おはようございます!
AYAMIですニコニコ


今日も日常の気づき・感じたことをアウトプットしていきますグッ




昔から
『可愛い』と言われることに対して違和感がある



『可愛くないし…』と思う




昔、飲み会というか、いわゆる合コンというものに一度参加したことがある
そして、婚活パーティと言うものにも参加したことがある



自分と一緒に行った子が
相手の男性からよく話されたり、注目されたりしている場面をみて
「可愛いってこういうことだし、女子って、女の子ってこういう人のことだし、自分には似合わない」とはっきりとわかった




私の昔からの癖
その場にいるのにどこか客観的にみてしまう
そして比べて、ネガティブな感情になってしまう




そんな経験をしたから
余計に「可愛い」に対して敏感になっているのかもしれないなって思っていたけど…笑




よく考えると
小さいころからそうだったかもしれない



小学生の頃
可愛い色、ピンクは選ばない
フリルの服は自分では選ばない
ハートではなく、星を選ぶ



どちらかというと
水色だったり
スカートも履くけどパンツスタイルが好きだった



どこかで「可愛い」を選んでなかったのかもしれない



今は拒否するまではないが
「私は今から可愛いものを選ぶんだ!」と思いながら買うことが多い




これはわざと買っているぞ!と思っている



かなりめんどくさい奴である…ニヤリ




他にも「可愛い」にはちょっとした失敗をしたときにも用いられることもあると思う
「ドジだなー」とか「天然か?笑」
そしてそこには、「可愛いが含まれている




これがまた自分にはどうしても「失敗を笑われている」ように感じてしまうことであった
バカにされているように感じることもあった


今はだいぶ
ちょっとした失敗をすることで人間味あふれ、共感を得られ、より親密になれることもあるのではないかと思っているが…
昔は失敗することに恐怖があった




なんでこんな気持ちになるのかと…

別に女の子が嫌だったとかじゃない
別に可愛くなることが嫌だったんじゃない
私にとって「可愛い」が似合わないんだと思っているからだ




そんな中、ある本に出会った
脳科学者・中野信子さんの『脳の闇』である


中野信子さんも似たような経験をしていた


子どもの頃は、いちごを食べるのが苦手だった。当時のいちごがすっぱくて、練乳をかけて食べなければ子どものおやつとしてはちょっと、というくらい糖度が高くなかったということもあるけれど、そもそもいちごの持つイメージが苦手だった。
赤い色、女の子らしいイメージ。「かわいい」の象徴とされるようなフォルムや色彩の持つ、王道を行く感じも苦手で、どこかで敬遠するような気持ちが抑えきれなかったことをよく覚えている。いちごのイメージと、自分のセルフイメージとがあまりにかけ離れていたからだろう。極端な言い方だけれど、私が食べてはいけない食べ物なのではないか、とさえ思っていた。



めっちゃ共感してしまったびっくり



おんなじような考えをしている人がいるんだと思った



いつからだろう?
昔から
ドラマや身近な人で自分が憧れる人は
仕事ができて、しっかりと意見を言えるような人に憧れを持つことが多かった
それは性別関係なく



いわゆる「かっこいい人」に憧れていた
見た目のかっこよさではなく
行動や思考に憧れを持つことが多かった



本の中にはこのようなことも書かれていた


『男性的』=力強く、職務遂行能力が高く、決断力があるなどとみなされる。
『女性的』=消極的であり、堂々としておらず、意欲や決断力に欠けているなどとみなされてしまう。
あるいは、そうあるべきであると、暗黙の圧力が異性ばかりではなく、同性からも加えられる。



この中で書かれている
『男性的』な印象に憧れていたこともあり
『可愛い』=『女性的』と判断されることに違和感があったのかもしれない



あの昔の合コンの時の光景を思い出すと
自分もあの時『女性的』な格好で行ったかもしれないって思い始めた



女性的な格好をしていかないと!と思ってしまっていたのかもしれない


そう思って自分のいつもと違う雰囲気で、格好で、何重にも猫を被って行ってしまった状況があとで考えると嫌だったんだろうな


「女の子=可愛い」に嫌気が刺していたのかもしれない


ずっと続いている私の“反抗期”かもしれない…照れ


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前回の続き
『嫌われる勇気』の著者、岸見一郎さんのインタビューから


