おはようございます!
AYAMIですニコニコ


今日も日常の気づき・感じたことをアウトプットしていきますグッ







お金儲けって悪いこと?


日本人って
お金について言うことって
恥ずかしさとか
はしたないとか
タブーまではいかないですけど
言わないようにすることっていうのが普通みたいなところがある



『お金儲けをしてる』というのが
みえみえなものってなんか汚さを感じてしまったりする



上の画像見たいな感じが思い浮かんでしまうんですよねえー



商品を売っているものを見て
これ一つ○○円のものがこんなに売れたんだったらいくらか…とか
お金が欲しいからこんなことしてるんだ…とかを聞くと
なんか少し拒否感とかネガティブなイメージがあった



でも
最近のお金の話題として
大谷翔平選手がドジャースと契約した時のことが有名になっています



10年契約で7億ドル(約1015億円)



これに対してはなぜか拒否感はない



何でだろう?




多分大谷選手自身はお金のことについてどうでもいいというか
そこがいちばん大事でなかったからだろうなって感じられるからかな?
自分がしたいこと、自分がいちばん活躍できるところはどこなのかを見極めた結果
この金額のドジャースに入ることになったってだけだと感じられるからだと思う…




お金を最優先にしている時、その時に違和感や拒否感が出てくるんだろうな




お金は大事である
なければ何かを買うこともできないし
生活ができないこともあるだろう



お金はどんな時に使うのか



スーパーで野菜を買う
ネットで服を買う、送料を払う
美容院でカットしてもらう
USJに遊びに行くのにチケットを買う



これは全部
自分の代わりにしてもらっていることに対して『ありがとう』という気持ちに使っていると思う



野菜を育ててくれている人に対しての『ありがとう』
ネットで買った服を届けてくれて『ありがとう』
髪を綺麗にカットしてくれて『ありがとう』
楽しい空間を作ってくれて『ありがとう』



『ありがとう』=『お金』に変換されているんだろうな



これを感じた時に
お金儲けって、人助けをすることなんかな?って
人の困っていることに対して気づける人が上手くお金儲けをすることができるんかな?って
もちろん、その困っている心に入り込んで悪いことをするのは違うと思うんだけど
ありがとう!為になった!と思われること



それが仕事であり、お金儲けなのかもしれない



お金儲けっていう言葉があかん気がするな…
なんか違う言い方ないかな?ニヤリ


おはようございます!
AYAMIですニコニコ



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ちょっと体調を崩してしまい、書けなかった
一度さぼると続けるために腰を上げるのが辛くなりますねガーン



体調を回復させながら考えていたもやもや





みんな本当の自分を少しずつ隠しながら生きている



そうじゃないと社会に入りながら生活できないから



じゃあ本当の自分って何?



みんなちょっとずつ捻くれ者で、素直じゃなくて…
でも、本当は素直に喜びたくて、怒りたくて…
でも、喜びや怒りを表に出したくない自分もいつつ…



じゃあ本当の自分って何なんだ?



自分でも分かりたいのか、分かりたくないのか?



自分のことを一番分かっているのは自分だとよく言われますが
一番わかっているのはもしかしたら自分ではなく近くの周りの人かもしれないです



人は嘘をつく
小さな嘘、大きな嘘、相手を思った嘘



でも結局は自分が生きて行きやすくするため
自分の都合のいいように
自分が思うようなストーリーを描けるような嘘をつく




でも真実を知りたいと思う
嘘だとわかっていたいと思う
真実だと思っていたことも嘘だと思うと裏切られたと思ってしまう




何が真実で何が嘘なのか?




そして真実を知ることは幸せなのか?
嘘を真実と信じていた方がいいのか?




