社会心理学者の加藤諦三氏は「悩みや苦しみの答えは、すでに多くの本の中に書かれている。だから私は勉強をするのです」と語る。そして、私の心に深く残る言葉がある。


「学歴は人を救わないが、学問は人を救う」


確かに、立派な学歴を持っていても人生に迷い、苦しみの中で立ち尽くす人は少なくない。しかし、本当に学び、自分の人生に活かした知識や智慧は、困難な時に進むべき道を照らしてくれる。


それは宗教の世界でも同じである。経典や聖書には、人間の苦しみや悲しみ、そして生きる意味についての答えが数多く説かれている。けれども、ただ読んだだけでは宝の持ち腐れだ。薬の効能書きを何度読んでも、実際に飲まなければ病が治らないのと同じである。


仏教では「解行相応(げぎょうそうおう)」という言葉がある。理解したことを実践してこそ、本当の智慧になるという意味だ。どれほど素晴らしい教えに出会っても、日々の生活の中で実践しなければ、自分を変える力にはならない。


学ぶことは知識を増やすためではない。人生をより良く生きるためである。そして宗教を学ぶことは、神仏の教えを知るためだけではなく、自らの生き方を磨くためである。


本を閉じたその後に、何を実践するのか。そこにこそ、学問や信仰の本当の価値があるのだと思う。


毎年、生前お世話になった住職のお墓参りをしている。墓前に立つたびに、その住職からいただいた教えの一つを思い出す。


「親孝行の功徳には上・中・下がある」と住職は語られた。


まず【下】の親孝行は、親に物を贈ること。感謝の気持ちを形にすることであり、もちろん尊い行いである。


次に【中】の親孝行は、親の言うことを聞き、親の望み通りに生きようと努めること。親の願いを受け止め、その期待に応えようとする姿勢である。


そして【上】の親孝行は何か。それは、元気な姿を見せ、笑顔で挨拶し、一人前の立派な人間として生きることだという。親が「この子なら大丈夫だ」と安心できることこそ、最高の親孝行なのだと教えてくださった。


先日の父の日にも、子供たちはそれぞれに気を遣ってくれていたようだ。若い頃は、何か贈り物をもらうと嬉しかった。しかし歳を重ねるにつれ、不思議と物への執着は薄れていく。


その代わり、心に残るものがある。


「元気にしています」「いつもありがとう」「身体に気をつけてください」


そんな何気ない一言である。高価な品物でなくてもいい。メール一本でも、短い電話でも構わない。親は子供の声を聞くだけで安心し、その優しい言葉に励まされる。


親孝行とは、決して特別なことではないのかもしれない。元気な姿を見せること、感謝を伝えること、そして親を安心させる生き方をすること。その積み重ねこそが、住職の教えてくださった「上の親孝行」なのだろう。


私もまた、子供たちからの温かな言葉に触れるたび、あの住職の教えの深さを改めて感じている。歳をとると物はいらない。しかし、人を思いやる言葉だけは、いくつになっても心を温かくしてくれるのである。


学生時代のキーパーソンであったT師は、よくこんなことを語っていた。


「地獄界には、政治家と僧侶がうじゃうじゃいるんですよ」


当時は少々過激な表現にも聞こえたが、歳を重ねるにつれ、その言葉の意味を考えさせられることが増えた。


政治家は本来、国民や地域住民のために働く立場である。しかし現実には、贅沢な海外出張や不要不急の事業など、税金の無駄遣いが問題になることも少なくない。公のために託された権力が、いつの間にか私利私欲のために使われてしまうのである。


一方、僧侶もまた同じである。本来は人々の苦しみに寄り添い、仏の教えを伝える存在でなければならない。ところが、「離檀料を払わなければ墓じまいを認めない」など、常識では考えられないような話を耳にすることもある。信仰よりも金銭が優先されるならば、それは仏道から大きく外れていると言わざるを得ない。


政治家も僧侶も、人から信頼を託される立場である。その信頼を利用して欲望を満たそうとする時、人は知らず知らずのうちに道を誤る。


欲望の塊となった人間は、死後に地獄へ行くのかもしれない。しかし実際には、その前にこの世で生き地獄を味わうことになる。周囲からの信用を失い、心の平安を失い、疑いと不安の中で生きる人生ほど苦しいものはない。


地獄とは、死後の世界だけに存在するものではない。欲望に支配された心そのものが、すでに地獄の入り口なのかもしれないのである。