検証シリーズ② 「テリー・ファンクの感動の引退は、いかにして仕組まれたのか?」 | DaIARY of A MADMAN

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毎日、ROCKを聴きながらプロレスと格闘技のことばかり考えています。


プロレスラーの「引退」ほど、あてにならないものはない。

残念ながら、これを「定説」にしてしまった“戦犯”がテリー・ファンクだという指摘に異論を唱える人は少ないだろう。

最初に明言しておくと、私はテリー・ファンクが大好きである。

『GONG』の付録だった、テリーがNWA世界王者時代に“長髪”にバンダナ姿でベルトを巻いているポスターを部屋に貼っていたほどだ。そして、もちろん1977年の「世界オープンタッグ選手権」以降の“ファンクス(と言うより、テリー個人の)ブーム”には、本当に大熱狂した。

しかし、事実は事実として捉えなければいけないし、なぜ、テリーはあの時「引退」し、「復帰」したのかをじっくり考えなければいけないというのが、本稿の狙いである。


ご存知の通り、テリーはドリー・ファンク(以下、シニア)の次男として生まれ、兄のドリー・ファンク・ジュニア(以下、ドリー)と共に幼い頃からレスリングの英才教育を受けた。

大学時代にはアメリカン・フットボールで「プロに誘われる」ほど、活躍していたものの、ドリーに遅れること2年、21歳でプロレスデビューを果たしている。

よく知られている通り、28歳でNWA世界王者となり、70年代を代表するレスラーと言われたドリーに比べれば、テリーのレスラーとしての評価は1枚も2枚も落ちる。

だが、1977年暮れの世界オープンタッグ選手権における、アブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シーク戦をきっかけに、ここ日本限定でテリー人気が爆発することになるのだ。

それまでは「ドリーのやんちゃな弟」というイメージが先行し、「BI砲」ことジャイアント馬場&アントニオ猪木からインターナショナルタッグ選手権を奪ったものの、ジャイアント馬場&坂口征二の「東京タワーズ」や、馬場&ジャンボ鶴田に同タイトルを明け渡すなど、それまでは到底「主役」を張れるような選手ではなかった。

しかし、伝説の「フォーク刺し事件」で、一夜にして状況は一変する。

ただ、正確に言えば、テリー人気が爆発したのは翌78年夏、「サマーアクションシリーズ Part1」からである。

テリーは後半2週間のみの特別参加だったが(ちなみに、このシリーズには「右利きのテリー」ことディック・スレーターも参加していた)、何故か出場メンバーに入ってなかったブッチャーが開幕戦のメインで馬場を急襲した。

マイクで「テリー・ファンク!」を連呼しただけだったように記憶しているのだが、確か山田隆さんだったか、「自分は昨年暮れのタッグリーグでテリーに恥をかかされた。その汚名を晴らすためにやってきた。俺とテリーと闘わせろ、と言っているみたいですね」と名解説。(実際に言っていたのかもしれないけど、当時中学生になったばかりの私には聞き取れず)

それなら、テリーが参加する日を襲えばいいのに、という野暮な突っ込みはさておき、翌週の大宮、その次の週の品川と、2週続けて「テリー vs ブッチャー」の因縁対決が組まれたが、ここでの五寸釘を用いたブッチャーの狂乱ファイトと、それに「テキサス魂」で立ち向かうテリーの姿に心を打たれたファンは思わず「テリーコール」を発する。

これも私の記憶違いかもしれないが、たぶん会場が一体となった選手への「コール」はこの時が初だったと思う。

額と言わず、耳と言わず、全身傷だらけになりながらも拳を振り上げてブッチャーに立ち向かうテリーの姿に日本のファンは心を打たれ、いつしかハートをがっちり掴まれてしまった。

年末の「世界最強タッグ決定リーグ戦」や79年夏の決戦を通じた「ブッチャー&シーク」との抗争で、テリーはどんどん“アイドル人気” を高めていく。(この時期の活躍がなければ『キン肉マン』のテリーマンは存在しなかったであろう)

しかし、その一方で激闘の代償は大きく、テリーがブッチャーとの一連の抗争で痛めた傷は、そう簡単に癒やせるものではなかった。

凶器攻撃だけではない。ブッチャーの巨体を相手にするだけで、かなりのハンディがあったはずだ。

そしてブッチャーとシークの仲間割れ、そして「最大の宿敵」ブッチャーの新日本プロレス移籍により因縁の抗争が一段落付いたが、それと入れ替わるような』形で新たな強敵が出現した。

