映画「ドクトル・ジバゴ」について調べていたら、https://mouroku1949.exblog.jp/29531567/
オマル・シャリフの存在がクローズアップしてきた。
下記のサイトが参考になる;
https://money-academy.jp/omar-sharif/
「銀のスプーンをくわえて生まれた」男とは、彼のことを指すのではないだろうか。
裕福な実業家の父、そしてとてもチャーミングな美人かつ社交家であった母親のもとで育てられ、エジプト国王との親交もあったといふ。
悠久なる歴史文化に溢れていたアレキサンドリアで生まれたオマル・シャリフは、
超々甘やかされて育ったので、当然のごとく典型的肥満児のオボッチャマになる。
無頓着だった両親に、人々は、カイロのカレッジの寄宿舎入りを勧めた。
この決断が、彼の人生を大きく変えている。
想像以上のスパルタ教育とスポーツは、全世界の女性を魅了したあの容貌を生み出した。
上流家庭出身で美人の母親譲りの遺伝子に加えて、カレッジでの生活は「ストイックな性格」を作るのに大きな影響を及ぼした。
カレッジでは数学と物理を専攻した。体重が減ったことに気を良くして、「なんとなく!」演劇を始め、思わぬ才能が開花し、演劇会の委員長を務めた。
こうして、演技をすることの「楽しさ」にすっかり夢中になっていく。
カレッジ卒業後、アレキサンドリアに戻ったオマル・シャリフは、
父親の事業である材木商を引き継ぐといふ、暗黙の義務があった。
>>エジプトでは、学歴よりも出身階級や人脈と父親の職業が就職するのにあたって何より重要視されていたため、父親の仕事を継ぐ以外のことを考えられない、、、、、そんな背景だった。
演劇への夢を断ち切れない彼は、地元の演劇団に入り、多くの主役舞台をつとめていた。
そんなある日、エジプト駐在のフランス大使が、「たまたま」劇場に来ていて、その才能を絶賛する。オマル・シャリフは、英語は勿論、フランス語も日常会話とするアレキサンドリアの住民であった。
偶然といふ言葉ない、すべてが必然だと、誰かが言った。
これを契機に、オマル・シャリフは、父親に反抗を開始する。
口では勿論出来ない社会背景ゆえ、仕事もサボるようになる。
彼の心理状態を知っていた父親も、2年間我慢するが、、、とうとう根負けする。
>>あまりにも息子のもたらす損益が大きくなり、これ以上放置するわけにいかなくなってしまった とのこと。
ロンドンの演劇学校に入学後の彼に、ふたたびチャンスが訪れた。
アレキサンドリア生まれの5歳年上のユーセフ・シャヒーン。
後にエジプト映画界の巨匠監督となる青年シャヒーンは電話でスクリーンテストを勧めた。
ちょうどエジプトに戻ったオマル・シャリフは、こうして、1955年に映画デビューし、その後名画「アラビアのローレンス」で準主役となる第一歩を進み、瞬く間に国民的スターとなる。
紆余曲折へて、、1962年のこと。
イギリス人の大物映画監督デヴィッド・リーンとの出会いが、彼を世界舞台へと推し進めた。
オマル・シャリフから学ぶ点はいくつもあるが、次の行動、
すなわち、「チャンスには即行動するといふスタイル」を記憶にとどめたい;
>>オマーはすぐに自分のPR写真をイギリスに送ります。それを見たリーン監督はオマーに会う為にカイロに飛んできます。リーン監督とのインタビューの時に、オマーは通訳を介さず直接英語で喋ってみせました。
結果は、両者にウィン・ウィンであった。
多くの人は、こうした現状に満足するでしょう。
でも、彼は違った。
あのイチローがMLBにと飛び込んだように、周囲の反対を押し切ってハリウッドへ行く。
渡米した誇り高きアレキサンドリア人のオマル・シャリフ、
リーン監督も危惧したとおり、多くの困難・屈辱に直面する。
たった200年足らずの歴史しかない新興国に当時も、そして今も根深いのはレイシズム。
それも乗り越えた、オマル・シャリフは、映画「ドクトル・ジバゴ」で国際スターとなる。
あの憂いに満ちた表情と演技は、彼の辿った人生そのものだったと思ふ。
レイシズムについて、私の微かな記憶が蘇る。
デンマークかどこかのホテルで、かつて欧州国際会議があった。
EUが出来る前で、面倒な両替にてこずりながらチェックイン。朝飯を食べようとしていたら、一箇所だけ空いているテーブルがあり、そこにエジプトからの参加者が1人だけ座っていた。
典型的な中東出身者の容貌、ドイツでは当時露骨なまでの蔑視がクルド人などに向けられていた。 周囲は、身体のデカイひとばかり。小柄な彼と私だけが異邦人だった。
話し相手が欲しかったので、自然と同席し、雑談しながらの飯は楽しかった。
私が、部屋に準備で戻ろうとしたら、彼がちょっと真剣な顔をして制止した。
ほどなくして、戻ってきた彼は私にカイロのお土産だと、一枚のパピルスを渡した。
私は、お返しできるものは何もないと遠慮したが、彼は嬉しかったと何度も繰り返し、
そして笑顔で別れた。
薄い木の皮を格子状に組んだパピルス。ファラオの横顔が描かれたその記念品は、転居の度にダンボール箱にいれられて移動を繰り返した。ズボラな私は、どこにしまったのか、忘れているが、トラちゃんなどの軽率発言を聞くたびにそのパピルスを思い出す。
比較的異国人に寛容だった欧州においても、そうだったから、さらにそれ以前の米国西海岸の空気は、、、なんとなく想像できる。
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