おはようございます!
AYAMIですニコニコ

私に日常で起こったこと、感じたことから気づいたことをアウトプットしますグッ




先日私にとっては奇妙な出来事があった…


リハビリにお伺いさせている利用者さん
ほとんど一日中ベッドから動くことはなく生活されている


いつも通り話をしたり、身体を動かしたりしていたが
ふとその方はベッドの上に髪の毛1本落ちているのに気がついた


そしてその方はその髪の毛をベッドから払ってベッドの下、床に落とした



それをみた時に私は何か“違和感”を感じた


なんで“違和感”を感じたのか


私はベッドの下、床に膝をついて話をしたりしている
そして自分の部屋であり、日常生活をしている空間であるところで
ベッド上の髪の毛一本は気になるのに
床に落ちているのは気にならない


私ならベッド横、すぐ手が届くところにあるゴミ箱に捨てるのに
そうはしない


なんでなんだろうと考えてみた


自分の視界から消えることで
綺麗になったってことなのか?


それとも
いまその方にとっては
ベッド上は内、それ以外は外なのか?


そう考えていると
もっと大きな視点からも考えてしまった


もっと普段の生活からも言えるのではないか?と




自分の視界から消えること
そのような物事があるということを知っていながらも
自分には見えないということで
自分の内では綺麗になる


『内は内、よそはよそ』


自分は他人と違う
他人も自分と違う


“違い”を理解するのはいいが
それを切り離ししてしまっていいのだろうか


もっというと
どこまでが内で
どこからが外なのか?


私と他
家族の一員である私と他
会社の一員である私と他
友達グループの一員である私と他
日本の一員である私と他
地球の一員である私と他

そして過去から未来にかけての時間軸の中にいる私と他


どこまでが内でどこからが外なのか?


きっと人それぞれであり
その時の状況によって違うのだろう


私個人での立場になると
きっと自分の半径3mくらいの出来事しか興味がなくなるし
そこの状態が自分にとってよかったらいいと思う


そんな時に
未来の地球のためを考えてSDGsを!という言葉なんか耳にも目にも入ってこないだろう


リハビリに行かせていただいている方の考えがいいとか悪いとかではなく


人それぞれ違うんだろうなと思った


そして自分はどんな内と外を持っているのかと考えて
相手はどうなのかを考えたい


自分を知って、相手を理解する


そんなことに気づいた


小さな出来事ではあったが
そこから関連づけて
深く考えてしまう


それは私の癖であり
以前はこれを周りから「考えすぎだよ」と言われていたが


“特技”であることにする


※これは個人の意見である
っていう言葉は必要ですね!笑


おはようございます!
AYAMIですニコニコ


今日はかなり私個人のことを含めての内容になっています
しかも少し長くなってしまいましたアセアセ


お時間がありましたらどうぞおねがい




父、母
姉、兄、妹、弟
祖母、祖父
上司、部下
チームリーダー、部長、社長
先輩、後輩
友達、彼氏、彼女
夫、妻
などなど…


いろいろ名前がついている役割がある


そしてその役割は
生まれたときからあるものもあるし
途中でつく役割もある


役割があることって
人によっては動きや思考を縛ってしまうことがあると思う



ちょっと私の話をしますニコニコ


私は物心ついたときには
『姉』という役割があり
『子供』という役割があった


姉という役割は今も根強く残っていると自分の行動を振り返ると感じることがある
ふとした時に出現してくる


小さい頃
どうしても妹と私は母親から比べられることが多かった


妹は「お姉ちゃんはちゃんとやってるのに何でやってないの?」と言われている
「お姉ちゃんはご飯の用意手伝ってくれるのに何で動かへんの?」
「お姉ちゃんは...」

“しっかりしている私”に対して妹は...みたいな


お母さんとしては
妹に発破をかけるつもりで言っていたのだと思うけど
その時は
私“しっかりしていると判断されている”とどこかで感じていたのだと思う


知らない間に埋め込まれている感覚
お母さんに言われている妹をみて育ってきた私


ちゃんとしないと
いろいろ言われるんだ...