ブルーザー・ブロディとスタン・ハンセンだ。

「ミラクルパワーコンビ」と称される2人は、若さ溢れダイナミックな攻ファイトが持ち味で、パワーと体格では圧倒的に優位に立つ。そんな攻撃を受け続けることで、テリーのダメージはどんどん蓄積されていった。

ブッチャー&シーク、そしてハンセン&ブロディと最前線で闘い続けたことで、テリーの肉体、特に膝がパンクしてしまったことが、「テリー・ファンク引退」の直接的な理由とされているのは周知の通り。

ところで、これも今ではよく知られていることだが、全日本プロレスの旗揚げからブッカーとして外国人レスラーの窓口となっていたのがファンクファミリーである。

「1エリア、1プロモーター」を原則とするNWAに、日本プロレスがまだ現存するというのに全日本プロレスが加盟できたのはシニアの強硬なプッシュがあったからで、そのシニア死去後もドリー&テリーがその職を全うしていた。

つまり、「ファンクス vs ブッチャー&シーク」の抗争を仕掛けたのも、ブッチャー引き抜きの報復としてハンセンを引き抜き返したのも、すべてファンクス自身の「ビジネス」だったのだ。(実は、ビル・ロビンソンに声を掛けたのもドリーだし、デビュー時に世話した関係でハルク・ホーガンもテリーに誘われ、移籍寸前だった)

ただし、それは全日本の総帥・ジャイアント馬場の意向を汲んだ上での出来事であることを忘れてはならない。

旗揚げ以来、アントニオ猪木率いる新日本プロレスと差別化を図る手段として、自らの豊富な人脈を駆使した豪華外国人レスラーの参戦こそが馬場・全日本の特長だった。

それに対抗するために猪木は1976年、ウィリアム・ルスカ戦、モハメド・アリ戦という「異種格闘技戦」を大ヒットさせ、また1974年から75年にかけては国際プロレスのエースだったストロング小林戦や、日本プロレス時代の因縁(会社乗っ取り計画→発覚→猪木追放)の清算とも言えた大木金太郎戦、先述したロビンソン戦などで大きな話題を集めていた。

話題性の面で劣勢に置かれた馬場が“起死回生の策” として打ったのが、さらなる豪華外国人レスラーの活用。それが75年末の「世界オープン選手権」であり、77年末の「世界オープンタッグ選手権」である。

ファンクスとシーク&ブッチャーの抗争も、その後のハンセン&ブロディとの抗争も、当たり前のことだが「ビジネス」の一環である。そう考えた時、まだ30代半ばのテリーが、40歳を前にして引退する(39歳の誕生日)など、まず馬場が許すとは思えない。

まして、自らの肉体をボロボロにしてまで全日本マットを盛り上げてきたテリーが、「家族とノンビリ過ごしたい」からと、職場放棄をするだろうか。

完全ヒールのシーク&ブッチャーから、ヒールながら若者の支持率が高かったハンセン&ブロディに抗争相手が変わったとはいえ、当時の(テリーの最初の引退前)ファンクス人気はまだまだ健在だったし、大体「3年後に引退する」という言い回しそのものが、「ビジネス」くさい。本当にキツいのなら、すぐに引退するか、しばらく休養すればいい話だ。

つまり、この「テリー引退及び復帰」は最初から「会社の方針」として仕組まれていたものではなかったか、ということだ。

もちろん、馬場や親会社の日本テレビだけが悪くて、「テリーは被害者だ」とまでは言うつもりはない。ブッカーだったテリー(とドリー)も、承知の上でこの「仕掛け」に乗ったのは確かだろう。

ただ、おそらく日本人とアメリカ人では「引退」に関する意識が大きく異なる気がする。「潔さ」が求められ、スポーツ感覚より武士道の精神を尊ぶ日本では、一度引退した選手が復帰することを快く思われる土壌にない。

引退する前でさえ、多大な功績を挙げた選手が最後の力を振り絞って選手生命を全うしようとしているのに、「晩節を汚す」だの、「引き際の美学」だのと、勝手な言い分を持ち出すのが日本人の特性だ。

