これまでに何度か、従来のお位牌や過去帳の代わりとして「携帯位牌」を手に、法事を勤めたことがある。最初は遠方から来られる檀家さんのためのものという印象が強かったが、実際に接してみると、それだけではないことに気づかされる。


旅のときだけでなく、日常的に携帯している方もいるのだ。鞄に忍ばせ、ふとした瞬間に手を合わせる。その姿からは、「持ち運べる位牌」という言葉以上の、静かな信仰のかたちが感じられた。


今回の船旅でも、部屋の一角に携帯位牌を飾っている方がいた。揺れる船内という非日常の空間にあっても、そこだけは確かに「いつもの祈りの場」なのだろう。さらに聞けば、位牌だけでなく、分骨を持参している方もいるという。


旅先であっても、大切な人と共に時間を過ごしたい。その思いは、形式や場所を超えて受け継がれていく。携帯位牌は、単なる代用品ではなく、現代の暮らしの中で祈りを手放さないための、新しいよりどころなのかもしれない。




大法輪寺本院に足を踏み入れると、まず目に飛び込んでくるのは、季節の彩りです。この時期は玄関がクリスマスの飾りで賑わい、寺院であることを一瞬忘れてしまうほどの温かさに包まれています。


この飾りつけは、坊守の趣味によるものです。クリスマスだけでなく、正月には正月らしく、ひな祭りには雛飾りを、節句の折にはその季節にふさわしい装いへと、少しずつ姿を変えていきます。その変化は控えめながらも丁寧で、訪れる人の心にそっと季節の気配を届けてくれます。


寺といえば、厳粛で静かな場所というイメージを抱きがちですが、大法輪寺は少し違います。ここには「これは寺だから」「あれは仏教ではない」と線を引くのではなく、さまざまな文化や価値観を受け入れようとする柔らかな姿勢があります。クリスマスの飾りも、その象徴のように感じられます。


すべてを包み込み、否定せず、静かに受け止める。その在り方は、宗教を超えて、人が人として生きていくための大切な心のありようを、そっと教えてくれています。


PB船内で、私はカメラ好きのYさんと仲良くなった。私より四つ年上の男性で、ひとたびカメラの話題になると、時間の感覚がふっと曖昧になる。レンズ、センサー、光の癖、言葉を交わすほどに、互いの距離も自然と縮んでいった。


ある日、彼の部屋で見せてもらったのが、憧れのハッセルブラッドのデジタル機だった。静かにそこに置かれているだけなのに、独特の存在感がある。普段使いはソニー。でも、三脚を立て、じっくりと向き合うときはハッセルに持ち替えるのだという。その切り替え方に、写真への誠実さのようなものを感じた。


「ファインダーを覗いていると、心のモヤモヤが消えていくんですよ」


そう語るYさんの横顔は、少しだけ柔らいで見えた。わかるなぁ、その気持ち。世界を四角く切り取る瞬間、余計な思考は静かに後ろへ退いていく。ただ光と影、今この一瞬だけが確かにそこにある。カメラが好きだという共通点は、きっと私たちの心の静けさの在り処が、よく似ているという証なのだと思った。