Forever! テリー・ファンク!!! ~私たちは貴方のことを決して忘れない | DaIARY of A MADMAN

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毎日、ROCKを聴きながらプロレスと格闘技のことばかり考えています。

遂にこの日が来てしまった・・・

 

体調が悪い、認知症を患わっているなどの情報は入ってきていたので覚悟はしていたが、それにしても・・・

 

思えば、私が最も熱狂したプロレスラーはテリー・ファンクだった。

 

小学校低学年時にアントニオ猪木の一連の死闘を観たことがプロレスにはまるきっかけだったものの、1977年12月の「世界オープンタッグ選手権」における、テリー&ドリー・ファンク・ジュニアのザ・ファンクスと、“史上最凶悪コンビ” ザ・シーク&アブドーラ・ザ・ブッチャーの抗争は、私に次元の違う興奮を与えてくれた。

 

キラー・カール・クラップやジョニー・パワーズ、タイガー・ジェット・シン、ビル・ロビンソンといった外国人レスラー、坂口征二やストロング小林、大木金太郎ら強豪日本人選手とのシングルマッチをほぼリアルタイムで観れたのは(もちろんテレビ観戦ですよ)幸せだったが、ファンクスとブッチャー&シークが紡いだ一連の抗争はプロレスならではのダイナミズムを感じさせてくれたものだった。

 

 

 

 

1978年から1981年にかけて、全日本プロレスを支えていたのはファンクス、とりわけテリーの人気だったと言っても過言ではない。全国どこの会場へ行ってもファンにもみくちゃにされ、それでも笑顔を絶やさない姿からチアガール(テリー・アーミー)が何組も結成されたことは今でも懐かしい想い出だ。

 

もちろん、それを支えたのが最凶悪コンビ、特にブッチャーの存在だったことは言うまでもない。クラッシュ・ギャルズ(長与千種&ライオネス飛鳥)の人気の陰に極悪同盟(ダンプ松本&クレーン・ユウ)がいたように、ブッチャーとシークの徹底した悪役人気がファンクスの人気を爆発させた。

 

そんな好敵手、最凶悪コンビとの2年越し(1977年暮れ~1979年暮れ)の抗争に終止符を打った1979年の「世界最強タッグリーグ戦」の最終戦は、まさに抗争の集大成とも言える、完璧な試合だった。

 

 

 

 

 

事実、その後、仲間割れしたブッチャーとシークはそれぞれ別の相棒とタッグを組んだが、もはや以前のカタルシスを得られるものではなかった。

 

テリーにとって最大の仇敵と言えたブッチャーが新日本プロレスに移籍したことをきっかけに、新日本と全日本で「引き抜き合戦」が繰り広げられ、新日本からはタイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセンが全日本に移り、ブッチャーやディック・マードックらが全日本から新日本へ移ったが、皮肉にもその引き抜きに力を注いだ当時のブッカー、テリーとドリーは自分が声を掛けたハンセン(と、その相棒となるブルーザー・ブロディ)に引導を渡されることになってしまう。

 

1983年8月のテリー最初の引退までに約1年半、ハンセン&ブロディとファンクスは抗争を繰り広げるが、ブッチャー&シークを相手にした時のような人気は得られず、その肉体もどんどん蝕まれていった。

 

多くのテリーファンは、1983年の最初の引退で見限ってしまうことになるのだが、ご承知のように、それ以降のテリーは、FMWやIWAジャパン、ECWなどの闘いを続けるうちにいつしか「ハードコア・レジェンド」となってゆく。

 

私の友人などは、この当時のテリーについて否定的な見方をしているが、いつの時代にあってもテリーはテリー。常に全力投球でオーバーアクションを繰り広げ、プロレスとは何か、プロレスラーとはどう在るべきかを私たちファンに示してくれた。

 

想い出は尽きない。

書こうと思えばいくらでもエピソードはあるのだが、ここらへんにしておく。

 

私たちに多くの感動と勇気を与えてくれたテリー・ファンク。

 

小学校の卒業アルバムへの寄せ書きに「テキサス魂を忘れるな!」と書いた私が、そうやって生きてきたと言えるのだろうか、自問自答をすると恥ずかしくなるが、数々の逆鏡を乗り越えることができたのは、少なからずテリーの姿を思い浮かべたからだ。

 

テリー、私たちは決して貴方のことを忘れない。

今はただ、安らかに。

R.I.P...