もう一つ特徴が書かれていた




「所有の心理学」ではなく、「使用の心理学」である
ということ




どういうことかというと…


「何が与えられているか」ではなく、「与えられたものをどう使うか」が大切であるということ



「何を与えられるか」と考えてしまうことって
他者と比べて
自分には与えられていないことを見つけて
「自分には才能がないからできないんや」などを考えて
ないことを理由に行動をしないことにしてしまう…とか


これをやると見返りがあるから
これはしよう!これはやらんとこ…と考えたり
かなり自己中心的な考え方になる



なんか思考が狭くなってしまうように思う




行動の判断が
与えられるか与えられないか?
自分にできるか出来ないか?
自分にメリットがあるかないか?



YESかNOかで判断している



他にも
自分に与えられることに対して
他の誰かを下げるような行動をしてしまうこともあるのかと思う




他の人を自分より上なのか?下なのか?
そんな判断で他者を見てしまう




そんな風に思うと
少しの失敗が自分の立場を下げてしまうんでないか?
自分の失敗で誰かに追い越されてしまうのではないか?
と考えてしまい
失敗に対して怯えてしまうこともあるのではないかと




この考え方をしていると
心を、気持ちを窮屈にしてしまうのではないかと思う





以前までの私は
この考え方に近いものがあった




自分には出来ないことがたくさんあって
できる人を羨ましく思う




自分はできないから
周りからの評価は低いだろう
でも少しは自分にメリットがあると相手の人が感じてくれているから
雇ってくれていたり、友達としていてくれているんだろうと思っていた


だからこそ
失敗すると相手の自分に対する評価が落ちてしまって
自分に価値がなくなると
自分から離れていくんだろうな…と



そんな思考だから
相手に嫌われないように行動するし
相手が求めていることを理解しようとするし
ちょっとでも相手のメリットになるように行動しようとしていた




相手の人から少しでも否定されると
この世の終わりだ…と思うこともあった




でも結局自分も
「こんなにあなたのことを思って行動しているんだから、自分のそばにいてくれるだろう」と
どっかで見返りを考えているのだと思った




そこで考え方を
『与えられたものをどう使うか』に切り替えてみる上差し



まずは自分はどのような人間なのか
何ができるのか
何が好きで、何をしている時が楽しいと思えるのかなど

自分について理解した上で
それをどう言った方法で使うことができるのか
どう活かしていくかを考えることで




見返りを求めるというより
「自分ができることをやる」ことで
自分独自の達成感や幸福感を得ることができると思う




他者の反応に左右されるのではなく
自分の目的に沿った行動をすることができると思う




与えられたいないことに対して不満を言って何も行動しないのではなく
与えられているものを見て、できることから少しずつ行動することが大事だと




でも、すぐに切り替えることは出来ないと思う



私も染み付いてしまっている
前の考え方になってしまうことがある




少しずつでいい
グラデーションでいい




ちょっとずつ変更していって
そして、この考え方の人が少しでも増えるといいなと思うニコニコ



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自分が
このままではだめじゃないか
しんどい、何か変わりたいと思ったとき




どうしたらいいのか
気持ちだけが動いて、身体・思考が動かない状態になっていた時




一番初めに
ベストセラーにもなっている本 『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』を読んだ





今まで私読書が苦手で
全然読めなかったけど
耳で聞く読書に変換するとスラーっと入ってきたおねがい




その本の考えが自分の中では欠けていたというか
なんとなくわかっていたけど、言葉にできない、雰囲気でしか分からない
だから後回しにしていたり、見ないふりをしていたり、全然気づいていないこともあった





読んでみて納得できることがあったり
すぐに理解できなくて、何度も読み返したりすることもあったけど
「これはちゃうやろ!」って思わずに
スッと入ってくる感じがあった