と勝手に感じていた


だんだんとその言われている環境はしんどくなってくる
その場にいたくなくなる


私に対して怒られることはあまりなかったが
その怒られている場面にいると自分が怒られているのではないかと思えてくる


その環境が嫌になり
妹に変わってもらおうとして
妹に対して
「今やっておいたほうがいいんじゃないん?」と言うが
「わかってるよ!」と返されるだけ


人を変えられるわけもなく
自分が妹の分までやり


結局「お母さん!妹が全然動いてくれない!」と告げ口をし
自分で妹が怒られる環境を作ってしまう


それも嫌になり
自分のことは自分でやり
妹のことは一切見ないふりをしていた


でも見えてしまう…


それにも嫌気がさす


大人になり、考えが色々吸収してきた今
俯瞰的にみると
面白いことが起きていたなと思う笑い泣き



でも、その時はこの環境にいることがすべてで
しんどく感じたこともあった


『妹』という役割を羨んだこともあった
お姉ちゃんがいると、しっかりしなくても自由奔放にしていいんだろうなーって


本気で思っていたこともあった


 ​“姉”という役割の理想型を自分で作り出していた





子供のころ
妹のためと思って言っていた言葉
留守番をするときでも「妹の面倒よろしくね」と言われた言葉


きっと他にもいろんな言葉をかけられてきたし
会話をしてきたはずなのに


自分が受け止め、自分の中で採用してきた言葉は
「姉は妹を面倒見て、しっかりしないといけない」ということ


何を採用するかは自由である

なのに私はこの言葉を採用し
自分の役割としてその言葉に見合う対応をした


姉というものはこうだとは決まっていないはずなのに
自分の近くのものばかりを見て
正解を導き出そうとしている


正解なんてないのに…


役割があること
それはとても自分のモチベーションになったり
行動するきっかけを作ってくれるものではなるが


周りからの見え方や振る舞いを見て
自分を決めつけるのではなく
一回立ち止まって
何を採用するか
どの意見を採用するか
どの対応を採用するか


そこに自分なりに基準を作って置かないと
自分が知らないうちに他からの影響で作ってしまった
この役割はこういうふうにいるべきだ!という
枠にハマろうとして辛くなる


「〇〇なんだから当たり前でしょ!」
そんな簡単に発せられて言葉に左右されることもある


自分の中にないものを無理やり作り出そうとして
精神的に疲れてしまう


今いろんな考え方を採用してくれる人が増えてきて
役割をつけない考え方も出ていているが
まだまだそのような考えが理解されないこともある


“知らない”ということを受け入れずに
その人独自のものさしの中で
その人に対してレッテルを貼る


そうして発せられた言葉や対応を受け入れ、採用すると
“歪んだ”役割を与えられ
その人の価値観がそういうふうになってしまう


発する方も受ける方も
考え方は色々ある


一つの言葉ばかりに耳を傾けるのではなく
いろんな言葉、可能性を考えられるようになれればと


役割というレッテルをガッチリ貼り付けないで
自分にも、他の誰かにも
誰かに決められた枠に入って苦しまないで


枠に囚われる考えじゃなくて
その外側にも目を向けよう!


周りからの役に対する見え方は一旦置いておいて考えよう!
そう思った照れ


おはようございます!
AYAMIですニコニコ


最近の気づきに対してのアウトプット↔︎インプットをします上差し




私が何かをしようとする時考えてしまうショボーン


こうなったらどうしよう…
うまくいかなかったらどうしよう…
周りに迷惑をかけてしまったらどうしよう…
拒否されたらどうしよう…


どうしよう…どうしよう…どうしよう…


そういう不安が次々と出てきて
ついには今の状態でいいやってなる


現状がしんどかったり、辛かったりすることがあっても
それ以上に悪くなることを考えてしまって
今の方がいいやってなる


そうやってこの歳まで進んできてしまった…


自分の力に余裕があることしかやらない
挑戦しない


それは不安を感じることから逃げていたからかもしれない
安全第一


そもそも不安とはどのようなものなのか
なぜ出てるのか
人間に必要な感覚なのか?


 ​不安とは何者?




