タルコフスキー監督の『鏡』を再視聴しました。

 

※画像はIVC様のもの

 

 

私はこれで4度目の視聴になります。ブルーレイを持ってますので。

 

 

 

私はこの『鏡』がとても好きで、タルコフスキー監督の中では最大の傑作だと思っています。

 

映画を語る際、興奮気味に、この映画がいかにスゴイか、と言うことはあるのですが

 

この『鏡』を語るときは、とても静かな気持ちになります。

 

この映画が世の映画の中で一番好きなのにね。

 

 

 

きっとどの方も落ち着いた気持ちでこの映画のラストを迎えたのではないでしょうか。

 

静かな美しい感情といいますか、満たされていく清らかさといえばいいのか、

 

お堂の中で静かにたたずんでいるときのような余韻を得られるのです。

 

 

 

 

この『鏡』は他の映画と違い、分かりやすい筋がありません。

 

初見では、いったい何の映画なのか、99%分からないと思います。

 

これはタルコフスキーの記憶の物語なのです。

 

そして、ロシアの歴史でもある。

 

 

 

タルコフスキーは、母親に対して複雑な感情を抱いています。

 

それはエディプスコンプレックスのようなものかもしれません。

 

父親のいない家庭で育ったタルコフスキーは、母親を曲がった目で見ていたのではないかと思います。

 

 

 

 

ここでポイントなのが、母親と、現代の奥さんを、同じ役者が演じているということです。

 

これは特に説明されないので、混乱すること必至ですが、登場人物をきちんと識別できれば

 

しだいにタルコフスキーの表現したいことが見えて来ます。

 

 

 

「母の夢を見ると、決まって母の顔が君なんだ」というタルコフスキーの台詞。

 

これは母親を、乗り越えられない何かという存在と捉えていることの証だと思います。

 

奥さんとはすでに別居しており、息子とも離ればなれにされているタルコフスキーは、自身の記憶へと潜っていく旅に出ます。

 

 

 

ふつう記憶というものは、ある一巻の叙事詩のようなものではなく(好きなページを開けない)

 

ある物事と関連する記憶が、ふっと浮かび上がってくるものであります。

 

この映画も、タルコフスキーは次々と記憶へと潜っていくのですが

 

一貫性も時系列もバラバラであり、ときには現実的な事象ではなく、幻想的な風景が見えていることもあります。

 

 

 

 

タルコフスキーは何がしたかったのか。おそらく自信の問題を解決したかったのでしょう。

 

それが「母」の存在。そして「父」の存在なのです。

 

 

 

 

ここで「鏡」というキーワードが問題になってきます。

 

作中、タルコフスキーの息子イグナートと、自身の少年時代が重なります(両方とも同じ子役が演じています)。

 

それは「対」になっているのです。

 

また「母」という言葉も対になっている。それは現代の奥さんを指す言葉でもあり、自身の問題の根源を指す言葉でもある。

 

母は「愛」や「依存」、「孤独」や「誇り」といったタルコフスキーの観念と密接な関係にあり、

 

また「父」という概念と対になっています。

 

 

 

「父」とは、いうまでもなくタルコフスキーの父親のことですが、

 

自身の息子の面倒を見てやることのできないタルコフスキー自身の鏡にもなっています。

 

またそれに対して「勝手な親父だ」というタルコフスキーの批判感情があり

 

それは対になっている自分にも返ってきているということです。

 

 

 

おそらく父がいなかったことが

 

母親への歪んだ感情のきっかけになっているということ。

 

それをタルコフスキーは理解していながらも、克服することがなかなかできない。

 

あまりにも生々しく母親の姿を覚えているから(現代の奥さんの顔だが)。

 

 

 

 

また戦争の記憶。

 

スペイン内戦、少年兵として受けた訓練の記憶、中国の共産党革命

 

それらは自身の少年時代=初恋の思い出と結びつき

 

また自身の祖国、ロシア=ソ連の屈折した歴史が、

 

自分自身の「歴史」と対になっているということ。

 

 

 

つまりロシアは他のキリスト教国家とは一線を画した国であるということ。

 

その歴史をプーシキンの言葉を借りて話すシーンがありましたね。

 

それは自身についても言えることだったのではないかと思うのです。

 

それに対する劣等感や、それへの反発心、ゆえに生まれる孤独。

 

タルコフスキーはその孤独をなかなか克服することができないのです。

 

 

 

しかし、物語が進んでいくにつれて、ある思い出がきっかけとなり、タルコフスキーの問題は綺麗に終わりを告げます。

 

それが、母親のイヤリングを売りに行くエピソード。

 

母親は戦時中に経済的に困窮し、息子タルコフスキーと近所の豪農の奥さんにイヤリングを売りに行きます。

 

ターコイズでしょうか? 美しい宝石がはめられています。

 

 

 

 

タルコフスキーは別室にて待たされます。そのとき見えた「鏡」に映る自分自身。

 

そのときタルコフスキーの心に何か変化が生まれたのではないでしょうか。

 