自分の何に注意していくべきなのか
どんな考えで思考や行動すればいいのか
その基礎をいただいた気がしますおねがい


そして、その著者である岸見一郎さんのインタビュー記事をみた目


そこにアドラー心理学についての説明がわかりやすく書いてあった



そこには
「原因」ではなく「目的」を考える
と書いてあった




何事も原因である「なんで起こったんだろう」と考えてしまう
そう考えてしまうと
誰かや自分のせいにしたりして
起こったことに対してネガティブに感じがちになる




私は昔から何かを誰かに伝えようとするときに躊躇してしまうことがある
それは多分、何かを言った時に
その後の空気とか表情が悪くなったことがあるから
そしてそれを想像することができてしまうから




そうなると
「なんでそんなこと言ってしまったんだろう」とか
「言わなかった方が良かっただろうな…」とか
考えてしまう



そしてその後反対に言わなくなってしまった時も
「なんであの時言わなかったんだろう」とか
「言ったらええ感じになってたやろうな…」とか
考えてしまう

完全に“たられば”だ!



起きてしまたことは変わることがないのに
〜しとけばよかった
〜しやんかったらよかった

と、ありもしないことを言ってモヤモヤしている




そして
「なんでこんなことしてしまうんや」
「いつもこうや…自分あかん奴や…」と自己否定に入る



あかんループに入ってしまうショボーン




この現象に対しての「原因」を考えてしまうと
どうしても私の場合
モヤモヤとネガティブと自己否定が入ってくる



それがいつもの私のパターンと気づいた




そこにこの本を読んで
「目的」を見ることにしてみた




私の目的は
「相手にとって必要だと思う情報を伝えるということ」ということ
“それだけ”




その情報が必要かどうかを判断するのは、その人自身。そこは自分には関係ない
そう思うと伝えることに対して怖さは無くなった




そしてその後の反応も
モヤモヤ感を生み出すものではなく

「その反応だったら、今度はこれを伝えようか?」とか
「それだったら、伝え方を変えてみようか?」とか
「これはいらなさそうだな」とか
次の行動につながる反応として見ることができた照れ




「目的」に着目することで
見え方が変わった



この世界に存在するものは「目的」がある




今目の前にあるマグカップも存在に「目的」がある
飲み物を飲むためのもの
液体を留めておくもの などなど




私たち人間にも存在している目的があり
それは一人一人違う




でも大きな目的というのは
みんな「幸福でありたい」ということ



それは他人の幸せを願っている人もそう
結局は他人の幸せが自分の幸せあったりする




そうなるためにも
自分の興味のあること
自分の好きなこと、嫌いなことなどをわかっておく必要があるんだと改めて実感電球




「原因ではなく目的を見る」ということは
自分が幸せにあるための考え方であり
これもまた、目的に対する一つの手段であるんだろうな照れ


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最近、自分観察をしている中で感じたことがあった



私は(昔からだな…)
血が出ている状況や痛そうにしている状況を見ていると
自分も同じような状況になる
ドラマなどではその人の状況になったりして
時には目を伏せてしまったりする



だから看護師さんになりたいという気持ちも
自分には出来ないな…と思って
諦めたこともあったなガーン



昔小さい頃
妹が扉のガラスの部分に勢いよくぶつかってしまい
腕にガラスの破片が刺さって結構な血が出ている場面にいた時のことを今思い出した




その時も自分は特に怪我をしていたわけでないのに
自分も痛くなってきて、気持ち悪くなってきて
吐いてしまったこともあった





他にも
その人が私の時は何も考えずに話しているように見えるのに
違う誰かと話をしているときに私の前で話している時とは違う態度だったり、声色になっているのを見るとなんか恥ずかしくなる




誰かが1人で何か小さい失敗をしている時でも
自分が恥ずかしくなって
見ないふりをしてしまうこともある




芸人さんが一生懸命何かをして笑かそうとしているのに
周りが笑ってない時、うまくいっていない時は
見てられなくなる





昔からそうだ
誰かの気持ちを勝手に想像して
自分もそのような気持ちになってしまうことがある




その人がそんな気持ちになっているのかどうかはわからないけどアセアセ




ただ考えすぎなのか
でも別に考えたくて考えているわけではないんだけど




そんな中、最近知った言葉がある




【共感性羞恥(心)】

共感性羞恥(心)とは
他人が恥をかいていたり、笑われていたりしている様子を見ると、まるで自分が同じ目にあっているように恥ずかしさや居た堪れなさを感じるという心の状態のこと。



心理学の言葉であるようです上差し




共感性羞恥は
研究によって羞恥感情と共感性には関係があるとされてできた言葉のようです



羞恥心(恥ずかしさ)はなぜ起こるのか?

