高校時代を通じて数学の偏差値が45前後だった文系脳の書く事
だと思って読んでいただきたいです。先日匿名掲示板で見かけた
ニュース、小学校の算数の試験で18÷0=?という問題が出たと
いう話がありました。18×0=0ではなく、割ってみてよと。
数式の立てられ方や計算の正しさというものは、数式自体に内在
している訳ではなくて、読み取る側で別の記号(普通は母国語)に
よって補完する事によって、そこで初めて正しいとか正しくない
という判定が可能になると考えています。1+1=2というのも、
[1+1]は[2]とは違う記号だとか、1+1=1+1において、
左右の位置が違うからこれは同じ[1]とは言えないとか、
理論上とはいえ、本当に無制限に同じものが存在したり認識
できたりするでしょうか?とかは考えてはダメで、そういう事
は抜きにして、1+1=2だという決まり事に従うのであれば、
それは正しい計算であるという事になるのだと思っています。
18÷0というのも、読み取る人の解釈によって色々な答えが出る
ようで、多かったのは①18、②0、③解なしの3つでした。
皆さんはどう思われます?台所は①の18だと考えました。理由と
しては、18を3つに分けると6、2つに分けると9、1つに分ける
と18で、0で分けるというのは分けていない事になるので、元の
18のままではなかろうかと。この①の18という回答に対して
は、18÷1=18である事から、18÷0=18だとすると、1=0か?
というツッコミがありました。これは誤った三段論法の例、
【A.英雄色を好む→B.我色を好む→C.我は英雄なり】の
未だ主張していないはずの三段目を先取りしてなされた批判の
ようなニュアンスといいますか、どこか釈然としないものが
ありますね。
自分としては、むしろこういうツッコミは、②の0という回答の
可逆性の無さにこそ当てはまっているような気がしていて、
じゃあ分けたのをいったん元に戻そうや、6を3回集めて18…
分けていない18は18のままね。とやっていく際に、0は何回
集めても0だぜ、みたいな。その前に分けられていた6とか9とか
18はどこに行った?という疑問とともに、それは元々あったの
が18ではなくて、1とか0とか∞であっても似たような事で、
②の場合の0で割ったというのは、それを経験できる事柄に
置き換えるとしたら、一体何をしでかしたのかが、非常に気に
なるところであります。長すぎるので、次回に続きます。