OldLionの備忘録

OldLionの備忘録

年老いたライオンは錆びない。狩りを続け、振る舞いは日々深みを増していく。
いつまでも自分を忘れず、狩りを忘れぬライオンでありたい。
そんなライオンになるための日進月歩。

そういえば、最近ずっと凡庸さ・陳腐さに抗いたいという思いがとっても強い。

 

特に、最近のSNSは結構見るに耐えない。自分のやりたいことが無秩序に発信されるので、刺激的な文言が並び、さながら資本主義の掃き溜めのような感じになっている。見る価値がないものに自分の時間を使うことがとっても虚しいように思うので、アプリを削除したいのだけど、でもなんだか発信をいつかするんじゃないかな、、、しないかというせめぎ合いの中で削除しないで見ない、という選択をすることになるわけである。結局たまに覗いてしまうのである。

 

最近小津安二郎の作品を改めて見返すことがあって、東京物語を見たのだけど、彼の作品は見ていてなんだかワクワクする。題材は物悲しい老人の話なのに。東京が新しい世代の価値観を包み込むような優しさがある。一方秋刀魚の味は、少し距離がある。東京都いうものがある種標準化・誰にとっても心の中心になる中で、その分個々人の内面が浮き出てくる。
戦後世代にとって、戦争というものがある種悲惨な記憶でありながらも、心の拠り所であった様が浮き出てきているように思う。

 

その後の都市の行方にとって、内面的な拠り所、言い換えれば精神性のありかは、やはり工業化や市場経済に移っていった。煙突から出る煙や、整備され続ける高速道路・裏路地に存在する中華料理屋・定食屋である。高度経済成長は、負の側面を現代に残してきたが、それは戦争と同じであったし、やはりそれが人間にとっての自然になっていった。

 

私は藤原新也の「東京漂流」をバイブルにしているのだけど、この市場経済の浸透は確実に戦後経済の手付かずの自然や牧歌的な風景を壊して行ったわけで、それはのっぺりとした歪なものとして東京を移していったのだろう。

 

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現代にまで話を引き延ばすのはやはり半ば無理やりであるような気がするけども、私たちにはこんな大きな物語が少なくなっているように思う。強制的に巻き込まれなければならない必然性がなくなり、誰もが存在しているだけで存在になる時代に入っている。明治でなく大正的だと思う。そのうち金を燃やして芸者と遊ぶ奴らでも出てくるかと思っていたら、案の定女体シャンパンタワーとかやるやつが出てくる。

 

ちなみに私のようなミレニアム世代にとっての自然とは、それはノストラダムスと失われた30年である。世界は終わるんじゃないか、と本気で思っていたし、大地震は日本という物語を終焉させる力を持っているように思えたのである。だから私自身も変革のモメンタムの中に生きてきた。けど、今は精神的な柱と勢いを失っている。

 

いつの時代も日本は根無草だし、タコツボで中身がない、と言われているけども。大きな物語が欲しい。

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最近「ゾス」を特集するドキュメンタリーが流れてきていて、そこではパワハラ的・集団的成果至上主義を肯定する働き方に自ら身を投じていく様を描いていた。目を引いたのは、彼らの勇敢な姿、ではなくて、このゾス的な働き方の先に何の目的も持っていないことだった。これをドキュメンタリーの中ではファッションゾスと形容している。

 

一方で、その番組の裏番組で、NHKではガザの物語がやっていた。ガザは爆撃があった地域を非難しながら進んで行くけども、戻ってもそこには100%元の住まいは残されていない・そしてドローンの音がえぐい音を流しているということが報じられていた。

 

こうして、同じ理不尽について表現している番組が流れている。なのに、私たちはなんと享楽的な人生を歩んでいるのだろうと感じた。自分の生きる選択が自己責任だとか、成功は自分で掴むという話とか、そんな陳腐な自分だけの物語なんて、もう必要ない、と思えるのである。