『酸っぱい葡萄』の話
手が届かない高さにある葡萄を本当は取りたいけど
「あれはきっと酸っぱい葡萄であるから、食べないほうが正解だ」という風にストーリーを作ってしまう




自分の中でも自分自身に嘘をついている




今回の体調不良もちょっと前から違和感はあったけど
これはこんなもんだろうと思おうとして
自分自身に嘘をついていたらダメになってしまった…



結局何がいいのかわからない魂



休んだほうが周りに迷惑をかける
休んで誰かに任せるほうがめんどくさい
どこか悪いん?大丈夫?って言われることに対して説明することがめんどくさい




結局自分の都合のいいようにしている…
その場の感情で行動している




その場の感情で、行動しない、考えない



その場の感情で行動することがあり、後悔することがある
でも、またそこに正当な理由を付け加えようとする
誰も求めていないのに、自分を自分で認めるために



だって、でも、やっぱりさー



そうやって、自分を小さく小さく閉じ込めようとする
引きこもる
行動しない
変化しようとしない



実際は、変化を求めているのに、その場の感情で判断する
その繰り返し



何かする時でも、要らん心配ばかりする
悪い可能性をたくさん考える
いいことはあまり出てこない
それに対して、対策を考える
これ自体は逆にいいことかもしれないが、ほとんどは取り越し苦労になることが多い
悪いことを考えすぎて、やらないことも多い
そして、後で話を聞くとそんなこと起こらなかったことが多い
そして、やっておけば良かったと思う



その繰り返し、私の人生その繰り返し



「事実」と「イメージ」は違う



だからこそ自分のイメージだけで判断するんじゃなくて
事実をいろんな角度で見る
そしてその場の感情だけで判断するのではなく
事実をしっかり判断する



ちょっと改めてしっかりみようと思った今日この頃でした…照れ


おはようございます!
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前回
私の中で「仕事を休むことに関して罪悪感がある」という話をしました




理由は
・みんな頑張ってるのに一人休むんってなんか悪い気がする
・あいつ怠けてるんちゃうん?って思われてるんじゃないか




今回は「仕事を休む」ことに関しての罪悪感であるが
他にも罪悪感を感じることって日常生活してい時に感じることがあると思う




 ​罪悪感って何?



罪悪感って何なんやろか?
同じ出来事でも感じる人、感じない人がいる
なんでやろうか?



まずは
罪悪感の言葉の意味を調べてみる



罪悪感とは…
社会的、道徳的に非難されるべきことを犯したという意識ないしは感情のこと。
こうした意識・感情が起きると自尊心を失い、罪滅ぼしをしようという気持ちが起きる。
自分を無価値なものとみなす傾向のこともいう。



心理学的な話も調べてみる
“自我”と“超自我”の葛藤によるものが多く、罪悪感は超自我に対する自我の不安である。



だんだんとわからん話になってきましたえー




『フロイトの心的構造論』の話である
ちょっと簡単に…鉛筆



人の心には ①エス(イド) ②超自我 ③自我 の3つがある

①エス(イド)
 本能的欲求に基づいたもの

②超自我
 社会的規範に従ったもの
 子どもの頃からのしつけや教育を受ける中で身につける倫理観や道徳感などから構成される

③自我
 現実の環境に適応するべく行動する人格の中軸にあって、全体の調和・調整を図る機能
 

①エス と ②超自我 は対立する
それを調整する役割が③自我である



本能的に何かしたい!と思うことがあっても、社会的になことを考えると踏みとどまってしまう
それをええ感じに調整するのが自我である



そこでさっきの罪悪感の話である



超自我に対する自我の不安が罪悪感である

自分の意思で行動したことが、社会的に見たら違うかもしれないと思ってしまうときに出現する



つまり、罪悪感は
「人によく見られたいという」気持ちが最優先事項になったときに
自分がした選択が違ったのではないかと感じたときに出てくる



結局私が仕事を休めないのは
・「怠けてる」って思われたくない
・「一人だけ楽してるやん」って思われたくない



でもそう思ってしまうのは
自分自身が誰かに思ってしまっているのもあるのだろうなー




以前に書いた『他人は自分の鑑』
まさしくそういうことだ



人は色眼鏡をかけていることが多い
その色眼鏡をかけていることを自覚してみる
その色眼鏡を変えてみる、外してみる…
すると今まで感じていたことが、見えていたことが全然違うように感じる、見える



いつも感じていた罪悪感も感じないかもしれない電球



そうすると
少し楽になるかもしれないし
動きやすくなるかもしれない照れ



おはようございます!
AYAMIですニコニコ


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最近忙しくしている




何に忙しくしているのだろうか?
やることが多いとき、何をやっているのかわからなくなる




本当に忙しいのか?
本当に必要なことをやっているのか?
無駄なこともやっていないか?
自分には別に必要でないこともやっていないか?




