昨日水曜日、何の気なしに市立図書館へ行った。ふと入り口の掲示を見ると「佐久・中山道歴史セミナー」の案内あり、それが本日、来週とある。
テーマは 「本陣の役割と皇女和宮の通行」
そこには小学校の元同級生の名前を発見し、スマホ撮影した。
先ず場所がどこだか分からないけど、従姉妹の家の近くだとわかって、現在横浜に住む三女へLINEして駐車の許可をゲット。
そして、本日30日は朝から晴れ。昨日からの腰痛でジョギングを止め、この講演会に行く。
会場は中込駅前、3年ほど前に新築の建物、50年前とすっかり変わってるからわからない。
私は入り口から、エレベーターに乗ろうとしたが、大会議室の場所わからず、会談を上ってようやく2階と判明。
入り口で受付に聞くと、準備でゴタゴタ中、暫く待たされ素っ気なくOKで会場に入る。
10時から、本日のテーマは「本陣の役割」と「皇女和宮の通行」。各1時間ずつ。
講師は佐久歴史の道案内人の会員。 わかりにくい説明で難儀しつつ、、、以下メモ
先ずは、講師、坂田孝三さん; 望月 大森家、本陣 文久元年の資料を OHPで提示。
八幡宿から次の宿への記録が示される。そこには、倅のことを案じていた当主の気持ちも察することが可能、
江戸へ行く街道の事情など、詳細な記録あり、
小諸4宿、のうち望月を素通りした大きな理由? 小諸の財政負担が大きな理由らしい
芦田宿から守山塾へ、、、問屋、本陣でのこまごまとした気遣いに苦労したことがわかる。
小諸藩主など、幕府からの迎え役人などその煩雑さが、浮かび上がってくる。
細かなことだが、最後の資料で一般村民の対応記録あり、そこには、
>>土間平伏拝見致すべき事、、、野間にて、、
これは外では見物してはいけない!とのこと、 >>”町内に限り候事”との記述
さらに町内の用水堰を新規取り付けをしたり、幅4尺の敷き砂盛り砂と、3間毎にツツ竿打ちと細かな指示あり。
11時となり 小休止
第二部;講師は成澤 一成さん、
公武合体;岩倉具視の進言で
時の孝明天皇は、外国通商廃止を条件として、文久元年(1861年)に降嫁となる、
しかし、結婚4年後に将軍家持死去に伴い 和宮剃髪、
その後病気で 喀血 箱根で療養後 32歳で死亡といった短い人生。
八幡宿は小諸藩・幕府と二重の支配を受ける立場。
伝馬役は全部で63軒あった、3村入り組みにて その振り役が問題となる
対策として、屋敷の間口で人数など割り振り
助郷(すけごう)制度; 常助郷として18ケ村。
(中桜井も含まれるので、土蔵に資料があるかも)
しかも、幕府からこの年3月から10月までの間に20件にも及ぶ通達あり、
和宮通行にだけ限っても、世話役などは膨大な交渉が要求された。
常助郷だけで人足535人、馬202頭。さらにこまごまとした通達11項目、、、、。
これだけではない、準備として、家屋の新築10棟、往還通路・橋の普請。
往還・橋の普請も、こまごまとした数字で示されている、、、
さらに助郷人馬小屋の新設も同様に”お触れ”あり、宿泊接待についても同様、、、
古文書からわかること 、かようjな気の遠くなるような準備が要求されている。
大雑把にまとめると、八幡宿だけで休泊にかかった費用は
11,038両、1両16万円として、何と総額17億円余り。
ちなみに、別サイトの情報によると、https://kaikan.ootajuku.net/history/kazunomiya/
和宮が京から江戸に行く費用は、総額150億円、お興し入れの行列50Km。
現在に続く日本の官僚制度、それは160年前と全く変わっていないことがわかる。
そして、そのお役人と宿場本陣、および関係者の煩雑極まりない連絡交渉経緯に驚くが、スマホも電話も無い時代ゆえ、当時の苦労がしみじみとわかる。