NewspicksでFacebookの闇と題されたFacebookの功罪に関して書かれた特集が組まれている。
第一弾は偽アカウント問題。マークザッカーバーグやシェリルサンドバーグらを装った偽アカウントからの詐欺被害の問題、それがいたちごっこの様相を示している問題、第二弾は途上国でのFacebookの急激な認知拡大によって、宗教間の迫害に繋がるメッセージのやり取りが行われるようになった問題。いずれにしてもFacebookが個人情報問題で米国上院で諮問を受けるなどしてから、Facebookの終わりのような記事があがりはじめ、突然Facebookには逆風が吹いているようだ。正直そよ風程度なのだろうけど。
今東南アジアに住む自分にとっては特集の第二段である、Facebookなどソーシャルメディアと社会的な紐帯を持った集団形成の問題は身近に感じられる。記事では、ミャンマーのロヒンギャ迫害や、スリランカでのシンハラ人迫害など特に主流派とは異教を信ずる人々の迫害がFacebookなどのソーシャルメディアによって助長されたとされている。無料でインターネットを使ってFacebookを閲覧できるため、多くの国民の唯一の情報源がFacebookになり、それによりタイムラインに流れる偏った意見が伝播しやすくなっていったと記事では伝えている。
途上国でソーシャルメディアが主要な国民の情報源になっていることはYes。だが、このような傾向はソーシャルメディアというよりむしろ、匿名で投稿できるコミュニケーションアプリの方が問題になりやすい。インドネシアでも不特定多数に匿名でメッセージを送れるTelegramが禁止されかけたが、同様にWhatsappなど、匿名性が高いメディアにおいて極端な社会的な言説は生まれやすい。日本でも2ちゃんねるのようなメディアでは多くの煽りコメントと一緒に宗派のような言説が生まれていく。ウガンダで大量虐殺が行われた時や日本の戦争のことも含め、当時は支配的なメディアであるラジオが国民意識の形成に寄与したわけで、集団心理の形成にはある種の情報の受け手側の匿名性が必要であるように思われる。
Facebookが集団心理を形成する効果ももちろんあるだろう。ではFacebookの特長は何かというと、実名のコミュニティを形成するため、意見が2極化してしまうことである。アメリカのトランプ大統領の当選やフィリピンのドゥテルテ大統領の当選、Brexitの問題も政治的な意見を相互に指示しあう母体がFacebookのような実名のコミュニティに出現し、それが政治的な動きになったことがある。インドネシアではアホックの投獄が有名だった。途上国では宗教的な問題が自分とは全く違う認識のされ方をするということはあるが、この2極化は特に「答えの出ない保守進歩の問題」で顕著になりやすい。自分がこう考えるということを表明しても自分がバッシングをされることがないような、実名の範囲での論争が可能な問題である。
アラブの春がチュニジアのような小国家でしか結局成功しなかったり、遡ればチェコスロバキアでのプラハの春、そして日本での安保闘争など、国民からの下からの運動が荼毘に付すことになってしまったのも、それは匿名の範囲でしか作用しえない一次的な集団しか形成されなかったことが、成功した社会運動との違いではないかと思う。その点Facebookなどの実名を使ったソーシャルメディアの集団形成には新しさがある。
、ルターは信仰を支えていた人と神との媒介を破壊した。世界の展開と人間への評決を全て神の主意に還元し、祈るという営為を孤独な個的人間へと閉塞させたのだ。免罪符や壮麗な聖堂の建造、豪奢な典礼の開催は神と人との繋がりが意識上で想定されていたからこそ可能な「蕩尽」であった。ルターの教義体系は教会にも打撃を与え、伝統的な宗教的共同性を瓦解させた。また、「蕩尽」によって約束されていた「神秘体験」即ち「神の経験」も剥奪されることになった。そして、財産は生産的意味しか有しなくなった。ルターが信仰の定義を「蕩尽」から「生産」へと180度転換させたためである。そして、かつて至高性と結びついていた「蕩尽」は、新たな信仰体系である「生産」に背反するがゆえに、「呪われる」こととなるのだ。神の体験は、そして蕩尽は現代における「呪われた部分」なのである
バタイユは、現在の生産ー消費関係から形成される経済の範疇で忘れ去られた、エネルギーの消費によって「至高性」に到達する普遍経済学を考案した。彼の思想で面白いことは、人間の内面、それも自分の内的なエネルギーを惜しげもなく使うことに人間的な「エクスタシー」を求める点である。つまり、人間は生産の体系に縛られなければ、自らのエネルギーを何らの対価も求めることなく使うことが本能的に組み込まれているということだ。
個人的には生産を中心的な体系に据えた資本主義への信頼がところどころでほつれてきているように思う。社会運動にせよサブカルにせよ、もしくは自分探しのための逃避行にせよ、この無鉄砲な社会的エネルギーの放出というのは、興味深い説明の仕方であると思われる。
少し蛇足になってしまったが、社会運動の主役になるのは、いつの時代もエネルギーを蓄えた若い世代であり、そのエネルギーは社会から覆い隠されているために、個人では顕在化しずらい。コミュニケーションツールがもたらす影響とは、個々人の間でのエネルギーの伝播であり、そもそものエネルギーが損なわれている国では発現しないのかもしれない。
https://newspicks.com/news/3014665/body/?ref=index
https://toyokeizai.net/articles/-/18963?page=2
http://hakagiminori.hatenablog.com/entry/2012/12/23/030925