法事のお経が終わり、法話の時間となった。最前列には小学校6年生の息子さんが座っていたので、何気なく尋ねてみた。


「学校の勉強で何が一番嫌い?」


すると間髪入れずに返ってきた答えが「道徳です」だった。私は一瞬、耳を疑った。聞き間違いかと思い、もう一度同じ質問をした。しかし返ってきた答えは、やはり「道徳」だった。


「道徳は一番大事な教科だよ」そう伝えてみたものの、どこまで理解してくれただろうか。


もっとも、道徳に限らず、学びというものは教える人によって大きく変わる。尊敬できる先生の話であれば、子どもたちは自然と耳を傾ける。熱意のある言葉は心に届き、人生の糧となることもある。


反対に、苦手な先生や信頼できない先生の話であれば、どれほど素晴らしい内容であっても素直に受け取れないことがある。人はまず言葉よりも、その言葉を語る人を見ているのかもしれない。


私はその子に「偉人の伝記を読んでごらん」と勧めてみた。しかし今の子どもたちにとっては、伝記よりもゲームの方が魅力的に映るのだろう。


けれど人生の先輩たちの歩みには、教科書には載っていない知恵や勇気が詰まっている。道徳とは単なる授業の名前ではなく「どう生きるか」を学ぶ時間である。


大人になって振り返ると、算数の公式や歴史の年号は忘れても、人として大切なことを教えてくれた先生の言葉だけは不思議と心に残っている。


あの少年もいつの日か「道徳が一番嫌いだった」と笑いながら話しつつ、その授業で聞いた何気ない言葉を人生の支えにしているかもしれない。


人は皆、この世に生まれるとき、神様から一つの「天職」を与えられているのではないだろうか。


しかし、その天職に巡り合える人ばかりではない。気づかないまま人生を終える人もいれば、若いうちに目覚め、その使命を全うしようと日々精進を重ねる人もいる。


では、その道へ導かれるために何が必要なのか。私はまず、神様に認めてもらうことだと思う。そのためには、今与えられている仕事に全力を尽くすことである。


「こんな仕事は自分がするような仕事ではない」

「もっと自分にふさわしい仕事があるはずだ」


そんな思いで日々を過ごしていると、不思議なことに道はなかなか開けない。どんな仕事であっても、目の前の役目を誠実に果たし、黙々と努力を重ねる人にこそ、次の扉が用意されるのだと思う。


今日、そんな悩みを抱えた相談者が訪ねて来られた。話を聞きながら、私はこの方が近い将来、自分の進むべき道を見つけ、目を輝かせながら再び会いに来られる姿を自然と思い描いていた。


人生はいつからでも変わる。


その方が自らの天職に出会い、与えられた使命を存分に生きられることを願いながら、心からエールを送りたい。


本山で修行していた頃、私は法要で唱える声明が好きで得意だった。声明とは、独特の節回しをつけて唱えるお経であり、ある意味では仏教音楽とも言えるものだ。大勢の僧侶が声を合わせると、その響きは堂内を満たし、まるで天井から降り注ぐような荘厳さを生み出す。その迫力と美しさに、私は大きな魅力を感じていた。


その後、修道院で歌われるグレゴリオ聖歌を耳にする機会があった。初めて聴いた時の感動は今でも忘れられない。


声明は、日々鍛錬を積んだ僧侶たちが、張りのある力強い声で唱える。一方、グレゴリオ聖歌は声を張り上げることなく、静かに、そして自然に調和している。その響きは耳に届くというよりも、心の奥へと染み込んでくるようだった。


どちらにも、それぞれの素晴らしさがある。堂々たる声明には人の魂を奮い立たせる力があり、静謐なグレゴリオ聖歌には心を鎮める力があるように思う。


だから、もし私が何かに思い悩み、心が揺れている時には、静かに後者を選ぶだろう。グレゴリオ聖歌の穏やかな調べに耳を傾けながら、自分の心を見つめ直したいと思うからだ。


このようなことを書くと、僧侶の中には異論を唱える方もおられるかもしれない。しかし、優劣を語りたいのではない。ただ、一人の人間として、そして長年声による祈りに親しんできた者としての率直な感想を述べたに過ぎない。


祈りの形は違っても、人の心を清め、安らぎへと導こうとする願いは同じなのだと思う。