恥ずかしさは自分のイメージを守るためのもの
周囲の評価や信用を失いかけた時に羞恥心は出てくる




人間は社会的動物であり
社会の中にいるために、居場所を作るために
人の役に立ち、信頼を得て、周りに不快な思いをさせないようにして行こうとする


その中で
羞恥心はそのギャップに対して出てくる




“自分の自己イメージどうなのか”によって羞恥心が出てくる場面だったり、強さが違うんだろうな



以前に書いた自分のイメージはどうやって作り上げられているか
この記事も一緒に読んでくれたら嬉しいです



共感性羞恥は
相手の羞恥心を受け取ってしまう…



でも、逆を言えば
共感力が高く相手の気持ちを汲み取る能力があるということ
想像力が高いということ



あとは
他人のことを自分ごとに捉えることが“できる”能力があるということ




これはもう特殊能力電球




私の周りの人に
「こんな気持ちになったりするんよ…」と言っても
『考えすぎじゃない?』と
返されることが多かったけど




でも、これは私に身についている特殊能力であり
これを活用していかないわけにはいかない!




私の共感力の高さ
上手く使っていくぞ照れ



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11月19日は『国際男性デー』であったそうです



その存在すら知らなくて…
初めて知りましたびっくり




昨今はジェンダーレスや多様性と言われている中でも
まだまだ性別に対する偏見がある



「無意識の偏見」が根強い




男性は男らしく、強くいなくてはならない
だから、泣くのはダメだし、弱音を吐くなんてもってのほか


自分の力でどんどんと出世して家族を支えなければならない


誰かに相談して弱みを見せるのはダメだから
自分の中で解決して消化しなければならない


男の人はスマートにかっこよくいなくてはならない



そんなことを考えてしまう人もいるかもしれない



それは、周りからの目や言葉によるものもあるかもしれないが…

自分自身が持っている「男とはこういうものだ」というものに強く縛られていることもあるだろうなーって思った

その人の中で“男”としての理想像を強く持ってしまってるのだろうな




その人の今まで生きてきた中のどこで作り上げられたのかはわからないが

そう思っているということは
どこかで自分以外の男の人もそのような目で見ているんだろう




感じることは自由ではあるが…




その考えやプレッシャーから解放してほしいと思う



私も女性としていろんなことに縛られてきたと思う
というか自分自身の考えであるから
自分で自分を縛ってきてしまっていた




30歳になるまでは結婚しなければならない

何か重要な決断をするときは男の人にしてもらうべきだ

家事は出来るだけ女性がしなければならない

女の人は男の人を支えるべきだ



このような考えが自分隅の方にあった…




でもこう考える
こういうふうに自分の中での指標みたいなものを作ってしまって
逃げていたのかもしれないなって思う




この考えができない自分は情けない

と自分は“普通の女の人”ができることができないんだ
自分は“あかんやつ”なんだと
レッテルを貼っているのは実は自分自身であるのだと思った



でも、レッテルを貼ることで
楽になっていたのかもしれないなって




人とは違う(まあそれは当たり前なんだけど)
私は出来ない自分なんだと自分を卑下することで
逃げれるし、しなくて済むし、楽なんだ




苦しんでたけど
楽もしてたんだ



私の処世術だったんだ…って




なんか話がちょっと変わってしまった気がしますがニヤリ




自分で自分を縛ってきてしまっていることってないですか?
無意識の偏見はまだまだ根強く世間には残っていると思う
けど、自分の中でもあるんじゃないかな?



思うことは自由だし
そう考えてしまうことは自由ではあるけど
それを誰かに押し付けるのは違う
共感を求めるのは違う




誰もが同じ共通認識である必要はない



だからこそ
言葉があり、伝え合う必要があるのであろうな




私はこう思う!それだけでいいグッ




そういう世の中になればなって思う照れ