今朝のラジオ7時半ころから、「歴史を探しに」
で、懐かしい名前が出てきた。
長野市、旭山。
朝日なのか旭なのか、当時6歳だった私には区別などできない。
裾花川を渡って、兄弟3人と父親でハイキングに行った記憶が蘇る。
昼飯時になって、お箸が足りないことに気づいた父、手近なところの枝をナイフで切り、この木は毒がないから大丈夫と、さっさと削っていた。
私が、科学の教師だった父の影響を、多分最初に体感した記憶かもしれない。
もう63年ほど前のこと、その父も、弟も泉下となって久しい。
ラジオによると、この山は善光寺を中心とする現在の長野市を一望にできるとのこと、
すなわち戦略上重要なポイントだといふ。
文献上、最初の築城については不明だが、某が城主となり、戦国時代
有名な川中島の複数にわたる合戦で、武田・上杉両軍の鍔迫り合いの舞台ともなった
とのこと。
謙信は、この戦いでの重要な地点と見定め、鉄砲300挺云々で攻めたとのこと。
文献では、そのように記されているが、それがもし甲陽軍艦単独ならば正確かどうかは??
歴史とは、残された文献だけでは真実か否かは確認しようがない。
けれども、当事者の記憶、ボケる前であれば、これほど正確なものはないだろう。
私には、父と一緒にキャッチボールはおろか、どこかに連れて行ったといふ記憶はない。
土日、当時は土曜半日で、は勿論、夏冬の休みも、父はいつも不在で、家にいるときは、ガリ版を持ち込んで、ガリガリ何かを書いていた。あるいは、分厚いテスト用紙へせっせと赤い万年筆を走らせていた。時々、同僚の先生方が集まり、お酒を部屋まで運ぶ役割をさせられ、どうして学校教師はノンベーばかりなのだろうか、と素朴な疑問を持っていた。
子ども心に、学校の教師とはそんなものかと、当然のように思っていた。
これではあんまりだと、母が文句を言い、長野駅から電鉄で渋温泉に一泊旅行、多分それだけだと思ふ。年度末土曜日の旧長野駅構内の夕方、ふと気がつくと、父親が行方不明。母が、1人で立ち食い蕎麦をすする父親を見つけて、また文句を言っていた。多分、多忙で昼飯も食べ損なったのだろう。
その母は95歳になって、近所の老人ホームにいる。
母にとって、私はまだ鼻を垂らしていた当時のガキ、そのままかもしれない。