若い頃の私は「学ぶこと」に強い憧れを抱いていた。各宗派の勉強会や、新興宗教団体の集まりにも積極的に足を運び、毎日のように通った時期もある。仕事を終え、そのまま夜の勉強会へ向かい、帰宅は深夜になることも珍しくなかった。


当時は「多くを知ること」が、仏道を深めることだと思っていたのである。


しかし、長年さまざまな教えに触れてきて、ある時ふと気づかされた。

大切なのは、どれだけ学んだかではない。その学びによって、自分がどれだけ変わったかなのだ。


どれほど難しい経典を読み、深い教義を語れたとしても、怒りや嫉妬、見栄や慢心に振り回されているなら、その学びはまだ頭の中だけで終わっている。仏教は本来、「知識」を増やすためのものではなく「生き方」を変えるためのものなのだと思う。


ある宗祖はこう語っている。


「魚の卵から稚魚になる数は多いが、成魚となるものは少ない。菴羅樹の花は多く咲くが、果実になるのは少ない。人間も同様で、仏道を求める心を起こす者は多いが、どこまでも真実の仏道を求め続ける者は少ない」


まさにその通りである。


信仰を語る人は多い。勉強会に通う人も多い。だが、その教えを日々の暮らしにまで落とし込み、実践し続ける人は少ない。


勉強会の最中は、皆とても立派に見える。優しい言葉を使い、反省を語り、慈悲を口にする。しかし、会が終わり、本を閉じた瞬間に、また元の自分へ戻ってしまうことがある。


それは決して他人事ではない。私自身もまた、その繰り返しの中を生きてきた。


だからこそ最近は「何を学んだか」よりも「今日の自分は昨日より少しでも優しくなれたか」を大切にしたいと思うようになった。


仏道とは、特別な場所にあるものではない。毎日の言葉遣いであり、人への接し方であり、怒りを抑える一瞬の努力であり、誰にも見えないところでの振る舞いなのだと思う。


学問としての仏教も大切である。だが、本当に価値があるのは、学んだ教えがその人の人生に滲み出ているかどうかではないだろうか。


子供の頃というのは、大人の会話をそのまま受け取ってしまう。そこに事情や背景を理解する力はまだなく、耳に入った言葉を、まるで真実のように口にする。私も寺の子として育つ中で、その言葉に何度も傷ついた。


寺の建て替えで寄付をお願いしていた頃、同級生や近所の遊び友達からこう言われたことがある。


「何でおまえの家を建てるのに、うちがお金を出さんといけないのか。うちの家はボロなのに」


私は意味がわからなかった。ただ胸だけが痛くなり、泣いて帰った記憶がある。子供同士の言葉ではあるが、その背景には必ず大人の会話がある。夫婦で寄付の話をすれば、子供の耳にも入る。そして子供には「寺にお金を取られる」という感覚だけが残るのだろう。


父はよく言っていた。


「自分たちが住む庫裡は自分で建てる。しかし本堂は檀家のものだからお願いする」


今になれば、その言葉の意味はよくわかる。本堂とは住職個人の財産ではなく、先祖を供養し、地域の祈りを支える場所であるという考えだ。だが、子供にその理屈は伝わらない。いや、大人でさえ理解しようとしない人もいる。


だから私は、自分の子や孫に同じ思いをさせたくなかった。寺を維持するために、檀家を当てにし過ぎないやり方を選んだのである。もちろん簡単な道ではない。苦労もある。しかし、寄付をお願いするたびに、誰かの家庭で嫌な空気が流れ、その言葉が子供の口から出てくることを思えば、私は別の道を歩みたかった。


寺は本来、人の心を救う場所である。そこから恨みや不満が生まれるなら、何かを考え直さなければならない。


子供の頃に受けた言葉は、今でも忘れてはいない。しかし、その痛みがあったからこそ、「次の世代には同じ思いをさせない」という考えに辿り着けたのだと思っている。



寺院には、地区ごとに役員を置き、護持会費や寄付を集める仕組みがある。もちろん、それ自体を否定するつもりはない。大きな寺院になれば、住職一人では到底まわりきれず、誰かの手を借りなければ維持できない事情もあるだろう。


だが私は昔から、その「集金」という役目に、どこか違和感を抱いてきた。


当寺には地区役員はいない。護持会費も寄付も、お願いして集めることはしていない。なぜなら、お金を集めるという行為ほど、人の本音が見えるものはないからだ。


役員を引き受けた方々も、本当は気が重いのである。喜んで「集金に来ました」と歩く人は少ない。訪ねれば「何のお金ですか?」と毎回尋ねられる。時には嫌味を言われ、不満をぶつけられることもある。お金が絡めば、人間関係はどうしてもぎくしゃくする。


しかし本来、その矢面に立つべきなのは住職ではないだろうか。


寺を守るためのお金であるなら、住職自らが一軒一軒伺い、頭を下げ、「寺を維持したいので、どうかお力を貸してください」とお願いする。その姿勢の中にこそ、浄財の意味があるように思う。


浄財とは、単なる「金」ではない。人が寺を信じ、「この寺を残したい」という気持ちで差し出す尊い心である。


だからこそ、受け取る側にも覚悟が必要だ。


玄関先で頭を下げる住職は、檀家の暮らしを見ることになる。年老いた姿、病を抱えた姿、家族を失った悲しみ。あるいは生活に苦しみながら、それでも寺を支えようとしてくださる姿。その現実を目の当たりにすれば「今年も当然のように会費を頂く」という感覚にはなれないはずだ。


おそらく「忙しい」「そんな暇はない」という声もあるだろう。しかし、それは役員も同じなのである。皆、仕事や家庭を抱えながら寺のために動いている。


檀家と寺は、制度で結ばれているのではない。信頼関係で結ばれている。その信頼を築く役目は、やはり住職自身なのだと思う。


今一度「浄財」とは何かを、自らの足で歩き、自ら頭を下げ、身をもって感じる時代が来ているのかもしれない。