「鏡」は対になるということの他に、自分自身の姿を映して確認するという意味合いも込められています。

 

あの時どういう感情を母親に抱いていたのか。ゆっくりと思い出していったのではないでしょうか。

 

 

 

母親は、生活のために宝物を売るという屈辱に黙って耐えるような顔をしています。

 

豪農の奥さんはやや誇らしげな様子で、かつての所有者の前でイヤリングを付けて「似合うかしら?」とのたまいます。

 

また調子の良い様子で、自らの赤ん坊である息子を見せびらかしたりします。

 

その光景を見て、母親は吐き気を催してしまうわけですが

 

それは自分の幸せだった頃(タルコフスキーが生まれた頃)を思い出したからではないでしょうか。

 

その屈辱と惨めさに耐えられなくなって、母親は吐き気を抱いたのです。

 

 

 

 

そして、歓待を受ける母親とタルコフスキー。

 

一匹鶏を潰してごちそうするというのですが、豪農の奥さんは身重なため、それができない。代わりにやってくれというのです。

 

今まで一度も鶏を殺したことがなかった母は、躊躇してしまいます。

 

 

 

 

このとき、母の眼に誇りのような、怒りのようなものが宿ります。

 

そのとき、画面の奥で水が滝のように流れています。

 

この「水」が深い意味を持つのです。

 

 

 

 

タルコフスキーにおいて、「水」は重要な意味を持っています。

 

おそらくですが、キリスト教の「洗礼」と関連があるのではないでしょうか。

 

母に誇りが宿った瞬間と、水が滝のように流れ落ちた瞬間。

 

 

 

タルコフスキーの印象に、父と母が、まだ一緒であり、これから生まれてくる自分自身に愛情を込めて思いを馳せているシーン、それが浮かんでくるのです。

 

次の瞬間、母親は息子の手を引いて、宝石の売買もすべて断って、急いで外に出て行きます。

 

このエピソードをタルコフスキーはどんな印象で思い出したのか、もう言うまでもないでしょう。

 

 

 

 

ここからが映画のエピローグです。

 

ここで重要なポイントは、思い出の中の母親が、現代の奥さんの顔ではなくて、年相応の老婆になっているということ。

 

母親の呪縛から逃れたことがここで示唆されます。

 

 

 

一方現実のタルコフスキーの方は寝込んでいます。

 

医者に言わせれば、「誰か肉親を亡くした悲しみ」が原因とのこと。

 

これはタルコフスキーの内面にいた、「奥さん=母親」のイメージの死であるということ。

 

 

 

しかしタルコフスキーはこう言います。

 

「すべてうまくいく」

 

その直後、死にかけていた雀をタルコフスキーは握ってやり、そっと手で慈しみます。

 

すると雀は復活し、宙に飛んでいきます。これは雀の復活=タルコフスキーの新しい人生の示唆だと思います。

 

 

 

そして素晴らしいラストシーン。

 

オープニングと同じ故郷の野原。

 

若かりし父と母がむつみ合いながら、「男の子と、女の子、どっちがいい?」と話しています。

 

ふと母親は、なにかに気がついたように嗚咽し、涙を流し出します。

 

 

 

そして振り向くのです。おそらくタルコフスキーの方を。

 

やがて自らの消失する運命を感じ取ったのか、全てを受け入れた表情になり、涙顔で微笑みます。

 

 

 

壮大な音楽とともにカメラは移ろってゆき、かつての生家があった場所を示します。

 

そこは朽ち果てていました。

 

井戸は破壊されており、バケツやゴミが散乱しています。

 

木には苔が生えて、周りには草が生えている。

 

 

 

ゆっくりと、カメラは少年時代のタルコフスキーと、妹と、それを引いて逃げるようにこちらに歩いてくる老婆を映し出します。

 

逃げてきた方を見ると、あのタルコフスキーの「若い母親」のイメージが立っています。

 

永遠なる別れ、そして新たなる旅立ち。

 

本当の母親である「老婆」に手を引かれ、タルコフスキーと妹は歩いていきます。

 

 

 

タルコフスキーは雄叫びをあげる。

 

そして穏やかに、ゆっくりとカメラは引いていき、森の中へと隠れていく。

 

タルコフスキーの記憶の旅は終わります。

 

 

 

 

 

タルコフスキーは「許しと再生」を表現したのではないかと思います。

 

今までそういうテーマで描いて、ここまで成功した映画は他に知りません。

 

言葉にならないところに本当の意味はある。タルコフスキーはこう考えていたのだと思います。

 

なのでこの映画は言葉上で語られる「物語」というものがなく

 

ほとんどは断片的な情景が映し出されるだけです。

 

そもそもそれらも、タルコフスキーが思い出している記憶、という前提ですから

 

奇妙に誇張が入ったり、前後関係がめちゃめちゃなものもある。

 

だからすごく分かりにくい映画ではあると思います。

 

 

 

 

それでも私はこの映画が大好きです。

 

この映画は他の映画が決して伝えられなかったことを、伝えた作品だと思います。

 

ここまで長々と見ていただいてありがとうございました。