ある日、葬儀社の方からこんな言葉を投げかけられた。

「住職の葬儀料(お布施)は、寺を維持するために必要でしょう。しかし、役僧として呼ばれた方が、わずか一時間ほどで数万円を受け取るのは、一般の感覚からすると高すぎるのではないでしょうか」と。


一瞬、言葉に詰まった。だが、否定できない現実でもある。僧侶の世界に身を置いていると、いつの間にかその“当たり前”に慣れてしまう。しかし、外から見れば違和感として映ることもあるのだろう。


私はこれまで、大きな葬儀であっても一人で勤めることを心がけてきた。そのため、他寺のように複数の僧侶を招くことはない。確かに、二人、三人と僧侶が並べば、読経の響きも厚みを増し、荘厳さも感じられる。いわば「整った葬儀」として受け取られるのかもしれない。


しかし、その背景には僧侶同士の相互扶助の関係がある。お互いに声を掛け合い、支え合う。その仕組み自体は尊いものだと思う。ただ、その負担が誰にかかっているのかを考えたとき、答えは明白である。最終的にはご遺族が担うことになる。


僧侶の人数が多いほど「ありがたい葬儀」とされる風潮が、もしあるのだとすれば、それは本質なのだろうか。故人を偲ぶ心や、ご遺族の悲しみに寄り添う姿勢は、人数の多さで測られるものではないはずである。


葬儀とは、本来、静かに故人を送り、残された者が心を整える時間であるべきだ。形式や見た目の立派さよりも、無理のない形で、真心を込めて営まれることの方が大切ではないだろうか。


だからこそ私は、できる限りご遺族に負担のかからない葬儀を目指したいと思う。華やかさではなく、誠実さを。数ではなく、心を。そうした積み重ねの中にこそ、本当の意味での「ありがたさ」が宿るのだと信じている。


最近はどうも、慌ただしい飛行機での移動が好きではなくなってきた。離陸から着陸まで、効率よく運ばれるその速さは確かに便利なのだが、どこか心が置き去りにされているような気がする。おそらく、ゆったりと時間が流れる船旅に身を任せた経験が、私の感覚を少し変えてしまったのだろう。


今回の法事でも、荷物はできるだけ最小限に抑えた。施主には事前に「帰りは荷物になるので、手土産はご遠慮させていただきます」とメールを送る。こちらの都合を押し付けるようで心苦しさもあるが、移動の負担を思えばやむを得ない選択でもある。


思えば以前は、もう少し心に余白があった。時間に余裕を持って現地に入り、近くの法友寺院を訪ねては新たなご縁に触れる。それが一つの楽しみでもあった。また、少し足を延ばして家電量販店に立ち寄り、好きなカメラを手に取って眺めるのも、ささやかな喜びのひとつだった。


けれど最近は、そうした寄り道をする気力がどこか薄れている。移動はあくまで目的のための手段となり、その途中にある楽しみを味わう余裕が、知らぬ間に削がれているように感じる。


年齢のせいなのか、それとも日々の忙しさに心が追われているのか。理由ははっきりしない。ただ確かなのは、以前のように「ついでの楽しみ」を大切にする感覚が、少しずつ遠のいているということだ。


ふと立ち止まって思う。速く目的地に着くことだけが、本当に大切なのだろうかと。船旅のように、移動そのものを味わう時間があってもよいのではないか。そんな思いが、胸の奥に静かに広がっていく。


私が実家の寺を出た理由の一つに「寄付者名簿」とその金額の公表に対する違和感があった。


寄付とは、本来、誰かに見せるためのものではなく、自らの心に従って行うものだと思っている。したいと思っても事情があってできない人もいる。もっと力になりたいのに、わずかしかできない人もいる。その一つ一つに、それぞれの人生や事情がある。


それにもかかわらず、その結果だけが紙に記され、誰の目にも触れる場所に貼り出される。そこに並ぶのは名前と金額という、あまりにも単純な尺度だ。まるで、試験の点数を廊下に張り出されるような、あの居心地の悪さに似ている。


成績の良い者は誇らしく感じるかもしれない。しかし、そうでない者にとっては、ただ自分の至らなさを突きつけられる時間になる。


寺は本来、誰もが安心して手を合わせられる場所であるはずだ。けれども、知らず知らずのうちに「比較」や「評価」の場になってしまったとき、人の足は遠のいていく。


「もう行きづらい」と感じたその心は、決して特別なものではないだろう。


離檀という言葉はどこか重たく響くが、その根底にあったのは、ただ「心穏やかに手を合わせたい」という、ささやかな願いだったのかもしれない。