パパ活女子がパパからお金をもらってセックスをして、そしてヒモの男性の元にお金を貢ぎにいく漫画、、、「夜を泳ぐ魚たち」という漫画がXで流れてきた。お金を貢ぐためにおじいちゃんとマッチングして、それで大人の関係をするけれど、色々事情があって本番行為ができないという漫画。
別になんということもないのだけど、ちょっと達観してして読んでしまった。
果たしてパパ活には正義があるのだろうか、と。
過去には正義論というジャンルがたくさん読み物として成立していて、ノージックがコミュニタリズムやロールズがリベラリズムの旗手として名を挙げていった。特にロールズの時の正義論の特徴は、財の分配が適正に(貧富の格差など)を超えて公正に分配されればそこに正義が生まれるというものだった。それが現代的な福祉政策の根源的な部分になっていった。一方で、インド出身のアマルティアセンは、潜在能力(選び取る能力)を重視し、識字率など基礎的な教育を重視した。
しかし、パパ活女子やパパというか、現代人皆に言えることは、お金の分配を受けた上でそれでもなお不安に支配され、お金に呪縛を受け続けてしまうことである。パパ活女子は自分から案件をとりに行き、そしてパパとのやりとりをしている。識字率という潜在能力だけではこの世の中を生きていくには最低限すぎる。
最低限の教育が受けられ「れば」幸せになれるという幻想で物語は締めくくられるわけであるが、それは正義への近道ではなくてモナトリアムへの入り口にすぎない。300万円というお金を手にいれて、次の一歩に進んでいったとしても何かの現実は変わることはない。その300万円を使って、また現実に戻っていくのである。(厳密には現実から抜け出す術が描かれていないのである。)
「ここから逃げ出したい」という欲が溢れ出して、結局「何かへの自由」の輪郭をはっきり掴むことができない。
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なぜこうなってしまったのか。それは、今用意されている正義論がコミュニティを前提とした理論だからである。そして私たちが生きている現代社会もこのコミュニティを前提としなくても循環するようにできている。
本来であれば、コミュニティ・自分の手触りのある地域経済の中で貢献をするために文字を学び、貢献をするためにスキルを習得していくのである。しかし、インターネットで仕事を探し、リモートで労働力を提供する現代社会においてはこの「コミュニティ」への貢献が前提になっていない。Peer to Peerで報酬が発生し、報酬を自分の自己能力の向上のために投資し、更なるお金を集めていく。。。
しかし、自分が何者なのかを教えてくれる貢献すべきコミュニティはないので、いくらスキルを身につけても足りない。むしろ無に向かって行為を行っていることと同じになるのである。
これはリモートワークをする社員についても同じことが言えるだろう。パソコンに一日10時間くらい座り続けたら勝手にお金が口座に入っている。だから自分の生きた実感を得ることがない。キャッシュマシーンであり、体を売っていると同じなのである。ブラック企業とは違った虚無感である。
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私たちは「公正な分配」や「潜在能力」に変わる正義の理論を切に求めている。消費が「モノ」から「コト」に変わり、さらには「バエ」に変わっていく中で、誰かから承認をしてもらうことが最高に嬉しいことだと自分に言い聞かせる自己満足スキルが必要になっているように思う。
ふとしたきっかけで、ロールズの正義論の話を思い出して、
パパ活女子の女の子がパパからお金をもらってセックスをして、そしてヒモの男性の元にお金を貢ぎにいく漫画、、、