否定できません。

664年から亡くなる693年までは居住区を難波とし、百済王善光とその一族は百済の旧王族としてたいへん優遇されており、天武天皇崩御に際しては旧百済王族を代表して誄(しのびごと)を言上する地位だったそうです。


■まだ宗派がなかった時代
善光寺は天台宗大勧進と浄土宗大本願、両派の仏教寺院です。
天台宗は隋の天台智者大師である智顗(ちぎ、538年-597年)を実質的な開祖とする大乗仏教の宗派のひとつで中国に発祥しましたが、日本における天台宗は伝教大師 最澄(さいちょう、767年-822年)が延暦24年(805年)に唐へ渡り、天台山に登って天台教学を受け、翌年(806年)帰国して伝えたと言われています。

また浄土宗は、承安5年(1175年)に法然が念仏の教えを広めたのが立教開宗と言われているので、善光寺の造営より530年後。御本尊が日本に渡ったとされる西暦552年はおろか、長野に鎮座したとされる西暦642年から少なくても160年間は宗派が無かったことになります。


奈良時代(710-794年)に平城京を中心に栄えた仏教6つの宗派「南都六宗(奈良仏教とも言う)」もありませんし、華厳宗の総本山である東大寺は天平5年(733年)に創建された金鐘寺(または金鍾寺(こんしゅじ)」が起源とされているので、どちらも70~90年後です。

今ではお葬式でふつうに唱えるお経も、当時は無かったのかと思うと、なんだか不思議な感じがします。(笑)

■古代日本の仏教は、指導者の思想だった
天武天皇(631~686年)は「壬申の乱」で実の兄弟「天智天皇」の息子である大友皇子を破って天皇に即位しました。強い信念で仏教奨励策を行ない、全国に数百もの寺を建設しましたが、善光寺もそのなかの1つだったようです。

天武天皇は奥さんである持統天皇の病気が治るように、飛鳥の地に薬師寺を建てた信心深い人ですが、「自分を超えた、より大いなるものへの畏敬の心」を国民に共有させることで、聖徳太子以来の「和の国日本」という理想を実現したいと考えたのではないでしょうか。
その考えは8世紀初頭に制定された「大宝律令」まで繋がり、現代の日本人の心にも受け継がれているような気がします。

■宗派を超えた存在
天台宗の内紛で比叡山から追放された寺門派と、延暦寺にいた山門派の厳しい対立は鎌倉時代末まで続いたそうです。
その僧たちの「死後は極楽往生したい」という阿弥陀信仰の厳しい修行の最終到達点が善光寺と位置づけられたのが、現在の善光寺信仰をつくりあげました。

また、京を離れた信州に「宗派を超えた圧倒的な存在」として善光寺を置くのが、建立した当時の皇族にとっても都合がよかったのかもしれません。


発祥や経過がどうであれ、ご住職の若麻績家一族が1,300年以上にもわたって守り続けている善光寺。宗派や性別や年齢に関係なく誰でも安心して極楽浄土へ導く、それも善光寺の大きな人気のひとつです。


今年の御開帳は6月1日で終わりなので、今年行けない方は7年後に、7年後に行けなかったらそのまた7年後に是非善光寺へ行って、真っ暗闇のなかで「極楽の鍵」を探す「胎内めぐり」を体験してみてください。

運よく「極楽の鍵」に触ることができたら、あなたの極楽往生が決定します☆


 善光寺本尊の由来:http://w1.avis.ne.jp/~wakaomi/engi/index.html

 どうして長野に善光寺があるのか:http://www.h7.dion.ne.jp/~tsumugu/tsumugu020317.htm