それすらも考えられない…
考える余力もなくなる…
とりあえず、“誰かから与えられた”目の前にあるものを片付けていく…





余裕があるときはいろんなことに目が向いていたのに最近は見えていない
そして余裕がなくなることで自分の想像と違うことが起こると混乱する
その時の感情は、焦るか怒るか...





完全に短期的な思考になっている
その場にある身近な、すぐに手に入るものを使って応急処置をする程度で
根本治療をしていない
とりあえず、見えない様にするだけ
その物事から目を背けるだけ





今そういう自分になっていることにも気づいているけど
修正しようともしなくて
考えようともしなくて
そういう自分にも嫌気がさして、訳も分からんイライラが積もり積もって
それを外に出してはいけないと思うけど
どこかいつもの違う態度になったり、いつもより言葉が強くなったりする



そんなことをしたり、言ったりする自分にも嫌気





そんなときは
徹底的に休んだほうがいいなんだろうなショボーン





自分ばっかりになって
周りのことは後回し
見えてる範囲は前方1m以下
責任は自分にはなく、誰かや物のせい




今自分で書いていると
こんな奴最悪やんプンプン





こうやって自分を客観的にみることができない状態になっているときは
徹底的に休みましょう






どうしても
休むことで周りに迷惑をかけたりしてしまうのではないかと罪悪感があったりするけど
今の感情になっている自分のほうが迷惑かけてしまうだろう






昔から
誰かが頑張ってるのに横で怠けるようなことはできなかったし
する人のことを嫌やなって思っていた




だからこそ
罪悪感を感じてしまうのだろう





怠けているわけじゃないけど
どうしてもそう見られるのではないかと思ってしまう…





それでも休もう!
徹底的に
とりあえず今日は早く寝ることにするぞチョキ



おはようございます!
AYAMIですニコニコ


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ある本を読んでいると気になることが書かれていた



「虫の声が分かるのは、日本人とポリネシア人だけ」



なんじゃそれ!なんそれ!びっくり
初めて聞いたぞ!




ほんまに?っと思い、調べてみるPC




虫の鳴き声を「声」として認識できるのは世界中で日本人とポリネシア人だけ


へー、ほんまやん!
めっちゃおもろいやん



なんでなんだ?




他の民族の人は、虫の音を機械音や雑音と同様に音楽脳で処理するのに対して
日本人は言語脳で受け止める



だから、日本人は「虫の音」を「虫の声」として聞いている



他の民族の人は激しい「虫の音」も、いつもの騒々しい雑音だと慣れてしまえば意識に上らない
日本人は「虫の音」を人の声と同様に言語脳で聞いているため、雑音として聞き流すことができない



日本人は言語として受け取る“左脳”
他の民族の人は楽器や雑音として受け取る“右脳”



他にも自然の音
例えば、波の音、風の音、雨の音、小川のせせらぎなどの自然の音も日本人は聞くことができる



感情音もそうであるらしい



なので日本語には
音を表す言葉がたくさんある
「ザーザー」「ザブーン」「そよそよ」「サラサラ」など




小学生の頃に習った歌にもある

「虫の声」

あれ松虫がないている
チンチロチンチロ チンチロリン
あれ鈴虫もなきだした
リンリンリンリン リーンリン
秋の夜長をなきとおす
ああ面白い虫の声



小さい頃から
私たち日本人はいろんなところで学んだりしているんだろうなー



受け取る脳の部位の違いもあるが、日本人の「日本古来の自然観」が影響していることもあるとのこと



人も虫もともに「生きとし生けるもの」として、等しく「声」や「思い」を持つという日本人の自然観がうかがわれる。
虫の音も人の声と同様に言語脳で聞く、という日本人の特性は、この文化に見事に照応している。



これを調べて知って
日本人ってすごいやん!って
特殊能力やんって
他の民族の人たちと比べると楽しめてるやん!って思って




結構私は散歩をしながら
「今日は風がいい感じ」とか
「木が揺れてるな」とか
「日の光がいいな」とかを感じながら散歩するのが好きだ




これも日本人であるからかな?
いろんな音が溢れている中で、自然の音が聞こえるのは幸せに思える




日頃忙しくしていたら
だんだんと自然の音とか鳴き声とかいろんな音が聞こえなくなる




たまには
何も音楽とかテレビとかをつけない時間を作って感じるのも必要かもしれないなーって
最近の自分を観察して思いました照れ