言葉の意味を広辞苑で調べてみた上差し


【不安】とは
安心できないこと。気がかりな様。心配。


そこには
もう一つ書いてあることがあった
哲学者キルケゴールの名前があった


哲学者キルケゴール

不安の対象は「無(む)」である。

と言っている

なんでもないことに不安を感じる


それは別に特定のものを対象としているものは【恐怖】であると言っている


例えば大きな地震があって
実際に起きている時はもちろん怖い


その時は【恐怖】を感じている


その後、その地震が再び来ないかを恐れているときは
【不安】を感じているということらしい


確かに
いつも私が思っている

こうなったらどうしよう…
うまくいかなかったらどうしよう…
周りに迷惑をかけてしまったらどうしよう…
拒否されたらどうしよう…

のほとんどが
まだ起こっていないことに対して感じている


起こるか起こらないかわからないことに対して
感じている


実際に起こっていないから「無(む)」が対象になっている



確かにな!そうだな!


じゃあなんで不安を感じるのか?
不安という感情があるのか?


 ​不安が起こるのは脳が“大昔から変化していない”から





大昔の話からになります


狩猟時代
人々は食べ物が無くなるとか獣などに襲われるとか
命の危機に見舞われる場面がたくさんあって
不安がそこから発生していた


稲作が始まる農耕時代は今から約2700年前であり
それまでは狩猟時代が続いていた


周りの環境などはさまざまな進化をしてきたが
脳の進化は約2700年で大きな進化をしないままである


命の危険がなくなってきている今の環境でも
不安という感情はそのままである


命の危険がなくなった今
不安という感情はなくなったほうがいいんのではないかと思うところだが…


不安があると
いいこともある


不安があるからこそ
それが起こることを想像することができ
考え、準備をして対処することが出来る!


こんな話もある
心理学では『リバーサル(逆転)理論』と言われるものがある


それは
恐怖心と緊張状態が大きければ大きいほど
その後の快感が大きくなる
ということ


「やりきった!」と強く印象に残っている時は
準備の時から抱えていた不安が大きかったから
そう思える


不安を感じる人の方が
結果的に楽しむことができる電球


不安も上手に使えばいい!


この理論を知っていれば
不安もこんなもんじゃってなるニヤリ


自分の不安という感情にも上手く向き合える照れ
そう思えたグッ


おはようございます!
AYAMIですニコニコ

私が最近感じたこと
気づいたことをアウトプットします電球




エネルギー


これはどんな物質でも持っているもの


人も動物も植物も
今触っているパソコンも
日常生活している家も
今座っている椅子も
吸っている空気も
飲んでいる水も


すべて原子というものからできており
その原子にはエネルギーがある


そのエネルギーの大きさには大小あるが
どんなものでもエネルギーを持っている


エネルギーは目には見えるものではないが
感じることができる


熱や勢い、明るさ、大きさ、重さなど
五感を通じて感じることができる


それは物質だけではなく
自分の中にもある


調子がいい時
調子が悪い時
午前中
仕事終わり
睡眠をしっかりとれた時
寝不足のとき
お腹がすいているとき
満腹の時
親しく仲のいい人といるとき
初対面のひとと会っているとき


