100年前の滝畑 水力発電所(跡)に学ぶ 河内長野市 | だばなか大介オフィシャルブログ Powered by Ameba

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日本共産党河内長野市議会議員 だばなか大介

滝畑に水力発電所があったのはご存じでしょうか?

今から約100年前の大正8年~昭和28年まで活躍していました。

 

3.11原発事故以降、原子力発電が人類と共存出来ないことが更に明らかになりました。

化石燃料にも限りがある中で、自然エネルギーの活用は極めて重要です。

 

 先人に学び、河内長野市の持つ水力発電のポテンシャルを探ってみたいと思い、今回、私に滝畑の水力発電の事を教えていただいた方に、現地の案内と御教授を頂きましたのでレポートします。

 

 

光滝寺前に立つ電柱を見ると「タキカン1」となっています。

電柱の番号は発電所を始点に番号が付けられています。つまり「1」番の電柱の前には発電所があるということです。

 

滝畑には2つの水力発電所がありました。千早川水力電気(株)が造った千早第三発電所と千早第四発電所です。(後に滝畑第一・第二に改称)千早第一・第二はその名の通り千早赤阪村から富田林に向かって流れる千早川にありました。

 

滝畑の発電所で特に興味深いのは第三発電所の取水です。なんと滝畑川・御光谷・千石谷の三本の川から水を集めています。その導水路の延長は2702mです。

 

 

略図は上の通り。

導水路は赤色です。水色から↓に水を落として水車を回して発電しています。

 

先ほどの電柱は(A)の地点です。ここは「出合い」とよばれ、2つの川が合流しています。ここから「出合い橋」をこえて奧の千石谷に向かいます。

 

 

橋を渡って、すぐの所に第四発電所の取水口があります。

 

 

そこから、もうすこし奥に進むと第三発電所跡があります。(B地点)

 

 

発電所(跡)の対岸には水力発電所の日常の維持管理を行う人の社宅があったそうです(白丸)。発電所跡(赤丸)。

 

 

河内長野市史には当時の第三発電所(滝畑第一発電所)の写真があります。

 

 

この発電所はフランシス水車で発電し出力は120kwであったとのこと。

残念なことに、第四発電所とともに昭和28年9月25日の台風13号来襲による土砂崩れで導水路が流出、建物・機器が埋没して運転が出来なくなったとのことです。

 

第三発電所跡から上の集水マス?へ向かいます(白丸)。

落差は約65m、C地点です。

 

 

この集水マスは現在は遊歩道の位置づけで、蓋をして東屋にリフォームされていました。

 

 

 

400mmほどの出力管が残っています。

 

 

谷に向かって右側からは千石谷からの水

 

 

左側からは滝畑川からの水が「土管」で入ってきており、集めた水を一気に65m下へ落としていました。

 

 

よく見ると水を落としていた管のコンクリート製の枕(白丸)が見えます。

 

 

次にD地点に向かいます。

が、その途中で道路脇から土管が露出しているのが見えます。

 

 

D地点は荒滝の直上にあります。

 

 

まず取水し水を送り出す導水路。この先は岩をくりぬいたトンネルです。

 

 

そして対岸には御光谷から入ってくる導水路があります。

 

 

入ってくる導水路を、少し上から見た写真。

 

次は下の荒滝が見える所に回り込んで、導水路を見てみます。

 

 

右が御光谷、上からが滝畑川、左が下流です。

 

 

上流に向かって左岸には送り出しの導水路があります。

 

 

荒滝の直近になると断崖になってくるので、導水橋やトンネルが連続します。

 

 

そして荒滝。右岸に流入する導水路。

 

 

石積みで導水路が造られています。

 

 

Eの地点に向かいます。

 

 

橋のたもとで土管が露出しているところがあります。

 

本当は御光谷の取水口を見たいのですが、

現在はたぶんこれであろうというコンクリートがあるだけで、おおかたが流されてしまったそうですので、残念ながら見には行きませんでした。

 

今度はFの地点、

 

 

反対側の千石谷の取水口です。

 

 

しっかりとした造りで、残っていました。

 

 

次は第四発電所です。

この発電所は、第三発電所で使った水を再度取水し、もう一回使うという仕組みです。

 

 

先ほどと同じ写真ですが見返すと、これまでの取水口の中では一番強固な造りです。当然取水量が多いという事もあると思います。

 

 

マスの部分。Gの地点。

 

 

下をのぞくと管を支える枕がしっかり残っています。

第四発電所は、今では滝畑ダムの湖底になっています。

大正9年に営業運転開始。最大出力は82kw、導水路の延長は1450m、落差は40m、フランシス水車との事です。

 

途中、河内長野市史の写真の絵説きが、大同電力となっていたのにお気づきになったでしょうか。千早川水力電気は、大同電力と合併。戦争に入り昭和14年には日本発送電に統合。送電と発電が分離されるなどしながら、昭和25年ポツダム政令により関西電力の所管となりました。

 

エネルギーの大量消費時代や国策により、滝畑の水力発電は昭和28年の台風で潰れたまま復旧される事無く、その歴史を終えたのだと思います。

 

今回の見学を通じて、実用レベル・・・大電力の水力発電は滝畑では難しいことが良く解りました。

第三発電所は、大変な苦労をして岩をくりぬき石を積み上げ水路を造り、3つの川から水を集めてこないと安定的な運転が出来なかった。当然100年も前の発電所なのでエネルギーの変換効率は悪かったと思います。それにしても120kwと82kwです。落差はあるが水量が少ない場所だというのが結論と思います。

だたしこれは、大電力の消費には向かないだけあって、観光目的やマイクロ水力による送電線の不用化などのポテンシャルは十分にあると思います。

 

 

最後におまけで千石谷の更に奧にかつて相互タクシーの事業所がありましたが、ここでも水力発電が行なわれていました。

 

取水口

導水路

水を落とす管

 

導水路の延長はわずか100mほどと思います。

当然、発電量は少ないと思いますが、山の中での使い道を考えると大きなエネルギーだと思います。

 

資本主義経済のもとで利潤追求のために、大量生産・大量消費が行われています。エネルギーの大量消費そのものも考え直さなければならないのではないでしょうか。

大飯原発差し止め福井地裁判決では「人間が生きることと経済活動は天秤にはかけられない。国富とは豊かな国土に人間が生きることだ(だばなか訳)」としました。

 

河内長野市の豊かな自然、山と水を活かした街づくり、生活のあり方、先人の知恵、この土地を活かした小水力発電の答えがあると思います。

 

 

 

参考資料 河内長野郷土研究会誌 第44号 滝畑の灯火 安原幹也 

 

-福井地裁判決原文-

他方、被告は本件原発の稼動が電力供給の安定性、コストの低減につながると主張するが、当裁判所は、極めて多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いの問題等とを並べて論じるような議論に加わったり、その議論の当否を判断すること自体、法的には許されないことであると考えている。このコストの問題に関連して国富の流出や喪失の議論があるが、たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流出や喪失というべきではなく、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失であると当裁判所は考えている。