ステンドグラス寺院にふさわしい、素敵なスタンドのステンドグラスが奉納されました。


奉納してくださったのは、ステンドグラス作りを趣味にされている信者さんご夫婦です。実物を拝見すると、その精密さに驚かされました。細かな部分まで丁寧に作り込まれており、そこにはお二人の技術と心が込められています。


ステンドグラスを制作している間は、きっと時間を忘れ、無心になっておられたのではないでしょうか。ひとつひとつのガラスを組み合わせ、少しずつ形になっていく。そして、ようやく完成した瞬間の喜びと感動は、作った人にしか味わえないものだと思います。


仏教には「無心」という言葉があります。何かに夢中になり、余計なことを考えず、ただ目の前のことに打ち込む。もしかすると、ものづくりにも、そんな仏教の教えに通じるものがあるのかもしれません。


お二人の手によって生まれたステンドグラスが、これからは寺院を訪れる方々の目を楽しませてくれることでしょう。


心のこもった素晴らしい奉納品を、本当にありがとうございました。大切に使わせていただきます。


彼岸の最終日は、「智慧」を磨き、日々の生き方や振る舞いを見つめ直す日です。品性というものも、こうした小さなところに表れるのかもしれません。


先日、こんな話を聞きました。


お参りに来た住職が、ジーパンの上に衣を着ていたというのです。


また、墓前で皆さんがお経を唱えているとき、参列者は全員帽子を脱いでいるのに、その住職だけは帽子をかぶったままお経を唱えていたとか。しかも、衣の前襟からはカラーのシャツがしっかり見えていたそうです。


「そんな細かいことを……」と思われるかもしれません。しかし、実際にその場にいた方々は、案外そういうところをよく見ているものです。


お経の内容を一字一句覚えている人は少なくても「あのとき住職はこうだった」という印象は、いつまでも残ります。


僧侶にとって衣は、単なる仕事着ではありません。仏さまの前に立つ者として、自分を律するための姿でもあります。だからこそ、服装や身だしなみ、立ち居振る舞いにも、それなりの心配りが必要なのでしょう。


もちろん、衣の着方ひとつで人間のすべてが決まるわけではありません。ジーパンを履いているから悪い人、帽子をかぶっているから品性がない、という話でもありません。


ただ、仏さまの前に立つ以上「どう見えるだろうか」と一度立ち止まって考える心は持っていたいものです。


この一週間、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、そして最後は智慧。六波羅蜜の修行を振り返りながら、私自身も自分の姿を鏡に映してみます。


「人のことを言っている場合か?」そう思うと、私自身も決して人のことは言えません。


品性というものは、誰かに教えてもらうものではなく、毎日の小さな所作の中で少しずつ磨いていくもの。


僧侶だからこそ、まず自分自身を見つめ直さなければなりません。


さて彼岸も終わり、明日からは修行も終わり……と言いたいところですが、人生そのものが修行です。衣の襟を直す前に、まず心の襟を正しておきましょう。


六波羅蜜の六日目は、「禅定」です。


禅定というと、静かに座って心を落ち着ける修行を思い浮かべますが、私はもう一つ「第三者の目で自分自身を見つめること」も大切なのではないかと思います。


自分では正しいと思っていたことも、少し離れたところから眺めてみると「あのときは、ずいぶん勝手なことをしたな」と気づくことがある。


振り返れば、私にも反省材料は山ほどある。特に若い頃は、今よりも未熟でしたから、多くの人に迷惑をかけた。思い出したくないこともあるが、歳を重ねると、なぜかそういうことばかり思い出すものです。


「申し訳なかったな」と心の中で反省するだけなら簡単です。しかし、還暦を過ぎた頃から、私は少し考え方が変わってきた。


本当に申し訳ないと思うのなら、直接会って「ごめんなさい」と言う。お世話になった人には、「ありがとうございました」と伝えたい。


心の中だけで反省して、それで終わりにしてはいけない。できることなら、探し出してでも、自分の言葉で伝える。それもまた、禅定の一つではないかと思うようになった。


私にとって、還暦を過ぎてから始まったのは、いわば「お詫び行脚」です。


昔のご縁をたどって「あのときは申し訳ありませんでした」「あのときは本当にありがとうございました」と、一人ひとりに伝えていく。


ところが、探してみると、すでに亡くなっている方もいます。そんなときは、その人に直接お返しすることはできません。だから私は、その分を別の誰かに返していけばいいのだと思っています。


人に親切にする。

困っている人に手を差し伸べる。

誰かを笑顔にする。


そうして、いただいたご恩や、過去の過ちを、少しずつ別のところへ返していく。


人生には、やり直せないことがあります。けれど、やり直せないからといって、何もできないわけではない。


六波羅蜜の「禅定」とは、静かに座って自分の心を見るだけではなく、これまでの自分をもう一度見つめ直し、これからの生き方を変えていくことなのかもしれない。


そして、反省は「思うこと」で終わらせず「行動すること」。私の「お詫び行脚」は、まだまだ続きそうです。