若い頃、「手かざし」を看板にしている新興宗教団体で学んだことがある。私は昔から、目に見えないエネルギーというものは存在すると感じていた。人には説明できなくても、誰かに触れられただけで安心したり、逆に言葉は優しくても近寄りたくない人がいたりする。そう考えると、人の心や身体から何かしらの波動のようなものが出ているのだろうと思う。


ある時、その教団の幹部と論争になった。幹部は「天から降りてきたエネルギーが体を通り、手から出る」と説明した。そして「会員になり、会費を払い、お守りを持てば、誰でもその力を得られる」と語った。


しかし私は、どうしてもそこに違和感を覚えた。


もし本当に人を癒やす光のようなものがあるなら、それは心のフィルターを通して現れるはずである。どれほど立派な教えを語っても、心が怒りや欲、不調和に満ちていれば、その光は濁るのではないか。逆に、名もなき人であっても、純粋な優しさや思いやりを持つ人の手には、温かな力が宿るのではないか。私はそう考えた。


だが幹部とは最後まで意見が交わることはなかった。結局、私はその教団で学ぶことをやめた。


大人になればなるほど、人は知識や経験を得る代わりに、心に曇りを抱えていく。立場が上になればなるほど、名誉や欲、見栄に縛られることもある。むしろ純粋な子供の方が、澄んだエネルギーを持っているように感じることがある。


私の結論は今も変わらない。特別な宗教に入らなくても、高価なお守りを持たなくても、人は純粋な心を持つことで、手から何かしらの温かな力を出せるのだと思う。


それは昔から日本人が自然に行ってきた「手当て」の心ではないだろうか。


転んで泣く子供に、親がそっと手を当てながら「痛いの痛いの飛んでいけ」と語りかける。その瞬間、子供は不思議と安心し、涙を止める。あれこそが、宗教や理屈を超えた、人間本来の優しさのエネルギーなのかもしれない。


新興宗教の歴史を振り返ると、教祖が語った言葉そのものには、多くの人を救う力があったように思う。苦しむ人に寄り添い、迷う人に希望を与え「人はどう生きるべきか」を真剣に説いていた。だからこそ、多くの人が心を打たれ、その教えに集まり、私も学んだ。


だが、時が流れ、組織が大きくなるにつれて、少しずつ空気が変わっていく。教えを広めることよりも、組織を維持することが優先され始めるのだ。


会費の納入は当然となり、機関誌は一部でも多く売るよう求められる。講演会のチケット負担、大殿堂建立のための献金集め、そして何より「信者を増やせ」という圧力。気がつけば、信仰よりもノルマが前に出てしまう。これでは、今の若い世代が離れていくのも無理はない。


特に紙媒体の機関誌などは、時代に合わなくなってきている。一度読めば棚に積まれ、やがて処分される。昔はそれが情報伝達の中心だったが、今は違う。SNSを活用すれば、必要な人へ必要な言葉を瞬時に届けることができる。しかも、若い世代ほど紙よりスマートフォンに親しんでいる。


また講演会も、本部の限られた講師だけで回すのではなく、地方で地道に活動する講師にも光を当てるべきだろう。その方法として、機関誌に投票用紙を付け、ランキング上位の講師を選ぶという形もある。講師同士が切磋琢磨することで、組織全体のレベルアップにも繋がるはずだ。


参加者の声を反映し、人気や共感を得ている人を選べば、自然と人は集まる。そうすれば、押し売りのようにチケットを配る必要もなくなる。人は感動した時、自ら足を運ぶものだからだ。


人口が減れば、信者が減るのも当然である。その現実を直視せず「もっと集めろ」と現場へ負担を押しつけても、疲弊するだけだろう。


今、本当に必要なのは、規模を守ることではなく「教祖は何を伝えたかったのか」という原点へ立ち返ることではないだろうか。建物の大きさでも、会員数でもない。人の心をどれだけ救えるか。その初心を忘れた時、どんな大組織でも衰退は始まる。


改革とは、新しいことを増やすことではない。余分なものを削ぎ落とし、原点に戻る勇気なのだと思う。


SNSが盛んな時代になっても、人と人との会話の力は決して衰えていない。当寺とご縁のある方々に尋ねると「知人から聞いて来ました」「近所の人に勧められました」という声が実に多い。どれだけ便利な時代になっても、最後に人の心を動かすのは、やはり人の言葉なのだろう。


特に面白いのは、ランチタイムでの会話だ。最初は健康の話から始まり、「最近どこそこが悪くてね」「年金だけでは大変よ」と続き、気がつけば葬儀やお墓、寺の話にまで発展していく。女性たちの会話は実に幅広く、そして情報が早い。


そこで「こんな寺があるらしいよ」「うちのお寺はいいよ」と誰かが口にすると「じゃあ今度行ってみようか」という流れになる。当寺も、その多くが口コミによってご縁が繋がってきた。だから私は、信者さん方にも「口コミは大切ですよ」とよくお話ししている。


もちろん、今はSNSや広告で発信する時代である。しかし、画面越しの言葉より、実際に体験した人の一言の方が、はるかに信憑性がある。「あそこは安心できる」「住職が親身に話を聞いてくれる」そんな生の言葉には、不思議な力が宿る。


そして何より、おばちゃん達の勢いはすごい。一人が話せば、翌日には何人も知っている。その行動力と拡散力は、どんな広告よりも強力かもしれない。


寺という場所は、建物の立派さよりも、人から人へ伝わる安心感によって支えられているのだと、私は日々感じている。