そこをテリーは見誤ったんだと思う。

NBAのレジェンド、マイケル・ジョーダンやボクシングの世界ヘビー級王者、ジョージ・フォアマンの例を見る限り、アメリカは少なくとも日本よりは「引退→復帰」に対して寛容だし、「挑戦」という目で見てもらえる。だから、「第2のホーム」と愛した日本での復帰後のバッシングは想定外だっただろうし、さぞかしとまどったことだろう。

たぶん、本来ならばテリーの引退後、「テリー不在」のマットでドリーがハンセン&ブロディに痛め付けられるのを黙って見ていられないテリーが思わずリングに駆け上がり、全身ボロボロの肉体に鞭を打って、再びリングに上がる決心をする。

映画の「ロッキー」や、テリーが好きなジョン・ウエインの西部劇のような“華麗なる復帰劇” を演じるつもりだったんだと思う。

だが、待っていたのは厳しい現実だった。

全盛期のミラクルパワーコンビにボロボロにされ(いかに恩人でもリングの上は別。主役は力で奪い取らなければいけないのが鉄則だ)、「あの感動的な引退試合は何だったんだ」と、一部のファンからはそっぽを向かれてしまった。

更には、長州力率いるジャパンプロレス勢の参戦により、完全に「オールドタイマー」扱いされることになる。

さすがに、馬場も「最大の功労者」を無碍にはできなかったのだろう。ブッチャーとの抗争の「カバー作品」としてタイガー・ジェット・シンとの因縁試合をセットしたのをはじめ、当時の“最先端” ロード・ウォリアーズやダイナマイト・キッド&デイビーボーイ・スミスなどとのカードも組んだが、パワーとスピードの違いが浮き彫りになるばかりで、大して話題にならず、少しずつ全日本のリングからフェードアウトしていくしかなかった。


テリーの「引退→復帰」が「ビジネス」だったことを思わせる事例として、当時全日本に在籍し、アメリカ武者修行時代にはテリーに世話になっている大仁田厚が、その手法を真似ていることでも伺える。

長州力やダイナマイト・キッドも日本で「引退→復帰」を行ったが、私見で言えば「復帰」に関しては「ビジネス」的な側面もあっただろうが、「引退」自体にビジネス的な要因はなかったと思う。

しかし、全日本での引退はともかく、FMWでの大仁田は1年にも及ぶ「引退ロード」を組み、大々的なビジネスにしている点で、テリーのケースとの共通性が高い。たぶん、そばで見ていた大仁田が「テリーの引退」を参考にしていたことは想像に難くない。


ところで1973年のドリー・ファンク・シニア死去の有名なエピソードをご存知だろうか。

とあるパーティでアルコールが入っていたにも関わらず、シニアは若手のレスラーとレスリングに興じてしまい、その最中、心臓発作を起こして急死してしまう。

ニック・ボックウインクルは「レスラーでこの話を聞いて涙しないものはいない」と語っているが、これはつまり、プロレスラーたるもの、年を取ろうが、酒が入っていようが、いつ、いかなる時も常在戦場でなければいけないし、死ぬまで現役でなければいけない。そういう覚悟を最後まで示し、リング上で天命を全うしたシニアは“レスラーの鑑” だということを伝えたいのではないかと、私は解釈している。

そういった父親を持つテリーが、「膝がボロボロだから」「家族と過ごしたいから」と、30代で引退を決意するだろうか?


日本に多くのファンや友人を持つテリーのことだ。自らの「引退→復帰」がどう報じられ、どのようにファンに思われていたかは当然知っていたはず。それなのに「ケーフェイ」の一環として一切言い訳をせず、「A級戦犯」の謗りを甘んじて受け続けたテリー。

晩年、馬場・全日本と縁を切り、同じく「見捨てられた」大仁田を助けたり、仇敵とも言える新日本に上がったりしたのも、深読みすれば、「とことん尽くしたのに・・・」という想いから来ていたのかもしれない。

その後、ECWから始まった“ハードコアスタイル” の教祖として「リビング・レジェンド」となっていったのは、せめてもの救いだ。


私は、テリーのファイトスタイルにたくさんの元気をもらったし、どんなことにも挑戦してゆく勇気を教えてもらった。

今なお、テリーを批判する人は多い。
しかし、私は今も、これからもテリーが大好きである。






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