同じ自分という身体ではあるが
中で発生しているエネルギーがその時によって違う


エネルギーを“気分や体調”と今までは表現していたのだろう


エネルギーはその人は発する言葉にも出てくる


ポジティブな言葉を発しているとエネルギーは上がり
ネガティブな言葉を発しているとエネルギーは下がる


そしてそれは周りの人へもエネルギーが移る


エネルギーが高い人・所には
いろんな人が集まる


そしてエネルギーの高い人・所から
そのエネルギーをお裾分けしている


そしてそれを受け取った人は
また違う誰かにエネルギーをお裾分けしている


そうしてエネルギーが循環している


人だけではない
お金もそうだ


誰かのエネルギーに対して
そのエネルギーと交換にお金が支払われる


それは
労働かもしれない
知識かもしれない
感動かもしれない


どんなエネルギーにも誰かのためになる価値があり
その価値に対してお金が支払われる


そしてそのお金を使って
また違うその人にとっての価値のあるものに対して支払われる


お金も循環している


自然もそうだ


気温が上がり海からの水蒸気が雲を作り雨を降らせる
そして地面に染み込み、川に流れ海に戻る

その間にも植物は成長し、花を咲かせ、種ができ、また新しい植物が成長する


いろんなもののエネルギーが循環し
いろんなものが成り立っている


エネルギーの形はそれぞれで
大きさも色々ある


私はその自然の中にいる1人、一つの物質として
循環する一部になっている


その循環の一部になっていること
そう思うと
少しでもいいエネルギーを循環できる一部になれるといいなと思う照れ


私1人が何できるねんって感じですけど
新たにちっちゃい何かできないかと考えています電球


おはようございます!
AYAMIですニコニコ


ちょっとずつ朝晩が涼しくなってきて
過ごしやすくなってきて
勝手に思考もクリアになってきている気がします電球


では早速本題に行きます!

(ちょっと長くなってしまいましたてへぺろアセアセ




人は習慣の生き物

繰り返してきたことが上手になる

それは行動も思考も…



最近自分の過去の行動や思考を振り返って自己分析している


すると
“こういう時はこういうふうに反応する”みたいな
自分の中にできたマニュアルみたいなものがあって
自動的にその行動や思考になってしまう時がある


何も考えずにしていると



私の場合
相手の人に
「ごめんね」とか「大丈夫?」とか気を遣われるような言葉を使われると

反射的に
「いやいや、全然大丈夫です!」と答えてしまう


もうワンセットかのように


そのほかにも
褒められたりすると
「全然そんなことないですよ。私なんて〇〇なんですから」
と素直に褒められたことを受け取らず
私なんて…と付け加える


自分を卑下するかのように


ありがとうございます!と素直に受けてればいいのに
お世辞で言っているんだろうなと思ってしまう


それを繰り返してきたからこそ
何も考えずに出てしまう言葉


なんでそんな言葉が出てきてしまうんだろう


もっと素直に答えればいいのに
そういうふうな答えになるのはなんでなんだろうと自己分析してみた


 ​私はずっと誰かとの“摩擦”を避けてきたんだ





「大丈夫ですよ」というとこれ以上自分に注目しなくていい
摩擦が起きない


「いやいや、全然大丈夫じゃないです。これが大変で…」
となると
相手の出方がどうなるかわからない


もしかした相手が嫌な思いをするかもしれない
摩擦が起きるかもしれない


この気を使わせてしまっている会話を終わらせようとしている


褒める言葉をもらって
素直に「ありがとうございます!そうなんですよ、私って〇〇なところあって、いいでしょ」
ってなった時に
お世辞でいてるのに、なんやこいつ…ってなって摩擦が起きるかもしれない



摩擦が起きるかもしれないことから事前に逃げる
起きる期待値を下げようとする
防御策を取っていたんだと


謙遜するように持っていくことで
相手を褒めることにつながるようにしようとしていた


そして摩擦に合う期待値を減らすために
人と関わる回数を減らしてしまって
誰かと喋ることを繰り返してこなかったから
人見知りになり、緊張して喋れなくなる



摩擦に立ち向かえる体力がなく摩擦から逃げるようにして生きてきた


だからこそ
摩擦が起きそうな場面がわかる能力が備わってしまっている


そして
勝手に反応し自己処理をしてしまっている
私の記憶が危険と反応して、潜在意識が勝手に反応してしまている


私のすぐ近くに
摩擦を繰り返す人がいてた


毎回同じようなことで怒られたり、それに対して言い返したり…


よくそんなに同じようなことで怒られるなーって
私自身は思っていた


今度はここを直せば怒られないで済むのに…
毎回おんなじように怒られて
お互い嫌な気持ちになるのに
どうして改善しないんだろう…と


でも今は自分の中に
少し羨ましい部分があったのかとも思う


怒られたり、それに対して言い返して怒ったり…


摩擦が起きることって
理科の授業でも習ったけど
熱エネルギーが発生するんだ


お互いの強いエネルギー同士が摩擦することって
必ずしも悪いことではないんだ


摩擦が起きることで
新しい何かが起きることもあるんだと


いまは思う


摩擦する場面には今もあまり会いたくないけど笑い泣き

必要な摩擦もあるんだと
冷静に自己分析した今の私はどう解釈しました


体力作りしないと
というか土台を、軸をしっかりする


それはやっぱり
自己観察して自分のことを一番わかることなんだろうな照れ