長い付き合いのある住職が、葬儀や法事の金額をはっきりと掲げるようになった。時代の流れを思えば、それ自体は一つの誠実さとも言える。曖昧さが安心につながらない世の中で「見える化」はむしろ歓迎されるべきことなのかもしれない。
ただ、その額面を見たとき、胸の奥に小さな違和感が残った。他と比べても、かなり高い。思い切って本人に尋ねると「うちの宗派には格式があるから、このくらいが妥当だと思う」と静かに答えた。
その言葉を聞きながら、私はふと立ち止まる。果たして“格式”とは何だろうか、と。
思い返せば、宗祖が歩まれた時代は、今よりもはるかに厳しい世の中だった。貧しさにあえぐ人々、行き場のない者たち。その中に身を置き、同じ目線で語り、決して無理を強いることなく、ただ教えを説き続けた。その姿に、人々は救いを見出し、自然と手を合わせたのではなかったか。
そこにあったのは、格式ではなく、寄り添う心だったはずである。
時代が変わり、寺を維持することの難しさは増している。現実的な問題として、一定の収入が必要であることも理解できる。しかし、その根底にあるべきものまで変わってしまってよいのだろうか、と自問する。
「これくらいが妥当だ」と決める前に「誰のための寺なのか」と問い直すこと。宗祖の言葉や生き方に、もう一度耳を傾けること。それは懐古ではなく、これから先も寺が寺であり続けるための、大切な作業のように思える。
格式とは、掲げるものではなく、にじみ出るものなのかもしれない。


